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旧江戸川乱歩邸(大衆文化研究センター):名古屋で知った太郎、池袋で出会った乱歩

東京都豊島区の旧江戸川乱歩邸、大衆文化研究センターに行きました。通常の公開日は月・水・金曜日なので、タイミングが合えば訪ねたいと思っていた場所です。ちょうど月曜日に池袋へ行く予定ができたため、この機会に立ち寄ることにしました。

今回の訪問は、名古屋へ行く前から予定していたものです。ところが、その名古屋で訪れた杉原千畝広場センポ・スギハラ・メモリアルに、第五中学校の出身者として「平井太郎」の名前がありました。江戸川乱歩の本名です。千畝さんについて知るために訪れた場所で、次に見学する予定の作家につながったことで、乱歩邸へ行くのがさらに楽しみになりました。

乱歩は1894(明治27)年、現在の三重県名張市に生まれ、幼いころに名古屋へ移り住みました。第五中学校を卒業して早稲田大学へ進み、さまざまな職業を経験した後、1923(大正12)年に『新青年』で「二銭銅貨」を発表しました。僕にとっては、子どものころに推理小説をいくつか読んだことのある作家ですが、作品を書くようになるまでの人生は、あまり知りませんでした。

池袋のこの家へ移り住んだのは、1934(昭和9)年のことです。それまでは何度も住まいを変えていた乱歩ですが、ここには1965(昭和40)年に亡くなるまで、約30年間暮らしました。転居を繰り返した末に落ち着いた、最後の住まいということになります。現在も、実際に暮らしていた場所で、その生活や仕事の跡に触れられます。

展示室1で足を止めたのは、乱歩自身が自分の歩みをまとめた「貼雑年譜」でした。これは、経歴を書き記すとともに、日記や手紙、新聞・雑誌の切り抜きなどを貼り込み、自筆の書き込みを添えた記録です。人生に関わるさまざまな資料を、自ら集めて残していました。

第五中学校の出身だと知っていたので、その記述を探してみると、きちんと書かれていました。名古屋で見かけた学校の名前が、今度は本人の残した年譜の中に出てきます。知っていることを確認しただけといえばそれまでですが、これが思いのほか楽しいものでした。

博物館や記念館には、人物の生涯を紹介する年表がよくあります。本人の手書きであっても、施設が分かりやすく作ったものであっても、普段は一つひとつを丁寧に読むことはあまりありません。ところが今回は、「あの学校のことは、どこに書いてあるだろう」と、自分から文字を追っていました。少し知っていることがあるだけで、年譜を見るときの気持ちが変わるものです。名古屋で見た展示が、池袋で別の資料を読むきっかけになりました。

本の収集についての展示も印象に残りました。乱歩は大量の本を集めており、特に推理小説については「日本で最もたくさん持っている」と語っていたそうです。小説を書くことに加えて、ほかの人が書いた小説を読み、集めることにも、大きな情熱を注いでいたのでしょう。自分の人生を年譜にまとめることと、本を集めて手元に置くことの両方から、関心を持ったものを残しておこうとする姿が浮かんできます。

旧書斎を再現した部屋もありました。こたつの置かれた和室なのですが、正直なところ、あまりにきれいで、今どきのこたつ部屋にも見えました。作家の書斎というと、原稿や資料が机の上に積み重なり、あちこちに本が置かれているような部屋を想像していたので、少し意外でした。

もちろん、実際に執筆していたときも、これほどきれいに片づいていたのかは分かりません。作家の部屋なら散らかっているはずというのも、僕が勝手に思い描いていたイメージです。ただ、こたつのある部屋を見ていると、有名な作品を生み出した作家の家にも、身近に感じられる生活の空間があったのだと思えました。

書庫として使われていた土蔵は、中に入ることはできませんでしたが、入口から内部をのぞくことができました。そこには本が大量に並んでいました。展示で蔵書の多さについて知った後に、実際に棚を埋める本を見ると、その量をあらためて実感します。二階建ての土蔵は、一階に和書や洋書、二階に江戸文学などの和本を収める書庫として使われていたそうです。

この邸宅と約2万点の蔵書などは、2002年に立教大学へ譲渡され、2006年には江戸川乱歩記念大衆文化研究センターが設立されました。乱歩が集め、残したものが、今度は大学によって保存され、研究や展示に使われています。本人が資料を残してくれたことに加え、それを受け継いで守る人たちがいるからこそ、僕もこうして、年譜の中に知っている学校の名前を探せるのだと思います。

洋風の応接間は、こたつのある書斎とはまた雰囲気が違いました。洋館部分は1957(昭和32)年に増築されたもので、応接間は乱歩自身が設計したそうです。 厳選された家具が置かれ、調度品にもこだわりが感じられました。説明によると、この部屋で最も高価だったのは、床に敷かれたペルシャ絨毯だったそうです。本の集め方だけでなく、人を迎える部屋のしつらえにも、その人の好みが表れているようでした。

江戸川乱歩については、子どものころに読んだ小説の記憶が少しある程度でした。それでも今回は、年譜や蔵書、書斎、応接間を見ながら、作品の作者がどのような人だったのかに関心を向けることができました。名古屋で平井太郎という名前を見かけていたことも、その大きなきっかけです。

旧邸へ行く予定を立てたときには、名古屋での見学とつながるとは思っていませんでした。旅先で知ったことが、次に訪れた場所の楽しみを増やしてくれます。今回の年譜も、第五中学校のことを知らなければ、ざっと眺めて通り過ぎていたかもしれません。名古屋で見かけた一つの名前のおかげで、池袋に残る作家の住まいを、少し身近に感じることができました。

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旧江戸川乱歩邸(大衆文化研究センター)

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