スキップしてメイン コンテンツに移動

ヤン・フス像:旧市街の広場に立つ、チェコの歴史を背負った群像

チェコ・プラハ観光の1日目です。昼過ぎにホテルへ到着してから、さっそく旧市街の散策を始めました。旧市庁舎を見学し、独特な二本の尖塔が印象的なティーンの前の聖母教会を眺めたあと、旧市街広場の中央にあるヤン・フス像へ向かいました。

旧市街広場はプラハの歴史地区を代表する場所で、その起源は中世にまでさかのぼります。かつてはヨーロッパ各地を結ぶ交易路の交差点に市場が形成され、長い歴史の中で政治的な集会や処刑など、さまざまな出来事の舞台にもなりました。現在では旧市庁舎やティーンの前の聖母教会、聖ミクラーシュ教会など歴史的な建築物に囲まれ、多くの観光客が集まるプラハ観光の中心となっています。

その広場の中でも特に存在感があるのが、巨大なヤン・フス像です。遠くから見ると黒色に近い重厚な像で、中央に立つヤン・フスと、その周囲を取り巻く人々によって一つの大きな群像が構成されています。

ヤン・フスは14世紀後半から15世紀初頭に活動したボヘミアの聖職者・宗教改革者です。プラハ大学で学び、イングランドの神学者ジョン・ウィクリフの思想から影響を受けながら、当時の教会や聖職者のあり方を批判し、改革を訴えました。とりわけプラハのベツレヘム礼拝堂でチェコ語による説教を行ったことで、その思想は広く人々へ伝わっていきました。やがて教会との対立が深まり、1415年7月6日、コンスタンツ公会議で異端とされ、火刑に処されます。

しかし、フスを処刑したことで彼の思想が消えたわけではありませんでした。むしろボヘミアではフスを支持する人々の反発が強まり、やがてフス派と呼ばれる勢力へ発展します。その後のフス戦争へつながるなど、フスの死はチェコの歴史を大きく動かす出来事となりました。現在でもヤン・フスは、単なる宗教家というより、チェコの宗教改革や民族の歴史を象徴する人物の一人として扱われています。

現在の記念像を制作したのは、チェコの彫刻家ラディスラフ・シャロウンです。1903年に礎石が置かれ、フスの火刑から500年となる1915年に完成しました。当時は第一次世界大戦中で、チェコの地はまだオーストリア=ハンガリー帝国の一部でした。そのため大規模な除幕式は認められず、プラハ市民は像を花で飾って完成を祝ったとされています。独立したチェコスロヴァキアが成立するのは、その3年後の1918年でした。

実際に像を眺めて面白かったのは、見る方向によって姿がかなり違って見えることでした。片側から見ると立っている男性たちの姿が目立ちますが、反対側へ回ると、何人もの人物が一つの大きな塊へ溶け込んでいるように見えます。当時は単に「ずいぶん変わった像だな」と感じましたが、これは単なる装飾ではなく、それぞれ異なる歴史的意味を持った人々を表現した群像です。

中央のフスは、燃え尽きようとする火刑台の上に立つ殉教者として表されています。その一方には盾や武器を持つフス派の戦士たちが置かれています。そして反対側の、身体を寄せ合うように表現された人々は、1620年の白山の戦い以後の弾圧によって故郷を離れた亡命者たちを象徴しています。私が「何人もの人が溶け込んだようだ」と感じた部分は、まさに敗北や抑圧を経験した人々を一つの群像としてまとめた側だったようです。

さらにフス像そのものも、偶然この向きに置かれているわけではありません。中央のフスはティーンの前の聖母教会の方向を見つめるように配置されています。同教会はフス派の歴史とも深く結びついた教会です。ほんの少し前に見てきたティーンの前の聖母教会と、広場中央のヤン・フス像が、チェコの宗教史という一本の線でつながっていたことになります。

像の周囲は大きな広場になっており、この日は多くの人が腰を下ろして休んでいました。巨大な歴史的人物の記念碑でありながら、現在では観光客や市民がそのすぐそばで座って話したり、旧市街の景色を眺めたりしています。

初めて訪れたときには、少し不思議な形をした黒い群像という印象の方が強く残りました。しかし、その人物たちがフスの処刑からフス派の戦い、さらに白山の戦い後の弾圧まで、約200年にわたるチェコの歴史を表していると知ると見え方が変わってきます。プラハ旧市街広場の真ん中に置かれたこの像は、一人の宗教改革者の記念碑であると同時に、チェコの人々が歩んできた宗教と政治、抵抗の歴史を大きな群像として表した記念碑でもありました。

旅程

(略)

↓(徒歩)

カフカの像

↓(徒歩)

旧市庁舎

↓(徒歩)

ティーンの前の聖母教会

↓(徒歩)

ヤン・フス像

↓(徒歩)

Man Hanging Out - David Černý's Statue of Sigmund Freud

↓(徒歩)

(略)

周辺のスポット

リンク

コメント

このブログの人気の投稿

斎宮歴史博物館:柵列の間をくぐり抜け、古代国家の祈りに触れる、祈りの都が農村へ変わるまで

斎宮跡を歩いたあと、その流れのまま斎宮歴史博物館へ向かいました。駅前から感じていた木造風の意匠や、整えられた景観の延長線上に、この博物館の落ち着いた佇まいがあり、ここでようやく「斎宮」という言葉が指す世界の輪郭を、資料と展示で掴めそうだと思いました。斎宮は史跡としては広々としていて、当時の建物がそのまま立ち上がっているわけではありません。その分、見学者の頭の中で想像を補う余地が大きいのですが、博物館はその空白を、根拠と手触りのある情報で丁寧に埋めてくれる場所でした。 ちょうど特別展「天地(あめつち)の神を祈りて-伊勢神宮、そして斎宮-」が開催されており、展示室に入ると、ここが古代から信仰の重要な舞台だったことを、古墳時代の出土品などの実物資料を通して実感できました。伊勢神宮が成立していく過程、そこに斎宮・斎王という制度が結びついていく必然性が、単なる言葉の説明ではなく「この土地から出てきたもの」と一緒に語られるので、歴史がふわっとした神話のように遠ざからず、現実の地層の上に積み上がった出来事として迫ってきます。斎宮跡を先に見ていたからこそ、「あの広い区画が、ただの空き地ではなく、国家的な祈りを担う装置だったのだ」という感覚が、じわじわと身体に染みてきました。 特別展のあとに常設展を見ていくと、展示室が二つに分かれている構成が分かりやすく、斎宮という存在を別々の角度から立体的に捉えられるようになっていました。展示室1のテーマは「文字からわかる斎宮」です。延喜式のレプリカが示す制度としての斎宮、そして源氏物語、栄華物語、大和物語といった文学作品の中に現れる斎宮や斎王の姿が並ぶと、斎王がただの宗教的存在ではなく、宮廷文化の文脈の中でも強く意識された存在だったことが見えてきます。文学の中の斎王は、歴史の事実だけでは捉えきれない感情や視線をまとっていて、制度の説明とは違う温度で当時の人々の心情を想像させます。 さらに、文字が書かれた土器や印といった資料も展示されていて、「斎宮は祈りの場」という一言では片づかない、運用のための事務や情報のやりとりが確かにあったことが伝わってきました。展示の中には、武官や男女の子どもの等身大人形と当時の衣装があり、そこに復元された葱華輦(そうかれん)や斎王の居室の再現も続きます。文字資料を中心とする展示室1なのに、こうした視覚的・空間的な復元がし...

新島旧邸:京都の町なかで思いがけず出会った特別公開

京都文化博物館に行くために京都市に来たこの日、私は開館までの時間を使って京都御苑を歩いていました。ところが、京都御苑は思っていた以上に見どころが多く、閑院宮邸跡や京都御所、桂宮邸跡などを見て回っているうちに、気づけばかなりの時間が過ぎていました。少し急ぎ足で京都文化博物館へ向かっていた途中、ふと目に入ったのが「新島旧邸 特別公開中」という文字でした。その瞬間、「あの新島だろうか」と思って案内を見ると、やはり同志社の創立者として知られる新島襄の旧邸でした。まったく予定していなかった立ち寄りでしたが、こうした思いがけない出会いも旅の大きな魅力です。入り口のスタッフの方に尋ねると、毎週土曜日は特別公開の日で、建物の内部も見学できるとのことでした。ここまで予定以上に時間を使ってしまっていましたが、せっかくの機会なので見学することにしました。 新島襄は、明治時代の日本において近代的な教育の実現を目指した人物として知られています。海外で学び、キリスト教や欧米の教育思想に触れた新島襄は、帰国後に京都で同志社英学校を創立し、日本の新しい教育のあり方を切り開こうとしました。その新島襄が暮らした旧邸が、京都の町なかに今も残されていること自体、とても貴重なことだと思います。しかも、この建物は単なる住まいではなく、新しい時代の思想や暮らし方を映し出す場でもあったのでしょう。明治という、和と洋、伝統と近代が激しく交差した時代の空気を、建物そのものから感じ取ることができるように思えました。 最初に見た日本風の附属屋は、落ち着いた雰囲気の建物でした。展示品もありましたが、同志社社史資料センター所蔵資料のレプリカが中心だったようで、いつか訪れてみたいと思っていた資料センターの予習のような時間にもなりました。この附属屋は新島襄の両親のために建てられたものだそうで、そのことを知ると建物の見え方も変わってきます。新しい時代の教育を志し、西洋の知識を積極的に取り入れた新島襄ですが、その一方で家族を大切にし、日本的な暮らしの空間もきちんと用意していたことが伝わってきます。近代化というと、何かを一方的に捨てて新しいものに入れ替えるような印象を持ちがちですが、実際にはこうして古いものと新しいものを併せ持ちながら進んでいったのだろうと感じました。 続いて見学した母屋は洋風の造りで、附属屋とはまた違った魅力がありま...

寺田倉庫G1ビル:NAKED meets ガウディ展:“作品鑑賞”ではなく“思考体験”としてのガウディ

東京都品川区の寺田倉庫G1ビルで開催された「NAKED meets ガウディ展」に行きました。2月11日の午後に一度訪れたときは、想像以上の人気で入場が3時間待ちになってしまい、その日は予定を変更して引き返しました。せっかくなので仕切り直し、別の日の朝10時少し前に再訪すると、この時間でもすでに人が多く、入口を抜けた先のエレベーター前でしばらく待つことになりました。展覧会が始まる前から熱量が伝わってきて、「ガウディは“作品”というより“体験”として見られているのかもしれない」と思いながら列に並びました。 会場に入ると、まずガウディの生涯が簡潔に紹介されます。19世紀後半から20世紀初頭のバルセロナは、産業の発展とともに都市が急速に膨張し、同時にカタルーニャ独自の文化が芸術へと結晶していった時代でした。いわゆるモデルニスモ(カタルーニャ・モダニズム)の潮流の中で、ガウディは歴史主義や装飾の流行に回収されない、自然の秩序そのものを建築へ翻訳するような道を選びます。その入口として、この展覧会は「自然から得た造形美」を前面に出していました。 印象的だったのは、自然物と建築部位を並べて見せる導入です。「小麦」とサグラダ・ファミリア上部の塔、「にんにく」とカサ・バトリョの換気塔、「糸杉の円錐」とベリュスグアルドの塔、「キノコ」とグエル公園の煙突、「樹の柱」とサグラダ・ファミリア内部の柱、「ハチの巣」とカサ・カルベットの覗き穴といった対応関係が、説明とレプリカ展示で示されていました。ここで面白いのは、自然を“模倣”するというより、自然の形が生まれる理屈や強度のあり方を“借りている”ように感じられる点です。曲線は気まぐれな装飾ではなく、重さを受け流し、光を導き、空間を育てるための構造そのものなのだと、最初のコーナーだけでも伝わってきました。 次のコーナーでは、バルセロナ来訪後のガウディの作品が、少し変わった見せ方で並びます。壁面にエル・カプリチョ、カサ・ビセンス、グエル邸、アストルガ司教館、カサ・ボティネスなどのファサードが立体的に配置され、そこにプロジェクションマッピングのような映像が流れていました。建物を単体で鑑賞するというより、街の中で呼吸し、時間とともに表情を変える“都市の一部”として体感させる構成で、バルセロナの通りを歩きながら次々に建築に出会う感覚がうまく再現されている...