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法隆寺:収蔵庫:「収蔵庫」の中にあった、もう一つの金堂

奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺に行きました。

今回の目的は、通常の法隆寺拝観ではありません。「法隆寺みらいプロジェクト」として行われている、金堂壁画収蔵庫の改修と将来の一般公開を目指したクラウドファンディングに支援し、その支援者限定公開に参加するためです。

支援額は12,000円で、収蔵庫の見学に加えて法隆寺の伽藍拝観券も付いています。通常の拝観料と比べれば高く感じるかもしれませんが、文化財保存への寄付を兼ね、普段は見ることのできない場所に入れることを考えると、個人的には十分に価値のある内容でした。

もっとも、参加するまで私は「収蔵庫」というものを少し勘違いしていました。

以前、キトラ古墳の壁画公開に行った際、非常にもろい壁画が厳重に管理されたケースの中に保存され、それをガラス越しに見学しました。そのため今回も、倉庫のような建物の中に金堂壁画が一枚ずつ特殊なケースに収められ、それを見るようなものを想像していました。

ところが、実際の収蔵庫はまったく違いました。

法隆寺金堂では、昭和24年(1949年)1月26日、解体修理中に火災が発生しました。金堂そのものが失われたわけではありませんが、初重内部が焼け、壁画も甚大な被害を受けました。焼損した壁画と木部はその後取り外され、収蔵庫の中で、もとの金堂内部の位置関係が分かるような形で保存されています。

つまり収蔵庫に入るということは、単に「焼けた壁画を見る」というより、1949年の火災を受けた金堂内部そのものに近い空間へ入っていく体験でした。

収蔵庫は通常の博物館や資料館とも違います。手荷物を預け、靴にもカバーをかけてから中に入ります。そして法隆寺の僧侶の方の案内で、約30分かけて見学しました。

案内をしてくださった方は、壁画だけでなく保存技術や調査についての質問にもかなり専門的に答えていました。僧侶でもありながら、研究者や学芸員もされている方かもしれません。


最初に説明されたのが、法隆寺金堂壁画を記録してきた歴史です。

火災が起きる14年前の昭和10年(1935年)、京都の便利堂によって金堂壁画の大規模な写真撮影が行われています。このとき撮影されたガラス原板が残っていたことが、のちに極めて大きな意味を持つことになりました。

現在では、この写真資料を高精細にデジタル化するだけでなく、富士フイルムの技術によって、当時記録された色情報から火災前の色彩を科学的に復元する研究まで進んでいます。

私もNHKでこの研究を取り上げた番組を見ていました。また、奈良国立博物館の特別展「南都仏画―よみがえる奈良天平の美―」でも、第6号壁のカラー復元画像を見ています。今年は東京都美術館の「百花繚乱」展でも法隆寺金堂壁画の模写を見る機会がありました。

以前なら「昔の壁画を復元したもの」ぐらいにしか理解できなかったかもしれません。しかし、写真による記録、模写、デジタル化、科学的な色彩復元と、それぞれ異なる方法で文化財を未来へ残そうとしていることが少しずつ分かるようになってきました。


そのうえで、ついに焼損した実物を見ることになったわけです。

金堂内部へ入る前の収蔵庫部分には、多数の「飛天図」が並んでいました。

これらは金堂内陣上部にあったもので、火災当時、修復のため取り外されていたことから焼失を免れたそうです。かなり色が失われているものもあれば、今でも絵がはっきり分かるものもあります。そのうち一面は大宝蔵院にも展示されているため、通常の法隆寺拝観でも見ることができます。

さらに印象的だったのが、五重塔から発見された壁画です。

現在の壁面にそのまま残っていたものではなく、過去の改修によって新しい壁の内側に隠されていたものだそうです。表面には壁を削ろうとした跡や柱の跡なども残っており、一見するとかなり傷んだ壁に見えます。しかし説明を受けながら見ると、うっすらと光背らしき形も確認できました。

文化財は、完成した美しい姿だけが歴史なのではありません。改修され、覆われ、削られ、偶然残された痕跡もまた、その建物が千年以上存在してきた歴史なのだと感じます。


そして、いよいよ焼損した金堂内部に相当する部分へ入りました。

柱には火災の痕跡が生々しく残っています。

さらに驚いたのは、わずかですが焦げたような臭いが感じられたことです。1949年の火災からすでに77年が経っています。それでも、視覚だけではなく嗅覚によって火災の痕跡を感じるとは思いませんでした。案内によると、以前に比べると臭いはかなり弱くなっているそうです。

焼けた柱を見ると、表面は痛々しい状態ですが、内部まで完全に失われたわけではありません。金堂を修復する際には、焼けた柱を再利用する案もあったそうです。しかし案内では、伊勢神宮の式年遷宮に関係して確保されていた木材を活用できたことなどから、新しい部材による復旧が行われたという話もありました。

一方で火災の被害を比較的免れた部分も残っています。焼けた部材とそうでない部材を同じ空間で比較できるため、火災が建物内部でどのように広がったのかまで想像できます。


壁画についても、一面ずつ説明を受けました。

特に有名な第6号壁の阿弥陀浄土図では、阿弥陀如来の顔の部分が失われています。

これには火災そのものとは少し違う事情があります。案内によると、消火のためにホースを入れる必要があり、壁に穴を開けた場所が、ちょうど阿弥陀如来の顔の位置になってしまったそうです。

大規模な火災が起きている状態で扉を開けば、空気が入り炎が一気に広がる危険があります。そのため壁を破って消火しなければならなかったという説明でした。

「なぜ、よりによって顔のところに」と思ってしまいますが、その場では文化財を守ることより、まず火を消さなければなりません。

しかも、その穴が開いたことで壁の内部構造を調査できるようになったという話もありました。一つの損傷が、後世の研究資料にもなっているわけです。


第10号壁から第12号壁付近では、別の興味深い現象も教えていただきました。

もともとこの辺りは、長年のお香などによって黒く煤けていたそうです。ところが火災の熱によって、それまで表面を覆っていたものが失われ、結果として火災以前より図像が確認しやすくなった部分もあるとのことでした。実際に見てみると、焼損した壁の中にも朱色などが残っている場所があります。

反対に、第7号壁から第9号壁付近は火元に近かったとされ、事前に配布された昭和10年の写真と比較しても、かなり薄くなっています。


見学時には、昭和10年に撮影された12面の壁画の写真や、保存・研究の歴史をまとめた資料が配布されました。収蔵庫内には基本的に物を持ち込めませんが、この資料だけは持って入ることができます。

そのため、火災の14年前に撮影された姿と、目の前にある現在の壁画を交互に見比べることができます。

これは非常に印象に残る体験でした。

写真は単なる参考資料ではありません。目の前にある焼けた壁を見ると、1935年に「記録を残しておこう」と考え、大規模な撮影を行った人たちの仕事が、どれほど重要だったのかが分かります。


そして1949年の金堂火災は、日本の文化財保護の歴史でも大きな出来事となりました。この火災などを背景に文化財保護への関心が高まり、翌1950年には現在の文化財行政の基礎となる文化財保護法が制定されています。

文化財保存というと、古いものをそのまま残すことのように思えます。しかし実際には、記録し、調査し、修理し、模写し、デジタル化し、温度や湿度を管理し、さらに「どのように公開すれば文化財を傷めずに多くの人に見てもらえるか」まで考える必要があります。

今回の「法隆寺みらいプロジェクト」も、その延長上にあります。

収蔵庫は昭和20年代に造られた施設で、将来にわたって壁画を保存しながら一般公開していくためには、設備の改修や調査が必要になります。今回の支援者限定公開も、単なる特別イベントではなく、公開中の温湿度などのデータを集め、今後の一般公開に生かす意味があるそうです。


学芸員資格の勉強をしている身としては、この点も非常に興味深いところでした。

博物館では完成した展示を見ることがほとんどですが、今回はその一段階前にある「文化財をどう保存し、どう公開するか」という現場を見ることができました。


収蔵庫の見学自体は約30分でしたが、特別公開はこれだけではありませんでした。

その後、中倉や南倉も見学することができました。こちらには多くの仏像のほか、豊臣秀長、豊臣秀吉、徳川家康などの武将に関係する書状などもありました。こちらはガイド付きではなく、自分のペースで見ることができます。

収蔵庫の30分が終わったので、それほど時間はかからないだろうと思っていましたが、一点ずつ見ているうちに、いつの間にか1時間以上経っていました。


法隆寺というと、世界最古の木造建築や聖徳太子、金堂、五重塔、釈迦三尊像などがまず思い浮かびます。しかし今回見たのは、それらとは少し違う「法隆寺を守ってきた歴史」でした。

1300年以上前の壁画があり、それを1935年に写真に残した人がいます。1949年には火災が起こり、それでも焼けた壁画を廃棄せず保存した人たちがいます。戦後には模写が制作され、現代ではガラス原板をデジタル化し、富士フイルムの技術によって失われた色彩まで科学的に復元しようとしています。そして現在は、焼損した実物そのものを次の世代へ残しながら、一般に公開する方法が模索されています。

文化財は、昔の人が作ったものだけでできているわけではないのだと思います。

それを残そうとした、それぞれの時代の人たちの仕事まで含めて、現在の文化財があります。

今回12,000円を支援して見たものは、単なる「珍しい場所」ではありませんでした。火災で傷ついた壁画そのものと、それを77年間守り続けてきた保存の歴史でした。


将来的には一般公開を目指しているそうです。文化財を守りながら公開するには費用も技術も必要です。興味があり、金銭的にも余裕がある方であれば、このような活動に支援することも、法隆寺を未来へ残す一つの方法だと思います。


収蔵庫、中倉、南倉を見終えた時点で、すでに想像以上の時間が経っていました。

しかし、この日の法隆寺見学はまだ始まったばかりです。

いただいた伽藍拝観券を手に、次は西伽藍へ向かいました。

旅程

東京

↓(新幹線 / JR特急はるか / JR大和路線)

法隆寺駅

↓(徒歩)

法隆寺:収蔵庫(旧金堂)

↓(徒歩)

法隆寺:西伽藍

↓

(略)

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