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杉原千畝広場センポ・スギハラ・メモリアル:外交の建前が、人命を救う力になったとき

名古屋市博物館で開催されている特別展「リトアニア ―バルトの森に響く歌―」を目的に、朝から名古屋に来ました。

バルト三国のうち、ラトビアとエストニアには訪れたことがありますが、リトアニアにはまだ行ったことがありません。今回は、リトアニアという国の歴史や文化を知りたいと思い、特別展を見に来ました。

周辺の見所を調べていると、「杉原千畝広場 センポ・スギハラ・メモリアル」があることを知りました。杉原千畝は、第二次世界大戦中にユダヤ人難民を救った「命のビザ」で知られる日本の外交官で、私が尊敬する人物の一人です。考えてみれば、そのビザを発給した場所がリトアニアのカウナスでした。リトアニアの文化を知ることばかり考えていて、杉原千畝との関係をすっかり忘れていました。

せっかくなので、名古屋市博物館の開館までの時間を利用しようと思い、午前9時ごろに広場を訪れました。

センポ・スギハラ・メモリアルは、杉原千畝の功績を顕彰するため、2018年に瑞陵高等学校の正門西側に整備された屋外展示施設です。杉原千畝とユダヤ人家族のブロンズ像を中心に、周囲には解説パネルやビザリストを再現した陶板が並んでいます。

小さな広場なので、30分もあれば十分だと思っていましたが、実際にはパネルを読み込んでしまい、1時間近く滞在することになりました。


最初に見たのは、Bゾーンの「運命のビザ」です。

1939年9月、ドイツとソ連によるポーランド侵攻によって、ポーランドは両国に分割占領されました。ナチス・ドイツによる迫害を逃れようとする多くのユダヤ人が、隣国リトアニアに避難します。しかし、1940年にはリトアニアもソ連に占領され、難民たちはさらに国外へ脱出する方法を探さなければならなくなりました。

そこで重要な役割を果たしたのが、各国の外交官が発給するビザでした。

当時、ラトビアのリガに駐在していたオランダ公使デ・デッケルは、ユダヤ人女性のパスポートに、カリブ海のキュラソー島などのオランダ領への入国にはビザが不要である旨を記載しました。

実際には現地総督の上陸許可が必要でしたが、その条件を記載しないことで、難民たちが渡航先を示す書類として利用できるようになりました。その後、カウナスのオランダ領事ヤン・ズワルテンディクも同様の記載を多数の難民に発給しました。これが、いわゆる「キュラソー・ビザ」です。

杉原千畝が発給したのは、日本を経由して第三国へ向かうための通過ビザでした。そのため、最終目的地を示す必要があり、キュラソー・ビザは日本の通過ビザを取得するための重要な手段となりました。

ただし、当時の日本のビザ発給には、渡航先の入国許可だけでなく、十分な所持金などの条件もありました。展示には杉原千畝と松岡洋右外務大臣とのやり取りも紹介されており、規則と人命の間で、外交官がどのように判断しようとしたのかがうかがえました。

さらに興味深かったのが、ウラジオストクの日本総領事代理だった根井三郎の行動です。

日本の外務省は、ユダヤ人難民の日本行きの船への乗船を制限しようとしました。しかし根井は、日本の在外公館が正規に発給したビザを無効にすることは、日本のビザの国際的信用を損なうと主張し、難民たちの渡航を認めました。

政治家や官僚が使う、言葉の解釈や建前を利用した説明には、ときに苛立ちを覚えることがあります。しかし、このような事例を見ると、同じ論理や制度の解釈でも、使い方によって人命を救うことができるのだと考えさせられます。

杉原千畝だけが活躍したのではなく、オランダの外交官たち、ウラジオストクの根井三郎、さらに日本到着後の敦賀や神戸で難民を支援した人々など、多くの人の行動がつながっていたことが印象的でした。

特に、神戸でユダヤ人難民の日本滞在期間の延長に尽力したヘブライ語学者の小辻節三についても説明されていました。リトアニアから日本への脱出を実現するには、ビザを発給するだけではなく、移動の途中や到着後にも多くの支援が必要だったのです。


続いて、Aゾーンの「決断と希望」を見ました。

ここでは、杉原千畝自身のフジテレビのインタビューや、杉原のビザで救われたバーナード・サロモンの孫、マーク・サロモンの話などが紹介されていました。

また、杉原がカウナスとプラハで発給したビザのリストが展示されていました。「命のビザ」といえばカウナスが有名ですが、その後の赴任先であるプラハでも、ユダヤ人難民にビザを発給していたことが分かります。


リストに記された一人ひとりに、それぞれの人生があったはずです。その中には、後に「金融先物市場の父」と呼ばれるようになったレオ・メラメドもいました。彼は幼少期に杉原のビザによって脱出し、戦後アメリカで金融市場の発展に大きく貢献した人物です。

ビザが救ったのは、単にその場にいた難民の命だけではありません。その人々の戦後の人生、さらに子どもや孫の世代へと続く未来も守ったのだと感じました。


次に見たのは、Cゾーンの「杉原千畝の生涯」です。

杉原千畝は1900年に岐阜県で生まれ、少年時代には父親の仕事の関係で転居を繰り返しました。その後、名古屋の旧制愛知県立第五中学校に進学します。

中学校時代の英語教師には、夏目漱石の教え子だった浦瀬白雨や野村傳四がいました。こうした教師のもとで英語を学んだ経験も、その後の外交官としての人生につながっていったのかもしれません。

早稲田大学に進学した後、1919年には外務省留学生試験に合格します。展示には大学入学や試験を受けた動機について語った内容も紹介されていましたが、ちょっとしたきっかけから進路を決め、試験にも合格してしまう様子から、非常に優秀な人物だったことがうかがえました。

外交官としてはロシア語を学び、ソ連の政治や経済を専門としました。ソ連経済の分析報告書を作成したほか、満州国外交部では北満鉄道の譲渡交渉にも関わっています。

1939年には新設された在カウナス日本領事館に赴任し、そこで歴史に残る決断をすることになります。その後はプラハ、ケーニヒスベルク、ルーマニアなどで勤務し、第二次世界大戦の終結時にはルーマニアで抑留されました。

1947年に帰国して外務省を退官した後は、民間企業で日ソ貿易などに携わりました。そして1985年、イスラエルのヤド・ヴァシェムから、ユダヤ人を救った非ユダヤ人に与えられる「諸国民の中の正義の人」の称号を授与され、翌1986年に鎌倉市で亡くなりました。

杉原千畝というと、どうしても「命のビザ」に注目してしまいますが、外交官としての専門能力や、戦後の民間人としての人生も含めて、一人の人物として知ることができました。


最後に見たのは、Dゾーンの「歴史と継承」です。

ここでは、杉原千畝が通った第五中学校から、現在の瑞陵高等学校へと至る学校の歴史が紹介されていました。

瑞陵高等学校の卒業生には、哲学者の谷川徹三、物理学者の岡部金治郎、経済学者の都留重人、生化学者の西塚泰美など、さまざまな分野で活躍した人物がいます。

そして、もう一人、意外な名前がありました。平井太郎、後の江戸川乱歩です。

実は近いうちに、東京都豊島区にある旧江戸川乱歩邸を訪れる予定でした。杉原千畝を知るために訪れた名古屋の広場で、まさか江戸川乱歩につながるとは思っていませんでした。

杉原千畝と江戸川乱歩は、第五中学校だけでなく早稲田大学にも通っていました。外交官と推理小説家というまったく異なる道を歩んだ二人ですが、その人生には意外な共通点があったのです。

こうした思いがけない歴史のつながりを発見できるのも、博物館や史跡巡りの楽しさの一つです。


この日は10月中旬の穏やかな晴天で、屋外の展示を読むにはちょうど良い気温でした。最初は30分ほどの予定だったのに、気が付けば1時間近く経過していました。

広場を後にして、名古屋市博物館へ向かいます。

行きとは反対に、瑞陵高等学校の西側を歩いていると、「瑞陵高等学校旧正門」と「感喜堂」という歴史的建造物がありました。

旧正門は、1924年に建設された旧愛知県商業学校の正門で、感喜堂も同じ年に同校の講堂として建てられたものです。どちらも大正時代の建築で、現在は国の登録有形文化財となっています。

杉原千畝が通っていたころの建物なのかもしれないと思いましたが、調べてみると、杉原が第五中学校を卒業したのは1917年で、これらの建物が建設される前でした。

さらに、現在の瑞陵高等学校は、戦後の1948年に第五中学校の後身である熱田高等学校や愛知商業高等学校などが統合されて成立した学校です。杉原が実際に通っていた第五中学校の校地は、現在の瑞穂ヶ丘中学校の場所にありました。

残念ながら、杉原自身がこれらの建物を使っていたわけではありませんでしたが、学校の統合や移転の歴史を知ることで、この地域が歩んできた近代史にも触れることができました。


今回はリトアニアの文化を知るために名古屋へ来ましたが、その前に訪れた小さな広場で、第二次世界大戦下のヨーロッパ、日本の外交、ユダヤ人難民の脱出、さらに名古屋の学校史まで、思いがけず多くのことを学ぶことになりました。

特に印象に残ったのは、杉原千畝の勇気ある決断だけでなく、その決断を実際に人命救助へとつなげた多くの人々の存在です。

歴史に名を残す人物の行動は、しばしば一人の英雄の物語として語られます。しかし、実際にはさまざまな立場の人が、それぞれの場所で判断し、行動することによって、大きな結果が生まれることもあります。

小さな広場でしたが、「命のビザ」が生まれた背景と、それが救った人々の未来について、じっくり考えることのできる場所でした。

旅程

東京

↓(新幹線 / 名古屋市営桜通線)

瑞穂区役所駅

↓(徒歩)

杉原千畝広場センポ・スギハラ・メモリアル

↓(徒歩)

名古屋市博物館

↓(徒歩)

(略)

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