三重県松阪市にある本居宣長記念館に行きました。
この日は朝から斎宮で、博物館や復元史跡などを見ていました。斎宮では、古代の制度や伊勢神宮との関わりを学ぶことができ、かなり充実した時間を過ごしましたが、まだ少し時間があったため、そのまま近くの松阪市まで移動することにしました。地図を見ると松坂城が駅の近くにあり、その周辺にも見どころが集まっていたので、御城番屋敷、本居宣長ノ宮、松阪神社に立ち寄りながら、目的地である本居宣長記念館に向かいました。
本居宣長という名前は、歴史の授業などで聞いた記憶があり、なんとなく学問の神様のような存在という印象も持っていましたが、実際に何をした人物なのかはよく知りませんでした。そのため、今回の見学は、名前だけ知っている人物の実像に触れるよい機会になりました。
本居宣長記念館は、展示を行う博物館と、本居宣長が暮らした旧宅「鈴屋」から成っています。まずは博物館から見学しました。館内に入って最初に見た紹介映像がとても分かりやすく、そこで本居宣長の最大の業績が『古事記伝』であることを知りました。『古事記伝』は、日本最古の歴史書のひとつである『古事記』を長年にわたって読み解き、注釈を加えた大著です。江戸時代には中国の思想や仏教の影響を受けた学問が広く行われていましたが、宣長はそうした外来の思想を通してではなく、日本の古典そのものに立ち返って日本人の心や感性を探ろうとしました。その姿勢は国学を代表するものとして知られており、後世にも大きな影響を与えています。
また、映像の中で印象に残ったのが、宣長の旧宅である鈴屋が、現代で言うサロンのような場になっていたという話でした。学問というと、机に向かって一人で静かに研究するイメージがありますが、実際には人が集まり、語り合い、学び合う場所でもあったことが分かります。江戸時代の地方都市に、そのような知的交流の場が存在していたと思うと、とても興味深く感じました。
二階の展示室へ向かう途中には、宣長が十七歳ごろに描いたという「大日本天下四海面図」のコピーが展示されていました。若いころにこれほど大きな視野で日本を捉えようとしていたことに驚かされます。しかも、単なる思いつきではなく、地理や世界への関心が早くから育っていたことが感じられました。二階には本物も展示されており、若き日の知的好奇心の強さを実感しました。
展示室では、まず医者としての本居宣長の姿が紹介されていました。宣長は学者として有名ですが、生活の基盤は医業にありました。実際に使っていた鞄なども展示されており、書物の中の偉人ではなく、日々患者と向き合っていた一人の町医者としての姿が見えてきます。学問の世界で大きな仕事を成し遂げた人でありながら、現実の生活に根ざしていたことが感じられ、そのことがかえって宣長を身近な存在に思わせました。
その後の展示では、賀茂真淵との出会いが大きく取り上げられていました。本居宣長にとって、賀茂真淵との出会いは人生を決定づけるものだったようです。浜松での対面は「松坂の一夜」とも呼ばれ、国学史の中でもよく知られています。宣長は『古事記』を研究したいという思いを持っていましたが、真淵はそのためにはまず『万葉集』から学ぶべきだと助言しました。古代の言葉や感性を理解するためには、土台となる文学をしっかり読み込む必要があるということだったのでしょう。その教えを受けて、宣長は地道に学問を積み重ね、最終的に『古事記伝』の完成まで三十四年をかけています。一つの大きな仕事にそれほど長い年月を注ぎ込む姿勢には、ただ感心するしかありませんでした。
しかも宣長は『古事記伝』だけを書いたわけではありません。展示を見ると、『古今和歌集』をはじめ、さまざまな古典に注釈を加え、多くの著作を残していたことが分かります。一つの代表作だけで歴史に名を残す人も多い中で、これほど幅広い仕事を積み重ねていたことに驚きました。学問への情熱と、それを形にして残す粘り強さは並大抵のものではなかったと思います。
また、鈴屋には多くの門人が集まり、宣長のもとで学んでいたそうです。地方の一学者の家が、全国につながる知の拠点になっていたというのは非常に面白いことです。展示では、「べらぼう」で有名になった蔦屋重三郎も、宣長の書物を扱うために訪れたと紹介されていました。出版文化の担い手までこの地を訪れていたことからも、宣長の存在が松阪の町にとどまらず、江戸の文化や知の流通とも深く結びついていたことがうかがえます。学問は閉じた世界のものではなく、人や本の流れの中で広がっていくのだと改めて感じました。
さらに興味深かったのは、宣長が各地を旅し、その記録を多く残していたことです。出雲などへの旅の記録が書物の形で残されており、単なる移動ではなく、見聞そのものが学問につながっていたことが分かります。実際にその土地を歩き、神話や古典に関わる場所に触れ、自分の目で確かめることは、宣長にとってとても重要な営みだったのでしょう。自分自身も各地の史跡や博物館を訪ねて歩くことが好きなので、こうした旅と学びの結びつきには強く共感しました。
博物館を一通り見たあと、本居宣長旧宅の鈴屋へ向かいました。現在、鈴屋は松坂城跡の敷地内に移築保存されています。もともとは別の場所にあったそうですが、こうして今もその姿を見られるのはありがたいことです。実際に見てみると、豪壮な屋敷という感じではありませんが、二階もあり、畳敷きの部屋や台所も備わっていて、当時としてはしっかりした家だったのだろうと思いました。質素でありながら、生活と学問がきちんと両立していた空間のように感じられます。
特に印象に残ったのは、やはり「鈴屋」という名の由来にもなった二階の書斎の存在を思わせることでした。今回は残念ながら二階に上がることはできませんでしたが、そこで宣長が古典を読み、考え、書き続けていたのかと思うと、それだけでこの場所の見え方が変わります。派手さのない空間から、日本の古典研究における大きな仕事が生み出されたという事実に、深い重みを感じました。
いま鈴屋が置かれている場所は、松坂城跡の中でも見晴らしのよい一角で、周囲の落ち着いた雰囲気も含めて、とてもよい環境でした。城跡の中に学者の旧宅があるというのも不思議な取り合わせですが、松阪の町の歴史の厚みを感じさせます。武家の歴史を伝える城跡と、町人であり医師であり学者でもあった本居宣長の旧宅が同じ空間にあることで、この土地がさまざまな文化の層を持っていることがよく分かりました。
今回、本居宣長記念館を訪れて、これまで名前だけ知っていた本居宣長が、一気に具体的な人物として立ち上がってきました。学問の人でありながら医師でもあり、多くの人が集う場をつくり、旅を重ね、長い年月をかけて古典に向き合った人でした。古典研究というと堅苦しい印象もありますが、宣長の歩みを見ていると、そこには人との出会いや日々の暮らし、土地へのまなざしがしっかりと結びついていたことが分かります。
斎宮から松阪へと足を延ばした一日の途中で、この記念館を訪ねることができたのは、とてもよい体験でした。古代の制度を伝える斎宮を見たあとに、江戸時代の国学者である本居宣長の仕事に触れることで、日本の歴史や文化が時代ごとに連なっていることを改めて感じました。松阪という町は、城下町としての顔だけでなく、学問や文化の面でも豊かな蓄積を持っているのだと思います。記念館と鈴屋を見たあと、私はそのまま松坂城跡の探索に向かいましたが、そのときには城を見る目も、町を見る目も、少し変わっていたように思います。
旅程
東京
↓(新幹線/JRみえ/近鉄)
斎宮駅
↓(徒歩)
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塚山古墳群
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↓(徒歩)
↓(徒歩)
↓(徒歩)
↓(徒歩)
斎宮駅
↓(近鉄)
松阪駅
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↓(徒歩)
↓(徒歩)
本居宣長記念館/鈴屋
↓(徒歩)
松坂城跡
↓(徒歩)
(略)
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