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松坂城跡:石垣と広場に残る、かつての城の気配

この日は朝から斎宮で、博物館や復元史跡などを見てまわっていました。想像していた以上に充実した時間を過ごせましたが、それでもまだ少し余裕があったため、そのまま近くの松阪市まで足を延ばすことにしました。地図を見ると松坂城跡が駅からそれほど遠くなさそうだったので、城跡を目指して歩き始めました。途中では御城番屋敷、本居宣長ノ宮、松阪神社、本居宣長記念館にも立ち寄り、松阪の町がただの城下町ではなく、武家の町であり、学問や信仰の町でもあったことを少しずつ感じながら進みました。

松坂城跡に着いてまず印象に残ったのは、城全体が周囲の町よりも高い場所に築かれていることでした。天守閣は復元されていませんが、そのぶん石垣の存在感が際立っており、城としての骨格が今もはっきり残っているように思えました。派手な復元建築がないからこそ、かえって地形や縄張り、石垣の積み方といった、城そのものの構造に目が向きます。戦国時代の城跡を歩いていると、建物の豪華さよりも、まず「ここにどう守りを築いたのか」を想像する面白さがありますが、松坂城跡はまさにそうした楽しみ方に向いた場所でした。

本丸に入ると、そこは広い広場のようになっていました。大規模に建物を復元して観光地化しているわけではありませんが、植えられている木々はきれいに手入れされ、地面もよく掃き清められていて、とても落ち着いた雰囲気でした。豪華絢爛というより、質素で静かな美しさがあり、むしろそれが日本の城跡らしい魅力になっているように感じました。かつての大木の切株も、ただ残されているのではなく、風景の一部として不思議とよくなじんでおり、長い年月の積み重なりを自然に思わせてくれました。城跡というと、どうしても失われた建物に意識が向きがちですが、ここでは「失われたもの」よりも「今も丁寧に守られている空間」そのものが印象に残りました。

さらに天守閣があった場所は、本丸よりも一段高い天守台になっていました。そこに立って見下ろすと、本丸の広がりや石垣の配置がよく分かり、下から見たとき以上に、この城がきちんと考えて築かれていたことが伝わってきます。現在、松坂城跡は石垣がよく残る城跡として知られていますが、もともとは本丸西隅の天守台に三層の天守が建っていたとされ、江戸前期の正保元年(一六四四)に大風で倒壊した記録が残っています。また、この城は天正十六年(一五八八)に蒲生氏郷によって築かれた平山城で、本丸・二の丸・三の丸から成り、高い石垣と堀を備えた城でした。

正直なところ、松阪の城主についてはそれまでほとんど記憶がありませんでした。蒲生氏郷の名を聞いても、子どものころに遊んだ『信長の野望』で見たことがある武将、というくらいの印象しかありませんでした。しかし、このあと訪れた松阪市立歴史民俗資料館で、松坂城がその蒲生氏郷の城であることを知り、この城跡の見え方が少し変わりました。氏郷は単に城を築いただけではなく、松ヶ島城下から伊勢街道を引き寄せ、商工業を意識した城下町整備を進めた人物でもありました。松阪が後に商人の町として発展していく基礎には、こうした氏郷の町づくりがあったとされています。

そう思って城跡の周辺を振り返ると、途中で見てきた御城番屋敷や本居宣長に関係する史跡、神社、資料館なども、それぞれ別々の見どころではなく、松阪という町の重なり合った歴史の一部として見えてきます。戦国期に築かれた城と城下町の骨格があり、その上に江戸時代の商人文化が栄え、さらに国学者・本居宣長のような学問の系譜も重なっていく。松坂城跡は、そうした松阪の歴史全体の入口のような場所なのだと感じました。城そのものだけを見ても十分に味わいがありますが、周辺の町歩きとあわせることで、より立体的に楽しめる城跡だと思います。

また、松坂城跡には、目を引く天守や櫓が復元されていないからこその良さもありました。復元建築がある城はもちろん見ごたえがありますが、松坂城跡では石垣、地形、広場、木々、空の広がりといった要素が主役になっています。そのため、観光施設を見るというより、自分の足で城の空間を読み解いていく感覚がありました。派手さはありませんが、その静けさの中で、かつてここに城があり、政治と軍事と町づくりの中心だったことを想像する時間は、とても贅沢でした。現在の松坂城跡は国指定史跡で、平成期には石垣修復や整備が進められ、日本百名城にも選ばれていますが、そうした保存の積み重ねがあるからこそ、この落ち着いた景観が保たれているのだと思います。 

斎宮からの寄り道のつもりで訪れた松阪でしたが、結果としてとても印象に残る時間になりました。城跡を一通り歩き終えたあと、次の目的地である松阪市立歴史民俗資料館へ向かいましたが、その前にこの城跡を歩いていたことで、資料館で見る展示もより深く理解できたように思います。松坂城跡は、壮大な復元天守を期待して行く場所ではないかもしれません。しかし、石垣の力強さ、手入れの行き届いた本丸の静けさ、そして松阪の歴史の出発点としての重みを感じられる、とてもよい城跡でした。華やかさよりも、土地に積み重なった歴史そのものを味わいたい人には、特に心に残る場所ではないかと思います。

旅程

東京

↓(新幹線/JRみえ/近鉄)

斎宮駅

↓(徒歩)

斎宮跡

↓(徒歩)

塚山古墳群

↓(徒歩)

斎宮歴史博物館

↓(徒歩)

斎王の森

↓(徒歩)

さいくう平安の杜

↓(徒歩)

竹神社

↓(徒歩)

斎宮駅

↓(近鉄)

松阪駅

↓(徒歩)

御城番屋敷

↓(徒歩)

本居宣長ノ宮

↓(徒歩)

松阪神社

↓(徒歩)

本居宣長記念館/鈴屋

↓(徒歩)

松坂城跡

↓(徒歩)

松阪市立歴史民俗資料館

↓(徒歩)

(略)

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