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甲府城跡(舞鶴城公園):武田の「館」から、石垣の「城」へ

山梨県甲府市の舞鶴城公園に行きました。朝から武田信玄ゆかりの地を巡り、塩山の恵林寺、甲府の武田神社、甲斐善光寺とまわって、最後の締めくくりが舞鶴城公園です。甲府駅のすぐ近くにあり、旅の終盤にふらっと寄れる距離感なのに、歩き出すと「ここが城の中心だった」というスケールがじわじわ伝わってきます。いまは公園として気軽に入れる場所ですが、もともとは城郭全体で約20haにも及ぶ広大な城だったそうで、都市の真ん中に“かつての要塞”が埋め込まれている感じがします。

この日いちばん頭に残っていたのは、武田信玄=城というイメージが薄い、という感覚でした。武田信玄の本拠は、いわゆる天守と高石垣を備えた「近世城郭」ではなく、堀と土塁で固めた館(いまの武田神社周辺)を中核にした世界です。展示で見た「館」という発想が、今日の自分の目線を決めていたのだと思います。そこから舞鶴城公園へ来ると、同じ“甲斐”でも、時代の価値観がまるごと切り替わる瞬間を体で理解できました。

甲府城は武田の城ではありません。武田氏滅亡後の甲斐は支配者が変遷し、豊臣秀吉の命によって築城されたとされます。関東の徳川家康に対抗する戦略拠点として重要だった、という説明もあり、ここが「地域の中心」ではなく「天下の配置図」の中で設計された城だったことが見えてきます。築城は羽柴秀勝や加藤光泰らが担い、最終的には浅野長政・幸長父子が完成させた、という流れが紹介されています。

だからこそ、ここに残る石垣が強烈です。武田神社周辺で感じた“土の防御”ではなく、“石の防御”。城内を歩くと、角度や積み方の違いで石垣の表情が変わり、同じ石なのに「威圧感」や「緊張感」が場所によって違うのがおもしろいです。案内では、石を割るための「矢穴」や、石に刻まれた印・線刻画など、築城現場の痕跡にも触れられていて、歴史が急に“人の手仕事”へ降りてくる感じがしました。

そして、公園としての現在は「失われたもの」と「復元されたもの」が混ざり合っています。明治期に廃城となり、多くの建物が取り壊され、勧業試験場として利用されたり、曲輪の一部に葡萄酒醸造所が置かれたりと、城は城としての役割を終えていきます。その後、1904年に城跡が「舞鶴公園」として開放され、近年の整備で門や稲荷櫓が復元された、といった経緯が語られています。いま目の前にある風景が「江戸の名残」だけではなく、「明治以降の都市の都合」も背負っていることが分かると、散歩が一段深くなります。

復元された稲荷櫓は、特に“城らしさ”を思い出させてくれる存在です。完成は2004年と比較的新しいのですが、白い壁と櫓の輪郭が石垣の上に立つだけで、城跡の空気がぐっと締まります。「昔はもっと建物があり、もっと立体的な城だったのだろう」と想像する導線になっていて、遺構中心の城跡を歩くときの“心の足場”になってくれる感じがしました。

一方で、「オベリスクのような城跡には似つかわしくない碑」、これが本当に強烈です。舞鶴城公園の謝恩碑は、恩賜林(明治天皇から山梨県に下賜された山林)への感謝を示すために建てられた記念碑で、意匠は古代エジプトのオベリスクを模したものだと明記されています。設計には伊東忠太や大江新太郎が関わり、大正期にかけて建設された、と説明されています。まさに「オベリスクのようなもの」という直感が正しかったわけで、城跡の中に突然“世界史の記号”が差し込まれるような違和感が生まれます。

なぜここにこれを置いたのか、と考えると、違和感は少しだけ別の顔になります。恩賜林は水害復興や県土保全にも関わる大きな出来事で、県民全体の記憶として刻みたかった。そのとき、甲府の中心にあり、誰もが目にする城址が選ばれたのは、象徴性としては分かりやすい判断だったのだと思います。実際、謝恩碑は恩賜林御下賜(1911年3月11日)を記念するもので、構造や寸法まで含めて丁寧に解説されています。

ただ、それでも「場所としての美学」は別問題で、モヤモヤも感じました。城跡は城跡で、石垣や曲輪の輪郭が語る歴史のリズムがあります。そのリズムの上に、別の時代の価値観がドン、と上書きされる。結果として舞鶴城公園は、豊臣政権の戦略拠点としての城、徳川期の政治拠点としての城、明治以降の都市施設としての公園、そして恩賜林の記憶を刻むモニュメント――そうした“レイヤーの重なり”そのものが見どころになっている気がしました。

この日の行程が、恵林寺から始まり、武田神社、甲斐善光寺を経て、最後に舞鶴城公園へ至ったのも象徴的です。武田信玄の世界を歩いてきた足で、武田の後に築かれた城の石垣に触れると、「歴史は断絶ではなく、次の権力が前の土地をどう“作り替えるか”で続いていく」ことがよく分かります。武田の“館”の感覚を持ったまま、この“石垣の城”に立てたことで、甲府という町が、戦国から近世、そして近代へ移る接続点だったことが、観光ではなく体験として腑に落ちました。

舞鶴城公園は、派手な天守が残っているタイプの城跡ではありません。けれど、石垣の線、曲輪の高低差、門跡の気配、そしてあの謝恩碑の“異物感”まで含めて、ここは「歴史が一枚岩ではない」ことを教えてくれる場所でした。城跡に合う・合わないという感想も含めて、歩いた人の目線そのものが、この場所の読み解き方になるのだと思います。

旅程

(略)

↓(徒歩)

放光寺

↓(徒歩)

旧高野家住宅 甘草屋敷

↓(徒歩)

塩山駅

↓(JR中央本線)

甲府駅

↓(徒歩)

武田神社

↓(徒歩)

武田信玄公墓所

↓(徒歩)

大泉寺

↓(徒歩)

甲斐善光寺

↓(徒歩)

甲府城跡(舞鶴城公園)

↓(徒歩)

甲府市藤村記念館(旧睦沢学校校舎)

↓(徒歩)

甲府駅

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