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東京国立博物館:本館:仏像の手、漆の輝き、能面の表情

東京都台東区の東京国立博物館・本館に行きました。

この日は、国立科学博物館の特別展「いきもの超ワールド展」を見た後、東京国立博物館へ向かいました。来週には奈良の法隆寺に行く予定なので、まず法隆寺宝物館を見学し、その次に本館へ入りました。

東京国立博物館の本館には多くの展示室があります。今回は事前にAIを使って、現在大学で勉強している日本美術史と関連する展示を調べておきました。ちょうど奈良時代を勉強しているところなので、奈良時代の実物を確認するとともに、その次に続く平安時代から室町時代あたりまでを意識して見ることにしました。


最初に印象に残ったのが、彫刻を展示する第1室です。

入口近くには、平安時代12世紀の木造金剛力士立像が2体並んでいました。滋賀県の蓮台寺に伝来し、美術院の旧蔵品だったものです。

金剛力士像というと、筋肉質で恐ろしい表情をした像を想像します。しかし、この2体は大きな頭と丸みのある体つきをしていて、どこかかわいらしさも感じました。大ぶりな頭部や肉付きのよい身体表現には、平安時代後期の仏像の特色が表れているそうです。


同じく平安時代、11~12世紀の大日如来坐像もありました。胸の前で左手の人差し指を伸ばし、それを右手で包んでいます。これは「智拳印(ちけんいん)」と呼ばれる印相で、密教の大日如来を見分ける重要な特徴です。

仏像は以前なら「如来像」「菩薩像」といった名前を見るだけで終わっていましたが、最近は像の姿勢や手の形、素材などにも目が行くようになりました。少しずつですが、実物を見るための手掛かりが増えてきたように思います。


第2室では漆工が展示されていました。

平安時代12世紀の「蓬莱山蒔絵袈裟箱」は、「箱」と呼ぶには非常に薄く、最初はお盆や箱の蓋のように見えました。中央には複雑な文様が描かれており、よく見ると、亀が蓬莱山を背負う姿や松、空を飛ぶ鳥などが細かく表されています。


ここで改めて知ったのが「蒔絵」という技法です。

蒔絵は、漆で文様を描き、その漆が乾く前に金粉や銀粉などを蒔き付けて装飾する技法です。日本で独自の発展を遂げ、平安時代以降、日本の漆工芸を代表する技法になっていきました。

これまで私は、黒い地の部分が漆で、金色の絵そのものは金で直接描いているようなものだと思っていました。しかし、金粉を定着させ、文様を生み出している基礎そのものが漆の技術です。技法を知ってから見ると、同じ作品でも見え方がかなり変わります。


第4室では能面が展示されていました。この日は「特集 親と子のギャラリー この顔どんな顔?能面のあらわすきもち」が開催されており、子どもにも分かりやすい説明が付けられていました。こうした展示は、私のようにその分野を学び始めたばかりの人間にも非常に助かります。

般若の面は正面から見ると恐ろしい表情ですが、少し上向きにしたり下向きにしたりすることで、怒りや悲しみなど、異なる感情を感じさせます。

女性を表す面にも、小面、深井、泥眼、般若、真蛇など多くの種類がありました。単純に「女性の顔」を再現しているのではなく、年齢や感情、さらには人間から鬼へ変化していく状態まで表現するために、異なる造形が作られています。

先ほど法隆寺宝物館で見た伎楽面と比べると、能面はかなり薄く作られています。女性の面では表面の凹凸が少ない一方、翁などの面には現実の人間の顔以上と思えるほど強い凹凸があります。舞台上の光や見る角度によって表情を変えるという点では、写実とは別の方向に発達した造形なのだと思います。


第11室は、まさに現在勉強している時代でした。

「日本のあけぼの―縄文・弥生・古墳」では、火焔型土器、遮光器土偶、銅鐸、埴輪「挂甲の武人」など、日本美術史の教科書に登場するような代表的な造形が並んでいました。

縄文土器の複雑な装飾、弥生時代の銅鐸、古墳時代の埴輪は、それぞれ全く異なる造形です。教科書では時代ごとにページを分けて勉強しますが、同じ展示室で続けて見ると、日本列島の造形が長い時間の中で大きく変化していることが実感できます。


続く「仏教の興隆―飛鳥・奈良」には、奈良時代8世紀の日光菩薩像が展示されていました。京都の金輪寺、高山寺に伝来した像で、木心乾漆造です。

木心乾漆造は、木で大まかな形を作った上に麻布を漆で貼り重ね、さらに漆と木粉などを混ぜた材料を使って細かな造形を作る技法です。この像では、流れるような髪筋や衣の柔らかな質感などに、その技法の特徴を見ることができます。

最近、仏像の素材について勉強したばかりだったので、「木像」として見るのではなく、「木を芯にして、その上に乾漆で造形している」と考えながら見られたのは大きな収穫でした。

この展示では海獣葡萄鏡などの鏡も、仏教に関係する遺物として紹介されていました。

銅鏡というと古墳の副葬品という印象が強くありますが、鏡そのものは古墳時代で役割を終えたわけではありません。奈良時代になると寺院や仏教儀礼とも結び付き、さまざまな文脈で使われます。時代が変われば、同じ種類の物でも役割が変わっていくことが分かります。

金銅鉢や興福寺の鎮壇具も展示されていました。金銅鉢には、よく見ると縁の部分に文字が刻まれています。

鎮壇具は一見すると金の小片や銅銭などで、単独で見れば華やかな美術品には見えません。しかし、寺院などの建物を造る際、土地や壇を鎮め、建物が長く存続することなどを願って地中に納められたものです。形の美しさだけでなく、「何のために作られ、どこに置かれたのか」を知ると、美術品と考古資料の境界も曖昧になってきます。


第13室では、これから日本美術史で勉強する平安時代から室町時代の作品を見ることができました。

「仏教の美術―平安~室町」では、阿弥陀如来を描いた作品がいくつか展示されていました。

奈良時代の展示では阿弥陀如来をそれほど意識しませんでしたが、阿弥陀信仰そのものは飛鳥・奈良時代から日本に入っていました。平安時代になると、末法思想の広まりなどを背景に、阿弥陀如来のいる極楽浄土へ往生することを願う浄土信仰が大きく発展します。そのため、平安時代以降の美術を見ると、阿弥陀如来の存在感が一気に大きくなったように感じられます。

「宮廷の美術―平安~室町」では、「住吉物語絵巻断簡」など、絵巻の断簡がいくつか展示されていました。

断簡とは、本来一続きだった絵巻や書などから切り離された一部分です。長い年月の間に傷んで分かれたものだけではなく、後世に鑑賞や収集のため意図的に切り分け、掛軸などに仕立て直されたものも少なくありません。

現代の感覚でいえば、一冊の本や絵本から特定の一場面を切り出し、一枚の作品として額装するようなものに少し近いかもしれません。本来の作品全体が失われてしまうという問題がある一方、断簡として大切に保存されたために現在まで残った作品もあります。

「禅と水墨画―鎌倉~室町」では、岳翁の山水図などが展示されていました。

墨そのものは日本でも古くから使われているので、なぜ水墨画が鎌倉・室町時代になって登場するのだろうと最初は不思議に思いました。

実際には、それ以前にも墨を中心にした絵画表現は存在しています。しかし、鎌倉時代から室町時代にかけて、中国の宋・元の文化や禅宗が日本に大きな影響を与え、山水画などを中心とする本格的な水墨画が発展しました。さらに室町時代には如拙、周文、雪舟らへとつながり、日本独自の水墨画の世界が形成されていきます。

単に「墨があったから水墨画が生まれた」というわけではなく、技術だけでなく、何を描くか、どのような思想や文化の中で描くかという条件がそろう必要があったのでしょう。


今回は最終的に本館のすべての部屋を回りましたが、特に印象に残ったのは、現在勉強している時代と、その少し先の時代の展示でした。

日本美術史のテキストでは、どうしても文字による説明が中心になり、作品の写真も小さくなります。しかし博物館では、学芸員があるテーマに沿って作品を選び、実物を並べてくれています。

金剛力士像の丸みのある身体、大日如来の智拳印、蒔絵の金粉、乾漆像の衣の表現、能面のわずかな角度による表情の変化などは、文章を読んでいるだけではなかなか実感できません。

勉強してから博物館へ行くと展示が分かりやすくなり、博物館で実物を見てから教科書へ戻ると、今度は文章の意味が以前より分かるようになります。

今回は奈良時代から平安・鎌倉・室町時代へと、日本美術史の少し先を実物で予習するような見学になりました。


この後は東洋館へ向かいました。

日本美術だけを見ていると、日本の中で突然新しい表現が生まれたように感じることがあります。しかし、その背景には中国や朝鮮半島、さらにその先のインドや中央アジアとの長い交流があります。

本館で見た日本美術がどこから来たのか。その源流を探すつもりで、次は東洋の美術を見ていきました。

旅程

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