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上野東照宮:上野に残る黄金の社殿と江戸の記憶

東京都台東区の上野東照宮に行きました。

この日は東京都美術館で特別展を見たあと、まだ少し時間に余裕がありました。上野恩賜公園の中には何度も来ていますが、上野東照宮には行ったことがなかったような気がしたため、立ち寄ってみることにしました。

ところが参道を歩いていくと、神楽殿や五重塔の景色に見覚えがあります。どうやら以前にも何度か訪れていたようで、実際に歩いてみてようやく思い出しました。何度も歩いている上野公園ですが、美術館や博物館を目的に訪れることが多いため、周囲の史跡については意外と記憶が曖昧になっているようです。

訪れたとき、五重塔は工事中でした。工事用の塀に囲まれていましたが、一部分だけ透明になっており、そこから塔を見ることができるようになっていました。この五重塔はもともと上野東照宮の塔として、寛永8年(1631年)に土井利勝によって建立されました。一度火災で焼失したものの寛永16年(1639年)に再建され、明治時代の神仏分離の際には寛永寺の所属とすることで取り壊しを免れました。その後、1958年に東京都へ寄贈され、現在は上野動物園の敷地内に残されています。

そのまま参道を進んでいくと、奥に金色に輝く唐門が見えてきました。上野東照宮は寛永4年(1627年)、徳川家康を祀る「東照社」として創建され、正保3年(1646年)に東照宮の宮号を授けられました。現在残っている社殿や唐門、透塀は、慶安4年(1651年)に三代将軍徳川家光によって造営されたものです。江戸の人々が遠く日光まで行かなくても家康を参拝できるよう、日光東照宮にならった豪華な社殿が造られたといいます。

まずは唐門の前で参拝しました。金色を基調とした門は非常に華やかで、上野公園の緑に囲まれた場所に突然、江戸時代の豪華な建築が現れたようにも感じられます。周辺には多くの灯籠が並んでいました。現在の社殿が造営された際には全国の大名から約250基もの灯籠が奉納されたそうで、現在も銅灯籠48基をはじめ、多くの灯籠が残されています。

周囲の銅灯籠などを撮影していると、唐門の右手に有料拝観の案内があることに気がつきました。せっかくなので拝観料を払い、中に入ってみることにしました。

中へ入ると、社殿を囲む透塀を間近で見ることができます。朱色を基調としながら、緑色の格子や金色の装飾が組み合わされ、さらにさまざまな動植物の彫刻が施されていました。透塀には内外両面を合わせて250枚以上もの動植物の彫刻があるそうです。華やかな金色の社殿だけに目を奪われがちですが、こうした細部まで観察すると、江戸初期の装飾技術の細かさがよく分かります。

その奥にある社殿は「金色殿」とも呼ばれ、その名の通り金色を基調とした非常に華やかな建物でした。拝殿、幣殿、本殿からなる権現造で、壁面や彫刻にも金箔や鮮やかな彩色が施されています。唐門を外から眺めるだけでも十分に印象的ですが、透塀の内側まで入ると、金色殿をより近くから見ることができ、外から参拝したときとはかなり印象が変わりました。

この社殿が江戸時代初期からそのまま残っていることにも驚かされます。幕末の上野戦争では周囲の寛永寺の建物の多くが焼失しましたが、上野東照宮には火が及びませんでした。さらに関東大震災にも耐え、東京大空襲では社殿のすぐ裏に落ちた焼夷弾が不発だったため、焼失を免れています。現在の上野公園は美術館や博物館、動物園が集まる文化施設の街という印象が強いですが、その中に17世紀の建築が残っている背景には、こうしたいくつもの偶然がありました。

金色殿の前でも参拝し、もう一度装飾を眺めてから上野東照宮を後にしました。

上野公園には何度も来ているので、今回は軽く立ち寄る程度のつもりでした。しかし実際に透塀の内側まで入ってみると、江戸時代初期の建築や彫刻を間近で見ることができ、これまでとは違った場所に来たように感じられました。特に、美術館で作品を見た直後だったこともあり、社殿や門に施された彫刻や彩色も一つの美術作品のように見えてきました。

まだ少し時間が残っていたため、このあとは上野を離れず、考古学の歴史に関係する「弥生式土器ゆかりの地」の碑にも寄ってみることにしました。

旅程

上野広小路駅

↓(徒歩)

東京都美術館

↓(徒歩)

上野東照宮

↓(徒歩)

「弥生式土器ゆかりの地」碑

↓(徒歩)

東大前駅

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