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海軍記念館:軍港の町に残る、海軍から海上自衛隊への歴史

昨年から、戦後80年や昭和100年に関する企画展・特別展を見ていると、舞鶴引揚記念館の資料が何度も登場しました。そのため、一度は舞鶴を訪れてみたいと思っていました。

舞鶴引揚記念館を見学した後、次に向かったのが海軍記念館です。

海軍記念館は海上自衛隊舞鶴地方総監部の施設内にあります。展示は舞鶴だけに限らず、明治以降の日本海軍から戦後の海上自衛隊まで、海を守る組織の歴史を広くたどる内容になっていました。

建物そのものにも歴史があります。現在の海軍記念館は、旧海軍機関学校の大講堂として使われた建物の一部を利用しています。歴史を感じさせる煉瓦の建物の中に入ると、まず目に入ったのが東郷平八郎の胸像でした。

説明によると、この胸像は昭和38年に西舞鶴港の土の中から発見されたものだそうです。現在では記念館の入口に置かれていますが、一度地中に埋められたものが再び姿を現し、旧海軍の歴史を伝える場所に置かれているという経緯にも興味をひかれました。

展示は、近代日本に海軍がつくられていくところから始まります。

明治5年、1872年に海軍省と陸軍省が設置されました。翌1873年には勝海舟が海軍卿となります。幕末に咸臨丸で太平洋を渡り、幕府の海軍育成にも関わった勝海舟が、明治政府でも海軍行政を担ったことを考えると、幕末から明治への移行は単純な断絶ではなかったことも感じられます。

明治18年、1885年に内閣制度が始まると、海軍卿に代わって海軍大臣が置かれ、初代海軍大臣には西郷隆盛の弟である西郷従道が就任しました。西郷従道というと兄の西郷隆盛の存在があまりにも大きいですが、明治政府では軍事や行政の中枢を担った人物でした。

そして舞鶴が海軍の町となる転機が、明治22年、1889年に訪れます。

日本海側の海軍拠点として舞鶴に鎮守府を置くことが決定されました。舞鶴湾は湾口が狭い一方で内部は広く、水深もあり、防御しやすい天然の良港でした。ただし、この時点ですぐ鎮守府が開かれたわけではなく、その後に軍港としての整備が進められ、明治34年、1901年10月1日に舞鶴鎮守府が開庁しました。

その初代司令長官となったのが東郷平八郎です。後に日露戦争の日本海海戦で連合艦隊を率いる人物が、舞鶴鎮守府の最初の司令長官だったことになります。

舞鶴にはさらに、海軍機関学校も置かれました。もともとは横須賀にありましたが、大正12年、1923年の関東大震災で校舎が焼失したため、その後、舞鶴へ移転しました。艦船を動かす機関に関わる海軍士官を養成した学校で、現在の舞鶴地方総監部がある場所も、その歴史につながっています。

大講堂には、日露戦争の旅順港閉塞作戦に参加した福井丸を描いた大きな絵がありました。特に驚いたのは、その額縁が福井丸の船体の一部を使って作られているということです。

絵として歴史的事件を描くだけでなく、その事件に実際に参加した船そのものの一部が額縁になっているため、単なる絵画とは違った重みがあります。資料を「見る」というより、歴史的事件の物質的な痕跡がそのまま残されているように感じました。


そして1945年に戦争が終わると、日本海軍もその歴史を終えます。

しかし、舞鶴と海との関係まで終わったわけではありませんでした。昭和27年、1952年に海上自衛隊の前身となる海上警備隊が創設され、その後、昭和29年、1954年に海上自衛隊が発足します。舞鶴にも海上自衛隊の拠点が置かれ、現在まで日本海側の重要な基地の一つとなっています。


現在の舞鶴を歩いていても、海軍と海上自衛隊の歴史は町のあちこちに残っています。

赤れんがの建物が並び、通りには艦船に由来する名前があり、海軍や海上自衛隊に由来するカレーや肉じゃがも舞鶴の名物になっています。軍港として整備された明治時代の歴史が、建築や道路、食文化にまで形を変えながら残っていることが分かります。

海軍記念館を見た後は、赤れんが博物館へ向かいました。


その途中、港を見ると、この日は多くの海上自衛隊の艦船が停泊していました。

記念館の中で明治から昭和にかけての海軍の歴史を見た直後だったこともあり、港に並ぶ現在の艦船も、単に現代の自衛隊の船としてだけではなく、舞鶴が100年以上にわたって歩んできた「海の町」としての歴史の延長にあるように見えました。

同じ舞鶴でも、舞鶴引揚記念館では戦争が終わった後に海外から日本へ帰ってきた人々の歴史を知り、海軍記念館では明治から戦争、そして海上自衛隊へと続く海軍都市としての歴史を見ることができました。

舞鶴という町を理解するには、どちらか一方だけではなく、この二つの歴史をあわせて見ることが重要なのかもしれません。

旅程

東京

↓(新幹線 / JR特急まいづる)

東舞鶴駅

↓(タクシー)

舞鶴引揚記念館

↓(タクシー)

海軍記念館

↓(徒歩)

舞鶴市立赤れんが博物館

↓(徒歩)

舞鶴赤れんがパーク / 海軍ゆかりの港めぐり遊覧船

↓(徒歩)

東舞鶴駅

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