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出雲阿国塔/安養寺/出雲阿国墓所/阿国寺:海へ向かう寄り道で、歌舞伎の祖に出会う



島根県出雲市で、出雲阿国(おくに)ゆかりの場所を訪ねました。この日の目的は出雲大社や日御碕で、阿国の史跡を巡る予定はありませんでした。きっかけは、稲佐の浜へ向かって歩いている途中に見つけた、一つの案内でした。

古代出雲歴史博物館を見学し、出雲大社に参拝した後、海を目指して歩いていると、「出雲阿国塔」の案内が目に入りました。「阿国という名前は、どこかで聞いたことがあるな」と思い、少し寄り道をしてみることにしました。

石に刻まれた名前から思い出した、歌舞伎の始まり

塔は少し小高い場所にあるようで、ふもとには「出雲阿国 終焉地之碑」という石碑が立っていました。

そこから階段を上っていくと、石造りの塔が見えてきます。周囲の石の囲いには、「坂東」や「中村」といった名前が並んでいました。

その名前を見て、ようやく思い出しました。阿国は、歌舞伎の祖として知られる、あの出雲阿国です。名前だけでは曖昧だった記憶が、歌舞伎の世界でよく耳にする名前と結びついて、急にはっきりしました。

塔には「於国塔」と刻まれ、踊る人物の姿を表した銅製の大きな浮彫がはめ込まれていました。文字だけの記念碑とは違い、体を動かして人々を楽しませた人物だったことが、姿そのものから伝わってくるようです。

この塔は、昭和11年(1936)に、歌舞伎俳優をはじめとする当時の名優たちの寄付によって建てられました。現地の解説によると、戦時中には阿国の姿を表す銅板と、塔の上部にあった九輪が金属供出の対象になったそうです。現在の塔は昭和43年(1968)に再建されたもので、阿国をたたえる記念碑にも、戦争を挟んだ歴史が刻まれていました。

周囲に並ぶ名前を改めて見ると、この塔は阿国一人を記念するだけでなく、その後の芸能に携わった人たちが、自分たちの始まりを振り返る場所でもあるのだと感じます。名前を見て歌舞伎を思い出した私も、そのつながりを、ほんの少しだけたどったことになるのかもしれません。

階段を下りると、行きには気づかなかった「歌舞伎の始祖 出雲於國の塔」と書かれた石碑もありました。最初からこちらを見ていればすぐに分かったはずですが、石に刻まれた名前を手掛かりに思い出したというのも、寄り道らしい経験でした。

この後はいったん稲佐の浜へ向かいました。浜でのことは、別の記事に書きたいと思います。

安養寺から、丘の上の墓所へ

稲佐の浜から戻る途中、今度は阿国ゆかりの寺という案内を見つけ、安養寺に立ち寄りました。先ほど塔を見ていなければ、そのまま通り過ぎていたかもしれません。一つの場所を知ると、周囲の案内の見え方も変わってきます。

安養寺には、阿国が信仰したと伝えられる観音像や、ゆかりの数珠、手鏡などが残されているそうです。舞台上の華やかな姿だけでなく、信仰や日々の暮らしにつながる品が伝わっているところに、この寺と阿国との結びつきを感じます。

ただ、この日は境内に人の姿がなく、そうした品を拝見できる様子ではありませんでした。公開の方法や日時までは分からなかったため、今回は寺を訪ねるだけにしました。


ここで周辺を調べてみると、阿国の墓所や阿国寺も近くにあることが分かりました。塔だけのつもりだった寄り道が、少しずつ阿国ゆかりの場所を巡る散策になっていきます。

墓所も、塔とは別の小高い場所にありました。周囲には比較的新しい墓石がたくさん並んでいますが、阿国の墓と伝えられるものには、ひときわ長い年月が感じられます。平たい自然石を石の囲いで取り巻いた墓で、整った形の新しい墓石とは違う、素朴な姿が印象に残りました。

先ほどの塔が阿国の功績を広く伝えるための記念碑だとすれば、こちらは、一人の人物を静かにしのぶ場所のように感じられます。近くには「出雲阿国公園記念の碑」という石碑もありましたが、その詳しい由来までは分かりませんでした。

小さな連歌庵に伝わる、阿国の晩年

続いて訪れたのが、阿国寺、別名「連歌庵」です。

現地の解説によると、阿国は晩年に大社へ帰り、尼僧となって、読経や連歌を楽しみながら余生を過ごしたと伝えられています。尼僧としての名は「智月」といい、その暮らしを伝える草庵が、阿国寺「連歌庵」と呼ばれるようになったそうです。

目の前の建物は、お寺のお堂として考えると、かなり小さく見えました。しかし、大勢の参拝者を迎える本堂ではなく、一人の人が静かに暮らし、連歌を楽しむ草庵だと思うと、その小ささがむしろ自然に感じられます。建物の大きさは変わらないのに、由来を知ることで受ける印象が変わりました。

連歌庵は、阿国の時代の建物がそのまま残っているわけではありません。もともと中村町にあった庵は火災で失われ、再建された二代目も明治4年(1871)の廃仏毀釈によって取り壊されました。その後、昭和11年(1936)に「劇祖阿国会」によって再建されています。現地の案内には、別の場所から移築された経緯も記されており、この小さな庵も、失われては再び受け継がれる歴史をたどってきたようです。

もっとも、阿国は生没年を含め、詳しい経歴に分からないことの多い人物です。出雲大社の巫女を名乗っていたことは知られていますが、その実像には不明な点が残り、帰郷後の暮らしも伝承として語られています。ここでは、阿国の生涯をすべて確かめられるというより、地域の人々がどのように阿国を記憶し、伝えてきたのかに触れられるのだと思います。

人々の前で踊る阿国の姿を表した塔と、読経や連歌に親しんだ晩年を伝える小さな庵。同じ人物にまつわる場所でも、思い浮かべる姿はずいぶん違います。

女性の踊りから始まった歌舞伎

阿国をきっかけに、歌舞伎の始まりについても改めて振り返ってみました。

慶長8年(1603)、阿国は京都で「かぶき踊り」を演じ、評判を集めました。当時の「かぶき者」と呼ばれた、派手な服装や振る舞いをする人々の姿を取り入れ、男装して茶屋遊びの様子などを演じたといいます。今では伝統芸能として受け止めている歌舞伎も、その始まりには、当時の流行を取り込んだ新しい面白さがあったのです。

阿国の人気に続いて、女性たちによる「女歌舞伎」が広まりました。しかし、寛永6年(1629)には風俗を乱すという理由で禁止され、その後に人気を集めた少年たちの「若衆歌舞伎」も取り締まりの対象となります。そうした変化のなかで、成人男性による「野郎歌舞伎」が発展し、女性の役を男性が演じる女方の芸も確立されていきました。[

歌舞伎の祖が女性であることは、以前どこかで学んで知っていました。その人物が出雲阿国と呼ばれることも知っていたのですが、この日まですっかり忘れていました。男性が女性の役を演じる芸で知られる歌舞伎の源流に、男装して踊った女性がいるというのは、改めて考えると興味深いことです。

今回は、出雲大社や日御碕を訪ねるつもりで来た旅でした。それが、道沿いの案内に誘われ、塔、寺、墓所、小さな草庵と、一人の人物にまつわる場所を巡ることになりました。知識として覚えていた名前が、実際の町の風景と結びついたことで、以前よりも身近な存在になった気がします。


阿国寺を後にして、次は旧大社駅へ向かおうと歩き始めました。ところが、途中で偶然タクシー乗り場を見つけたため、ここで予定を変え、日御碕へ向かうことにしました。

阿国との思わぬ出会いに続いて、移動のきっかけも道の途中で見つかりました。目的地だけを順番に巡るのとは少し違う、歩いていたからこそ広がった出雲の旅でした。

旅程

羽田空港

↓(飛行機)

出雲空港

↓(バス)

古代出雲歴史博物館

↓(徒歩)

出雲大社

↓(徒歩)

出雲阿国塔

↓(徒歩)

稲佐の浜

↓(徒歩)

安養寺/出雲阿国墓所/阿国寺

↓(徒歩)

日御碕神社

↓(徒歩)

(略)

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