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聖アンドリーイ教会:丘の上にそびえるバロックの教会

ウクライナの首都キーウを観光しました。キーウ観光2日目のこの日は、聖ソフィア大聖堂などを巡ったあと、街の高台に建つ聖アンドリーイ教会へ向かいました。

キーウを歩いていると、淡い色を基調とした美しい教会をよく目にします。聖アンドリーイ教会もその一つで、水色の壁に白い柱が並び、その上には濃い緑色の屋根が載っています。中央の大きな屋根と周囲の小さな屋根は、丸みを帯びて先端が細くなった、ひょうたんのような独特の形をしていました。

白、水色、緑、そしてところどころに使われた金色の装飾の組み合わせは華やかですが、けばけばしい感じはありません。バロック建築らしい複雑な装飾を持ちながら、全体としては軽やかな印象の教会でした。実際、UNESCOの資料でも、白と青緑色、金色を組み合わせた外観や、コリント式・イオニア式の柱などが、この教会の特徴として挙げられています。

そして何より印象的だったのが、その立地です。

教会そのものも大きく見えますが、聖アンドリーイ教会はドニプロ川を見下ろす高い丘の上に建っています。このため、すぐ近くまで行かなくても建物の姿がよく見え、キーウの街並みの中で非常に目立っていました。UNESCOの資料によると、教会が建つ場所はドニプロ川から約84メートルの高さにあり、上の街と下の街を結ぶ景観上の重要な建築物になっています。

この場所には、さらに古い伝説があります。

『原初年代記』に記された伝承では、キリストの使徒である聖アンデレ(アンドリーイ)がドニプロ川をさかのぼってこの地を訪れ、丘の上に十字架を立て、「いつの日かここに大きな町ができ、多くの教会が建つ」と予言したとされています。もちろん歴史的事実として確認できる話ではありませんが、この伝承によって丘は聖アンデレと結びつけられ、現在の教会の名前にもなっています。

現在の聖アンドリーイ教会が建てられたのは、これよりはるかに後の18世紀です。ロシア帝国の女帝エリザヴェータがキーウに皇帝のための居所を設けようとしたことから、その宮廷教会として計画されました。設計を担当したのは、サンクトペテルブルクの冬宮などでも知られるイタリア出身の建築家バルトロメオ・ラストレッリです。建設は1740年代後半から進められ、現場では建築家イヴァン・ミチューリンが指揮を執りました。

そのため、見た目から「ウクライナらしい教会」と感じた建物ですが、建築史的に見ると、18世紀のロシア帝国宮廷文化と西欧由来のバロック様式がキーウという土地で結びついた建物でもあります。現在も18世紀の建築や絵画、漆喰装飾、木彫などをよく残しており、聖ソフィア大聖堂などとともに世界遺産への追加登録候補としてUNESCOの暫定リストに含まれています。

今回は中には入らず、外観だけを眺めました。あとから調べると、内部には赤と金を基調とした巨大なイコノスタシス(聖障)があり、建築、彫刻、絵画が一体となったバロック空間になっているそうです。外観だけでも十分に印象的でしたが、今振り返ると、中も見ておけばよかったと思います。

教会の近くでは、もう一つ不思議な光景に出会いました。広場のような場所で、古い民族衣装を思わせる服を着た人が、両手を大きく天に向かって広げ、何かの儀式のようなことをしていました。

キリスト教に関係する宗教行事だったのか、ウクライナの民族文化に関係する催しだったのか、それともまったく別のものだったのかは分かりません。ただ、水色と白の教会を背景に、伝統的な衣装を着た人が天に向かって手を広げている光景は、妙にこの場所に似合っていて記憶に残っています。

聖アンドリーイ教会をあとにすると、次は聖ムィハイール黄金ドーム修道院へ向かいました。聖ソフィア大聖堂から聖アンドリーイ教会、そして黄金のドームを持つ修道院へと、キーウを代表する教会建築を次々に巡った一日でした。2013年当時は建物の色や屋根の形を面白く眺めていただけでしたが、歴史を調べてみると、一つひとつの教会の背後に、キーウの長い宗教史と、この地をめぐってきたさまざまな時代の歴史が重なっていることが分かります。

旅程

(略)

↓(徒歩)

黄金の門

↓(徒歩)

聖ソフィア大聖堂

↓(徒歩)

ボフダン・フメリニツキーの像

↓(徒歩)

聖アンドリーイ教会

↓(徒歩)

Monument Petra Sagaidachnogo

↓(徒歩)

Church of St. Catherine

↓(徒歩)

キリスト降誕聖堂

↓(徒歩)

聖ムィハイール黄金ドーム修道院

↓(徒歩)

ホテル

地域の名物

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