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上野の森美術館:シンシナティ美術館展:見えすぎる絵と、まだ見えない絵

東京都台東区の上野の森美術館に行きました。今回の目的は、「シンシナティ美術館展 ~アメリカに渡ったヨーロッパの至宝~」です。

先日、名古屋市美術館で「ゴッホの跳ね橋と印象派の画家たち」を見てきたばかりですが、今回も印象派の前後の流れが分かりやすくまとめられていて、良い復習になりました。前の展覧会で知った画家や言葉がもう一度出てくると、初めて聞いたときよりも少し身近に感じます。それでも、後半になるほど分からないことが増え、会場でも、帰宅後に図録を開いてからも、ずいぶん頭を使うことになりました。

仮面のような目をした肖像画

最初の「芸術家の姿」では、いくつかの肖像画が並んでいました。その中で気になったのが、アメデオ・モディリアーニの《マックス・ジャコブ》(1916~1917年頃)です。

まず、目が黒く塗りつぶされているように見えました。ところが、よく見ると、単なる黒というより背景の壁に近い色にも感じられます。目の部分だけ向こう側が透けているようで、少し不思議な顔です。

図録によると、モディリアーニの細長い顔や幾何学的な顔立ちには、コートジボワールのバウレ族の仮面への関心が反映されているそうです。そう聞いてから見直すと、この目も仮面の穴のように思えてきました。目の描き方が変わるだけで、人の顔がこれほど違って見えるのかと感じます。

モデルのジャコブは詩人であり画家でもあり、ピカソやモディリアーニらと交流した人物です。モンマルトルには「洗濯船(バトー=ラヴォワール)」と呼ばれるアトリエ兼住居があり、そこに集まる芸術家や文学者たちの交流から、新しい表現が生まれていきました。肖像画のモデルを調べると、描いた画家だけでなく、その周囲の人間関係にもつながっていきます。

「見る人を見る」絵が、浮き出してきました

続く「伝統」では、まず「アカデミー」が取り上げられていました。

昔の画家というと、それぞれが自分の力で技術を磨いていく姿を何となく想像していました。しかし、師匠の工房で学ぶ伝統があり、ルネサンス期には美術アカデミーも生まれていたそうです。1563年にはフィレンツェにアカデミーが設立され、フランスでも1648年に王立絵画彫刻アカデミーが創設されました。こうした組織は技術を教えるとともに、古典や歴史を重んじる美術の基準を形づくり、作品の評価にも大きな影響を与えていました。

ここで長く足を止めたのが、ジェームズ・ティソの《日本の工芸品を眺める娘たち》(1869年)です。日本の工芸品を見ている二人の女性を、今度は絵の前にいる僕たちが見ています。会場の解説にもあった「見る」という行為の入れ子を意識しながら、じっと眺めていました。

19世紀後半のヨーロッパでは、日本の美術や工芸への関心が高まり、1867年のパリ万国博覧会も、その広がりを後押ししました。ティソ自身も日本美術の収集家です。日本の品々に見入る当時のフランスの人々を、時代を隔てて日本の美術館で眺めていると思うと、その重なりも面白く感じます。

そうしてじっと見ているうちに、予想していなかったことが起きました。描かれている人物や物が、3Dアートや3D映画のように、画面から浮き出して見えてきたのです。

描写が緻密だからなのか、照明や見る位置との相性なのかは分かりません。一度そう見え始めると、目をそらしてから戻しても、また浮き出してきます。そのうち、少し3D酔いに似た感覚まで出てきてしまいました。

この絵だけかと思ったら、ジャン=レオン・ジェロームの《奴隷市場》(1871年)でも、窓枠から外へ垂れている商人の衣装の袖が浮き出して見えました。今まで絵を見ていて、こんな経験をしたことはありません。もっとも、絵の前でじっと立ち止まるようになったのも最近です。

次の美術館でも、またこういう絵に出会えるかもしれません。新しい楽しみが増えましたが、見るたびに酔ってしまうと、それはそれで困りそうです。

森の風景から、働く人の姿へ

「フランスの風景画」では、名古屋でも出てきたバルビゾンの名が登場しました。パリ近郊のフォンテーヌブローの森や、その周辺の農村に目を向けた画家たちは、身近な自然そのものを描くことに価値を見いだしました。こうした取り組みは、後の印象派にもつながっていきます。

展示されていた風景画には、少し薄暗く、輪郭が柔らかく感じられるものがありました。名古屋で見た絵の雰囲気がよみがえり、同じ時代の別の作品を通じて、記憶が少しずつつながっていきます。

次の「レアリスム」では、都市や農村で暮らし、働く人々の日常が主題になっていました。19世紀半ば、クールベやミレーらは、同時代の普通の人々を絵画の中心に据えていきます。何を描くに値する題材と考えるかという点でも、美術の世界が変化していたのだと思います。

ミレーの《仕事に出かける人》(1851~1853年)には、働きに向かう男女が描かれていました。解説には、楽園を追放されるアダムとイヴとの比較も記されていましたが、僕の目に残ったのは、脚のたくましさや、背筋を伸ばして歩く姿です。

画面は薄暗く、服装も日々の仕事のためのものです。それでも、歩いていく身体には力があり、労働する人の美しさを感じました。豪華な衣装や華やかな舞台がなくても、人の姿そのものが絵になるのだと思います。

ここでは、ゴッホが描いた種をまく農夫や織工も思い出しました。実際、ゴッホはミレーを深く敬愛し、その作品をもとに絵を描いています。以前見たゴッホの世界が、さらに前の時代へとつながりました。

反逆者たちと、絵の下に隠れていた絵

「革命」の章では、「反逆者たち」というテーマが掲げられていました。

19世紀のフランスでは、公的な展覧会であるサロンが、画家の評価や作品の販売を左右する大きな舞台でした。その一方で、そこに収まりきらない表現や、独自の発表の場を求める動きも生まれます。1863年には、サロンの審査に落ちた作品を集めた「落選展」が開かれ、1874年には、後に第1回印象派展と呼ばれる展覧会が開催されました。会場に並ぶ絵の描き方の違いには、何をどう描くかをめぐる、こうした歴史も重なっています。

セザンヌの《パンと卵のある静物》(1865年)では、絵の下に別の肖像画が隠れていたという説明がありました。2022年、修復担当者が絵具の表面のひび割れに気づき、X線による調査を行ったところ、人物の姿が見つかったそうです。現在見えている静物画のための下描きではなく、以前に描いた肖像画の上から、別の絵を重ねていたことになります。

パンや卵を見ているつもりでも、その下には人の顔がある。絵画の表面からは分からない制作の過程が、後の調査によって見えてくるのも面白いところです。

さらに図録によると、この作品は画材代の代わりに、画材商タンギーが受け取ったものだそうです。ゴッホとの関係で知られるタンギーが、ここではセザンヌにもつながってきました。画家の名前を一人ずつ覚えていたときには見えなかった関係が、少しずつ分かってきます。

荒々しい岩場と、林に溶け込む二人

「印象派」では、モネの《ベリールの岩場、ポール=ドモワ》(1886年)が意外でした。僕の中では、モネには落ち着いた場面を描く画家というイメージがあったからです。

この絵には、尖った岩が海から突き出しています。モネは1886年の秋、ブルターニュ沖のベリール島で、荒々しい海岸の風景に取り組みました。穏やかな海峡の水面を描くのとは違う難しさを感じながら、岩や海の表情を追いかけていたそうです。

ところが、僕には、岩の鋭さに比べて、海や空気はどこか穏やかで暖かく感じられました。夕日の赤みのためかもしれません。描かれている地形の険しさと、色から受ける印象が、同じ方向を向いていないのが不思議でした。

「ポスト印象派」には、ゴッホの《ポプラ林の中の二人》(1890年)がありました。林の中に男女が描かれていますが、特に女性の方は、服が周囲の草と近い色で、風景の中に溶け込んでいるように見えました。

これは、ゴッホが最晩年を過ごしたオーヴェール=シュル=オワーズで、1890年6月に描いた作品です。弟テオへの手紙では、ポプラの幹の紫や、林の奥の青、草花のさまざまな色について説明しています。そうした言葉を知ると、薄暗い林という最初の印象から、画面の中の細かな色へも目を向けたくなります。

解説を読むと、見えなかったものが見えてきます

最後の「モダニズム」では、名古屋でも聞いた「フォーヴ」という言葉が出てきました。一度聞いた言葉に再会すると少し安心しますが、絵の方は、だんだん簡単には読み取れなくなってきます。

ラウル・デュフィの《「セーヌ河口、ル・アーヴル」のための習作》では、細い白い線で描かれた部分や、いくつもの場面を並べたような構成が気になりました。「習作」とあるので、試行錯誤の跡なのかと思いましたが、帰宅後にほかの作品を検索すると、似たような表現が見つかりました。

デュフィは、線と色をそれぞれ独立させ、形を簡略化した独自の描き方を発展させた画家だそうです。輪郭と色がぴったり一致しないことにも、この画家ならではの面白さがあるのでしょう。習作という題名から制作途中の様子を想像していましたが、まずは作風そのものを知る必要もありそうです。

「抽象」のコーナーにあったピカソの《グラスとレモンのある静物》は、題名を読んでも、どこにグラスとレモンがあるのか、まったく分かりませんでした。

この作品は、対象を幾何学的な形に分け、複数の角度から見た姿を一つの画面に組み合わせる、分析的キュビスムの時期のものだそうです。見慣れた物の形を探そうとしても、いつもの見方では、なかなかつかめません。

ジャン・メッツァンジェの《静物》(1919年)も、会場ではよく分かりませんでした。題名は「静物」だけで、詳しい解説文も見当たりません。ところが、帰宅して図録を開くと、青いテーブル、バゲット、茶色の水差し、レモンなどが描かれていると書かれていました。

その説明を手がかりに見直すと、さっきまで分からなかったものが、少しずつ見えてきます。絵そのものは何も変わっていないのに、言葉を知ることで、同じ形が別のものに見えてきました。

ピカソのグラスとレモンは、今のところ、まだ見えてきません。それでも、解説を読みながら何となく分かる作品から見ていけば、少しずつ慣れていけるかもしれません。描かれた物を探すことに加えて、線や色が画面の中でどう組み合わされているのかにも、目を向けてみたくなりました。

人の姿が分かっても、意味は簡単ではありません

「具象」では、フェルディナント・ホドラーの《聖なる時間》(1907~1911年頃)が目を引きました。大きな画面の中で、よく似た女性が、同じような服を着て、左右に対応する姿勢を取っています。

図録には、おそらく一人のモデルを使って描いたとありました。一人をモデルに二人の女性を描いたのか、それとも一人の人間の違う側面を表しているのか。人物ははっきり見えるのに、その意味を考え始めると分からなくなります。

ホドラーは、形や身振りの反復によって、人間や自然に通じる秩序を表そうとし、その考え方を「パラレリズム」と呼んでいたそうです。同じモデルをもとにした二人の姿にも、そうした反復や釣り合いへの関心が表れています。二人が誰なのかということに加えて、なぜよく似た姿が並んでいるのかも、見る手がかりになりそうです。

マリー・ローランサンの《ピアノの前の女性たち》(1913年頃)では、女性たちの細さと白さが、まず印象に残りました。その一方で、帽子の一部などは平面的で、網目のようにも見えます。柔らかな雰囲気の中にも、不思議な形が混ざっていました。

ローランサンは、ピカソやブラック、マティスらの影響を受けながら、独自の色や形の表現を育てた画家です。その背景を知ると、この平面的な描き方にも、同時代の新しい表現とのつながりを感じます。

美術館でも、家に帰ってからも

今回は、会場でじっと見て疲れ、家に帰って図録をにらんで、また疲れました。特に後半は、正直なところ、まだちんぷんかんぷんです。

それでも、「どこが分からないのか」は、以前より少し具体的になってきた気がします。目がなぜあの色なのか、袖がどうして浮き出して見えるのか、グラスやレモンはどこにあるのか。気になるところが増えた分、一枚の絵の前で使う時間も長くなっているのでしょう。

名古屋で見た風景画がバルビゾンにつながり、ゴッホがミレーやタンギーにつながり、図録の言葉から静物の形が見えてきました。一度では分からなかったことを、別の場所や別の作品を通じて見直せるのも、美術館を巡る楽しさだと思います。

まだ分からない絵はたくさんありますが、分からないまま通り過ぎる前に、もう少し立ち止まってみたくなりました。


この日の美術館巡りは、まだ続きます。次に向かったのは、国立西洋美術館のターナー展です。

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