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首里金城町石畳道:琉球王国の面影をたどる石畳の坂道

沖縄県那覇市の首里金城町石畳道を歩きました。

この日は朝から日帰りで沖縄を観光していました。タクシーを貸し切り、ひめゆりの塔や玉泉洞、斎場御嶽などを巡った後、首里城でタクシーを降りました。ここからは徒歩での観光です。首里城、玉陵と見学し、そのまま首里城の南側にある首里金城町石畳道へ向かいました。

首里金城町石畳道は、首里城の南側の斜面を下っていく古い坂道です。現在残っている石畳は、琉球王国時代に首里から沖縄本島南部へ延びていた「真珠道(まだまみち)」の一部です。真珠道は1522年に整備されたとされ、かつては首里と周辺地域を結ぶ重要な道でした。現在見られる石畳には20~30センチほどの琉球石灰岩を組み合わせる「乱れ敷き」と呼ばれる方法が使われています。

首里城から南へ向かって歩き始めると、かなり急な坂が続きます。足元には不規則な形をした石が並んでいますが、隙間だらけという印象はなく、石同士がうまく組み合わされていました。本州の城を巡ったときに見る石垣にも通じるような、石を巧みに組み合わせる技術を感じます。

周囲には石垣や赤瓦の家、南国らしい植物があり、先ほどまで歩いていた首里城とはまた違った雰囲気です。現在もこの一帯では石畳や石垣、共同井戸などの歴史的な景観が残され、那覇市によって保存や修復が進められています。

坂道の途中から少しそれて、首里金城の大アカギにも寄りました。

住宅地の中とは思えないほど大きな木が立っており、その周囲にも沖縄らしい濃い緑の植物が生えています。内金城嶽の境内には推定樹齢200年以上とされるアカギの巨木が残り、1972年には国の天然記念物に指定されました。沖縄戦では首里周辺も大きな被害を受けましたが、この大アカギは戦災を免れました。住宅地の中にこれほど大きなアカギの群落が残る例は珍しく、現在も保護が続けられています。

再び石畳道へ戻り、坂を下っていくと金城村屋がありました。

「村屋」という名前から昔から残る建物なのかと思いましたが、現在の金城村屋は、首里金城地区の歴史や文化を伝えるとともに地域の交流に利用する施設として、1996年に整備されたものです。

中には龍が描かれた大きな円形のオブジェが飾られていました。石畳や赤瓦の風景の中を歩いてきたところで突然現れたため、かなり印象に残っています。

そのすぐ近くには金城大樋川があります。「樋川」という名前なので最初は川のようなものを想像しましたが、説明を見ると、かつて地域の人々が使っていた共同井戸でした。

沖縄では湧水や井戸を「カー」と呼び、生活に欠かせない場所として利用してきました。金城大樋川も岩盤の奥にある水脈から樋で水を引く給水施設で、かつては住民がここから水をくみ、それぞれの家へ運んでいました。現在は那覇市の史跡に指定されています。

首里城のような王国の政治の中心を見るだけでは、そこで暮らしていた人々の日常まではなかなか想像できません。しかし、城から続く古い道を実際に歩き、途中にある巨木や村の施設、共同井戸を見ていくと、琉球王国時代の首里が単独の「城」ではなく、その周囲に人々の生活する町が広がっていたことを感じられます。

特に金城大樋川は小さな史跡ですが、毎日ここまで水をくみに来ていた人々を想像すると、首里の歴史が王や城だけのものではなく、そこで生活してきた多くの人々の歴史でもあったことが分かります。

石畳道を歩いた後は首里を離れ、那覇国際通り商店街へ向かいました。朝から沖縄本島南部の史跡や観光地を巡った日帰り旅行もここでほぼ終了です。

首里城から何気なく歩き始めた坂道でしたが、500年ほど前に整備された古道を自分の足で下り、琉球王国時代から続く首里の町の痕跡をたどることのできる、印象に残る散策となりました。

旅程

羽田空港

↓(飛行機)

那覇空港

↓(タクシー)

ひめゆりの塔

↓(タクシー)

玉泉洞

↓(タクシー)

斎場御嶽

↓(タクシー)

知念岬公園

↓(タクシー)

首里城

↓(徒歩)

玉陵

↓(徒歩)

首里金城町石畳道

↓(徒歩)

那覇国際通り商店街

↓(徒歩)

県庁前駅

↓(モノレール)

那覇空港

地域の名物

  • ゴーヤチャンプルー
  • ラフテー
  • ソーキそば
  • 紅型(びんがた)
  • 壺屋焼(つぼややき)

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