スキップしてメイン コンテンツに移動

松阪神社:松坂城のふもとで感じる町の歴史

斎宮で博物館や復元史跡を見て回ったこの日、まだ少し時間が残っていたため、近くの松阪市まで足を延ばすことにしました。地図を見ると松坂城が駅からそれほど遠くなく、城下町らしい風景も楽しめそうだったので、松阪駅から松坂城跡の方面へ向かって歩きました。途中では御城番屋敷に立ち寄り、さらに本居宣長ノ宮にも参拝しましたが、そのすぐ隣に並ぶように松阪神社があったため、こちらにも自然と足が向きました。

松阪神社は、ただ城跡の近くにある神社というだけではなく、松阪の町の成り立ちそのものと深く結びついた神社です。古くは「意悲神社(おいじんじゃ)」と称し、その起こりは平安時代以前にさかのぼるとも伝えられています。さらに、天正16年(1588年)に蒲生氏郷が四五百森に松坂城を築いた際、この地の小社を城の鎮守と定め、新たに社殿を整えたとされます。つまり松阪神社は、松坂城と城下町の発展を見守ってきた存在でもあり、現在の静かな境内にも、城下町の記憶が折り重なっているように感じられました。

実際に歩いてみると、本居宣長ノ宮と並んで建つこの配置も印象的でした。本居宣長ゆかりの地として知られる松坂城周辺ですが、その一角に地域の鎮守としての松阪神社があることで、学問や文化の記憶と、町を守る信仰の場とが自然につながっているように思えます。松阪神社の境内には樹齢900年ともいわれる長寿樟があります。神社と宣長、城跡と城下町という、この土地らしい要素がごく近い範囲に重なっていることに、松阪という町の厚みを感じました。

私が訪れたとき、境内には拝殿だけでなく神楽殿や御神木もあり、思った以上に地域に根ざした神社という印象を受けました。神楽殿を前にすると、例祭や地域のお祭りのときには、ここがにぎやかな場になるのだろうかと想像が広がります。観光で訪れると、つい建物や史跡そのものに目が向きがちですが、こうした神社は、過去の歴史だけでなく、今もなお地域の暮らしとつながっている場所なのだと感じます。城や旧宅のような「保存される歴史」とは少し違い、祈りや祭りを通じて生き続ける歴史があるのだと思いました。

また、松阪神社の歴史をたどると、蒲生氏郷の後に松坂城主となった古田重勝が、自ら信仰する宇迦之御魂神を相殿に祀ったこと、さらに江戸時代にこの地が紀州藩領となってからは、歴代藩主の崇敬を受けたことも伝えられています。そして明治41年(1908年)には、周辺の神社が合祀されて「松阪神社」と改称され、現在の姿につながっていったそうです。一つの神社の由緒を知るだけでも、戦国時代の築城、江戸時代の藩政、明治期の制度改革まで見えてくるのが興味深く、短い立ち寄りでも歴史の奥行きを感じることができました。

今回は、本居宣長ノ宮側の鳥居から入り、参拝とおみくじを済ませたあと、帰りは松阪神社側の参道と鳥居を通って外へ出ました。同じ神社でも、入る向きと出る向きが違うだけで印象が少し変わるのがおもしろいところです。行きは本居宣長ノ宮から続く静かな流れの中で神社に入ったように感じましたが、帰りは参道を抜けて松坂城のある本居宣長記念館へ向かうことで、城下町の歴史の中へ戻っていくような感覚がありました。御城番屋敷、本居宣長ノ宮、そして松阪神社と歩いてきた道のりが、ばらばらの観光地ではなく、一つの町の歴史の層としてつながって見えてきたのです。

松阪というと松阪牛の印象が強いかもしれませんが、実際に歩いてみると、戦国の築城、江戸の城下町、国学者・本居宣長の学問、そして地域の信仰が、とても近い距離の中に重なっている町だと分かります。松阪神社は、その中心で町を静かに見守ってきた場所なのでしょう。斎宮からの流れで思いがけず立ち寄った神社でしたが、だからこそ旅先で偶然出会う場所の面白さをあらためて感じました。大きな観光施設のような派手さはなくても、町の記憶を丁寧に受け止めるには、こういう場所こそ大切なのだと思います。

旅程

東京

↓(新幹線/JRみえ/近鉄)

斎宮駅

↓(徒歩)

斎宮跡

↓(徒歩)

塚山古墳群

↓(徒歩)

斎宮歴史博物館

↓(徒歩)

斎王の森

↓(徒歩)

さいくう平安の杜

↓(徒歩)

竹神社

↓(徒歩)

斎宮駅

↓(近鉄)

松阪駅

↓(徒歩)

御城番屋敷

↓(徒歩)

本居宣長ノ宮

↓(徒歩)

松阪神社

↓(徒歩)

本居宣長記念館

↓(徒歩)

(略)

周辺のスポット

リンク

コメント

このブログの人気の投稿

斎宮歴史博物館:柵列の間をくぐり抜け、古代国家の祈りに触れる、祈りの都が農村へ変わるまで

斎宮跡を歩いたあと、その流れのまま斎宮歴史博物館へ向かいました。駅前から感じていた木造風の意匠や、整えられた景観の延長線上に、この博物館の落ち着いた佇まいがあり、ここでようやく「斎宮」という言葉が指す世界の輪郭を、資料と展示で掴めそうだと思いました。斎宮は史跡としては広々としていて、当時の建物がそのまま立ち上がっているわけではありません。その分、見学者の頭の中で想像を補う余地が大きいのですが、博物館はその空白を、根拠と手触りのある情報で丁寧に埋めてくれる場所でした。 ちょうど特別展「天地(あめつち)の神を祈りて-伊勢神宮、そして斎宮-」が開催されており、展示室に入ると、ここが古代から信仰の重要な舞台だったことを、古墳時代の出土品などの実物資料を通して実感できました。伊勢神宮が成立していく過程、そこに斎宮・斎王という制度が結びついていく必然性が、単なる言葉の説明ではなく「この土地から出てきたもの」と一緒に語られるので、歴史がふわっとした神話のように遠ざからず、現実の地層の上に積み上がった出来事として迫ってきます。斎宮跡を先に見ていたからこそ、「あの広い区画が、ただの空き地ではなく、国家的な祈りを担う装置だったのだ」という感覚が、じわじわと身体に染みてきました。 特別展のあとに常設展を見ていくと、展示室が二つに分かれている構成が分かりやすく、斎宮という存在を別々の角度から立体的に捉えられるようになっていました。展示室1のテーマは「文字からわかる斎宮」です。延喜式のレプリカが示す制度としての斎宮、そして源氏物語、栄華物語、大和物語といった文学作品の中に現れる斎宮や斎王の姿が並ぶと、斎王がただの宗教的存在ではなく、宮廷文化の文脈の中でも強く意識された存在だったことが見えてきます。文学の中の斎王は、歴史の事実だけでは捉えきれない感情や視線をまとっていて、制度の説明とは違う温度で当時の人々の心情を想像させます。 さらに、文字が書かれた土器や印といった資料も展示されていて、「斎宮は祈りの場」という一言では片づかない、運用のための事務や情報のやりとりが確かにあったことが伝わってきました。展示の中には、武官や男女の子どもの等身大人形と当時の衣装があり、そこに復元された葱華輦(そうかれん)や斎王の居室の再現も続きます。文字資料を中心とする展示室1なのに、こうした視覚的・空間的な復元がし...

新島旧邸:京都の町なかで思いがけず出会った特別公開

京都文化博物館に行くために京都市に来たこの日、私は開館までの時間を使って京都御苑を歩いていました。ところが、京都御苑は思っていた以上に見どころが多く、閑院宮邸跡や京都御所、桂宮邸跡などを見て回っているうちに、気づけばかなりの時間が過ぎていました。少し急ぎ足で京都文化博物館へ向かっていた途中、ふと目に入ったのが「新島旧邸 特別公開中」という文字でした。その瞬間、「あの新島だろうか」と思って案内を見ると、やはり同志社の創立者として知られる新島襄の旧邸でした。まったく予定していなかった立ち寄りでしたが、こうした思いがけない出会いも旅の大きな魅力です。入り口のスタッフの方に尋ねると、毎週土曜日は特別公開の日で、建物の内部も見学できるとのことでした。ここまで予定以上に時間を使ってしまっていましたが、せっかくの機会なので見学することにしました。 新島襄は、明治時代の日本において近代的な教育の実現を目指した人物として知られています。海外で学び、キリスト教や欧米の教育思想に触れた新島襄は、帰国後に京都で同志社英学校を創立し、日本の新しい教育のあり方を切り開こうとしました。その新島襄が暮らした旧邸が、京都の町なかに今も残されていること自体、とても貴重なことだと思います。しかも、この建物は単なる住まいではなく、新しい時代の思想や暮らし方を映し出す場でもあったのでしょう。明治という、和と洋、伝統と近代が激しく交差した時代の空気を、建物そのものから感じ取ることができるように思えました。 最初に見た日本風の附属屋は、落ち着いた雰囲気の建物でした。展示品もありましたが、同志社社史資料センター所蔵資料のレプリカが中心だったようで、いつか訪れてみたいと思っていた資料センターの予習のような時間にもなりました。この附属屋は新島襄の両親のために建てられたものだそうで、そのことを知ると建物の見え方も変わってきます。新しい時代の教育を志し、西洋の知識を積極的に取り入れた新島襄ですが、その一方で家族を大切にし、日本的な暮らしの空間もきちんと用意していたことが伝わってきます。近代化というと、何かを一方的に捨てて新しいものに入れ替えるような印象を持ちがちですが、実際にはこうして古いものと新しいものを併せ持ちながら進んでいったのだろうと感じました。 続いて見学した母屋は洋風の造りで、附属屋とはまた違った魅力がありま...

寺田倉庫G1ビル:NAKED meets ガウディ展:“作品鑑賞”ではなく“思考体験”としてのガウディ

東京都品川区の寺田倉庫G1ビルで開催された「NAKED meets ガウディ展」に行きました。2月11日の午後に一度訪れたときは、想像以上の人気で入場が3時間待ちになってしまい、その日は予定を変更して引き返しました。せっかくなので仕切り直し、別の日の朝10時少し前に再訪すると、この時間でもすでに人が多く、入口を抜けた先のエレベーター前でしばらく待つことになりました。展覧会が始まる前から熱量が伝わってきて、「ガウディは“作品”というより“体験”として見られているのかもしれない」と思いながら列に並びました。 会場に入ると、まずガウディの生涯が簡潔に紹介されます。19世紀後半から20世紀初頭のバルセロナは、産業の発展とともに都市が急速に膨張し、同時にカタルーニャ独自の文化が芸術へと結晶していった時代でした。いわゆるモデルニスモ(カタルーニャ・モダニズム)の潮流の中で、ガウディは歴史主義や装飾の流行に回収されない、自然の秩序そのものを建築へ翻訳するような道を選びます。その入口として、この展覧会は「自然から得た造形美」を前面に出していました。 印象的だったのは、自然物と建築部位を並べて見せる導入です。「小麦」とサグラダ・ファミリア上部の塔、「にんにく」とカサ・バトリョの換気塔、「糸杉の円錐」とベリュスグアルドの塔、「キノコ」とグエル公園の煙突、「樹の柱」とサグラダ・ファミリア内部の柱、「ハチの巣」とカサ・カルベットの覗き穴といった対応関係が、説明とレプリカ展示で示されていました。ここで面白いのは、自然を“模倣”するというより、自然の形が生まれる理屈や強度のあり方を“借りている”ように感じられる点です。曲線は気まぐれな装飾ではなく、重さを受け流し、光を導き、空間を育てるための構造そのものなのだと、最初のコーナーだけでも伝わってきました。 次のコーナーでは、バルセロナ来訪後のガウディの作品が、少し変わった見せ方で並びます。壁面にエル・カプリチョ、カサ・ビセンス、グエル邸、アストルガ司教館、カサ・ボティネスなどのファサードが立体的に配置され、そこにプロジェクションマッピングのような映像が流れていました。建物を単体で鑑賞するというより、街の中で呼吸し、時間とともに表情を変える“都市の一部”として体感させる構成で、バルセロナの通りを歩きながら次々に建築に出会う感覚がうまく再現されている...