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東京藝術大学大学美術館:「藝大式 美術の“ミカタ”―この夏、藝大生になる―」

東京都台東区の東京藝術大学大学美術館に行きました。


今回の目的は、展覧会「藝大式 美術の“ミカタ”―この夏、藝大生になる―」です。東京藝術大学の講義を体験するような構成になっており、1限目から12限目まで、それぞれ異なるテーマで美術を学んでいきます。2026年から2028年まで毎夏開催されるシリーズの第1回で、東京藝大の教員による講義を、美術館の展示として体験するという面白い試みです。


1限目は「まねぶ美術館」でした。「学ぶ」の語源の一つとして「真似ぶ」が挙げられるように、ここでは模写を通して美術を学ぶことがテーマになっていました。

黒田清輝が模写したレンブラントの《トゥルプ博士の解剖講義》などが展示されていましたが、特に印象に残ったのは、実際に学生たちが会場で模写をしていたことです。「現在8日目」「現在11日目」といった表示があり、一つの作品を模写するために想像以上の時間をかけていることに驚きました。

美術というと、才能のある人が感覚的に描くものという印象を持ちがちですが、模写は作品の構図、色彩、筆遣いなどを一つずつ分析し、自分の手で再現していく学習方法でもあります。作品を見るだけでは気づかないことを、作る側に回ることで理解していくのでしょう。


2限目は「西洋美術に出会った日本」です。

幕末から明治にかけて、日本では西洋画の技法が本格的に学ばれるようになります。展示には、幕末に来日したイギリス人画家チャールズ・ワーグマンや、日本の初期洋画家たちに関する作品が並んでいました。

ここで五姓田という名前を見て、少し前に横浜美術館で作品を見た渡辺幽香を思い出しました。渡辺幽香は初代五姓田芳柳の娘で、五姓田義松の妹です。義松はワーグマンから西洋画を学んだ人物でもあり、五姓田家は日本の洋画黎明期に重要な役割を果たしました。

横浜美術館では女性画家の活躍という観点から渡辺幽香を見ましたが、今回は、その父や兄を含めた日本の洋画受容の歴史の中で五姓田家を見ることになりました。同じ人物や時代を別の博物館、美術館で違う角度から見ることで、少しずつ知識がつながっていきます。まだ美術を学び始めたばかりですが、このような瞬間はなかなか楽しいものです。


3限目は「東京藝大で教わる西洋美術の見かた」で、ラグーザ玉が取り上げられていました。

「ラグーザ」と聞いたとき、最初にシチリア島の都市ラグーザを思い出しました。しかし、ラグーザ玉のラグーザは、夫となったイタリア人彫刻家ヴィンチェンツォ・ラグーザの姓です。

ヴィンチェンツォ・ラグーザは1876年に工部美術学校の教師として来日し、日本に西洋彫刻を伝えた人物です。ラグーザ玉は彼から洋画を学び、結婚後は夫とともにイタリアへ渡りました。生活したのはシチリア島のパレルモで、高等美術工芸学校の教授も務めています。結果的には、やはりシチリアと深い関係のある人物でした。

展示されていた《春》では、特にレースの表現が印象に残りました。油絵の具の細かな凹凸に光が反射し、本物の布を見ているように感じられます。「ファンシー・ピクチャー」と呼ばれる女性や子どもを魅力的に描く絵画の形式も取り入れ、自分が女性画家であることも意識しながら作品を制作していたという説明も興味深いものでした。


4限目は岡倉天心の『茶の本』です。

岡倉天心は東京美術学校、現在の東京藝術大学の成立にも深く関わった人物です。その後、日本美術院を創設し、ボストン美術館でも活動しました。1906年にはニューヨークで英文の『The Book of Tea(茶の本)』を出版し、茶を通して西洋に日本や東洋の思想を紹介しています。

当時、西洋では日本について武士や武術という側面が注目されることも多い時代でした。それに対して、茶道を単なる飲茶の習慣ではなく、美や生活の思想として紹介しようとしたところが興味深く感じました。

現在も世界各地で戦争や対立が続いています。武力が再び大きな意味を持つ時代になりつつあるように感じるからこそ、美術や文化を通して人間を見るということにも意味があるのかもしれません。この展覧会そのものも、東京藝大なりの方法で、美術や芸術が社会に果たす役割を伝えようとしているように感じました。


5限目は「古典模写」で、日本美術の模写が紹介されていました。

国宝や重要文化財を題材にした学生たちの模写は、単に描かれているものをコピーするだけではありません。紙のしわや傷み、経年変化によって生じたと思われる割れまで再現されていました。

「上げ写し」という技法についても映像で紹介されていました。見ているだけでも驚くほど地道な作業で、しかも一日で進められる量はごくわずかです。

1限目の西洋画の模写と合わせて見ると、西洋画でも日本画でも、優れた作品を徹底的に観察し、自分の手で再現することが美術教育の重要な方法であることが分かります。


6限目は「模刻から学ぶ仏像の保存修復」でした。

ここは今回の展覧会の中でも、特に自分が持っていた芸術のイメージが変わったところです。

仏像の外形を再現するだけでなく、内部がどのような構造になっているのかを調査し、保存や修復に役立てていました。現在では3Dスキャンなどの技術も使われています。

展示を見ていると、美術というより科学的な研究を見ているような感覚になりました。

もちろん、科学的な分析だけで文化財を修復できるわけではありません。素材についての知識、彫刻技術、美術史、過去の修復記録などが組み合わされ、そこに3D計測などの現代技術が加わります。

普段、博物館で何気なく見ている仏像や文化財も、このような研究と保存修復の積み重ねによって、現在まで残されているのだと分かりました。


7限目は「藝大美術館に住む動物たち」です。

動物を描いた絵画や彫刻が並んでいました。鍬形蕙斎の『鳥獣略画式』も展示されていましたが、写実性を追求したものというより、特徴をうまくとらえた、どこかかわいらしい動物が多かったのが印象的でした。


8限目では鑑賞者の行動データなどを解析していました。

普段の自分であれば、エンジニアという仕事柄、こうしたデータ分析にはかなり興味を持ちそうです。しかし、この日はなぜかあまり興味が湧かず、そのまま次へ進みました。

絵を見ているときは、仕事とは違う脳を使っているのかもしれません。単にこの日の気分だった可能性もあります。


9限目は「大正~昭和初期 東京の文化的変容」です。

ここは歴史的なテーマなので興味を持つだろうと思っていましたが、予想以上に一つ一つの作品を見ることになりました。

五味清吉の《大国主命と八上姫》は日本神話を題材にしています。しかし、薄い衣をまとった人物や、木にもたれかかる女性の姿を見ていると、どこかギリシャ神話を描いた西洋絵画のようにも感じられました。

長田満也の彫刻《春風》も面白い作品でした。髪型や下半身の衣服には日本や東アジアらしさがありますが、上半身を裸にして堂々と立つ姿には西洋彫刻のような印象があります。

明治以降、日本の美術家は単純に西洋美術をコピーしたのではなく、西洋から学んだ表現と、それまでの日本の文化をどう組み合わせるかを模索しました。9限目には、その試行錯誤が作品として現れているものが多く、歴史の説明以上に作品そのものに興味を引かれました。


10限目は藤田嗣治です。生誕140年を記念して、作品だけでなくさまざまな資料も展示されていました。


11限目は中国人留学生の胡根天についてでした。

胡根天は東京美術学校で岡田三郎助、藤島武二、和田英作らに西洋画を学び、帰国後は広州市市立美術学校の創設に関わりました。東京で学んだ中国人留学生たちが帰国後、中国の近代美術教育に関わったという歴史があります。

近代日本は西洋から美術を学びましたが、日本で学んだ留学生がさらに中国へ技術や教育方法を持ち帰っています。文化は一方向に伝わるのではなく、人の移動によって複雑につながっていくことが分かります。


そして12限目は「ゴッホがつなぐ日本と西洋の版画」でした。


ゴッホという名前が大きく出ていますが、内容としては銅版画についての展示という印象でした。ゴッホやレンブラントなどの版画に加え、版画を刷るための印刷機も展示されていました。



その印刷機は、ゴッホと親交のあった医師ポール=フェルディナン・ガシェが所有していたものです。ゴッホとの関係を想像したくなる資料ですが、展示の説明を読む限りでは、実際にゴッホ本人がこの印刷機を使用したかどうかまでは分かりませんでした。


こうして12限目まで見終わりました。

内容が西洋画、日本画、彫刻、美術史、保存修復、データ分析、中国との交流、版画まで非常に広いため、見る前は自分には興味のない分野もかなりあるだろうと思っていました。しかし実際には、ほとんどの「授業」で何かしら興味を引かれるものがありました。

今回特に印象に残ったのは、美術が決して感性だけで成り立っているわけではないということです。

芸術にあまり興味がなかったころは、芸術家が自分の感性によって作品を生み出し、それを鑑賞者が感覚的に受け取るものだと思っていました。

しかし、今回の展示では、模写によって先人の技術を学び、美術史によって過去の作品を研究し、科学的な方法で文化財を分析し、保存修復によって次の世代へ伝えていました。さらに、西洋から日本へ、日本から中国へというように、人から人へと知識や技術が受け継がれてきた歴史もあります。

一枚の絵や一体の仏像の背後には、作品を作った一人の芸術家だけでなく、何世代にもわたる研究と教育、技術の伝承があります。

「藝大生になる」という展覧会のタイトルの通り、作品を鑑賞するというより、美術をどのように学び、研究し、伝えていくのかを少しだけ体験できる展覧会でした。

この後は寛永寺に行く予定でした。しかし、美術館を出るころには雨が降っていたため、屋外を歩くことの多い寛永寺は今回は見送り、そのまま子規庵へ向かいました。

旅程

東京

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鶯谷駅

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東京藝術大学大学美術館

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子規庵

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書道博物館

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鶯谷駅

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