スキップしてメイン コンテンツに移動

舞鶴引揚記念館:白樺に刻まれた、帰国への思い

京都府舞鶴市の舞鶴引揚記念館に行きました。

昨年から、戦後80年や昭和100年に関連した企画展や特別展を見る機会が増え、その中で舞鶴引揚記念館が所蔵する資料を何度も目にしました。それまで舞鶴が戦後の引き揚げと深い関係を持つことは知っていましたが、さまざまな場所で実物資料を見るうちに、一度は現地を訪れてみたいと思うようになりました。

当初はシルバーウイークを利用して一泊するつもりでしたが、計画を立ててみると日帰りでも十分に回れそうでした。そのため今回は東京から日帰りで舞鶴を訪れることにしました。

第二次世界大戦が終わった1945年、日本国外には軍人と民間人を合わせて660万人以上の日本人が残されていました。その帰国のために各地に引揚港が設けられ、舞鶴もその一つとなりました。1945年10月7日に最初の引揚船「雲仙丸」が入港し、1958年9月7日の「白山丸」まで、舞鶴は13年間にわたって約66万人の引揚者や復員兵を迎えています。特に1950年以降は国内で唯一の引揚港となり、長くその役割を担いました。

舞鶴引揚記念館へ向かうタクシーの中で、運転手から復元された引揚桟橋にも行ってみてはどうかと勧められました。もともと記念館から戻る際に立ち寄るつもりだったので、予定を変更して先に連れて行ってもらいました。

現在の桟橋は短く復元されていますが、当時はその先に浮桟橋が続いていたそうです。周辺の海は浅いため、引揚船が直接桟橋まで入るのではなく、沖に停泊した船からボートに乗り換えて上陸しました。

現地での説明によると、桟橋は北側と南側にあり、当初は北側が主に使用されていましたが、後に南側が中心になったそうです。近くには政府の施設も設けられ、帰国した人々の消毒や、日本での生活に戻るための情報提供なども行われました。

現在の静かな海を眺めていると、ここに船から降りてきた人たちがいたことを想像するのは簡単ではありません。しかし記念館だけを見るのではなく、先に実際の引揚桟橋があった場所を見ることによって、その後の展示も具体的な場所と結び付けて考えられるようになりました。


桟橋を見た後、舞鶴引揚記念館へ移動しました。

11時少し前に到着すると、ちょうど11時から「舞鶴・引揚語りの会」による説明が始まるところだったため、参加することにしました。

担当された方のお父様もシベリアに抑留され、鉄道敷設の仕事に従事していたそうです。抑留中の食事や生活環境については、非常に厳しい話が続きました。

印象に残ったものの一つが、出兵前に撮影された家族写真でした。その写真では父親だけが笑顔を見せていました。もちろん本当の気持ちは分かりませんが、当時は子どもの出兵を誇りに思っている姿を周囲に見せなければならなかったのではないか、という説明がありました。

写真に写っているのは一瞬ですが、その表情の裏側に何があったのかを考えると、戦争が人々に要求したものは戦場での行動だけではなかったことが分かります。家族を送り出す側にも、その時代に求められた振る舞いがありました。

館内にはシベリア抑留に関する多くの資料があります。その中でも特に有名なのが「白樺日誌」です。

紙が簡単に手に入らない環境で、白樺の樹皮を紙の代わりにし、空き缶を加工して作った筆記具と煙突のすすなどを利用して、抑留中の日々を和歌として記録したものです。現在、この白樺日誌を含む舞鶴市所蔵の引き揚げ関連資料570点は、ユネスコ「世界の記憶」に登録されています。

白樺日誌は実物が展示されているだけでなく、その文章の一部が展示室の壁にも大きく書かれていました。

説明を聞きながら興味深く感じたのは、なぜこのような厳しい環境の中で、人は記録を残そうとしたのかということでした。

館内には白樺日誌だけでなく、紙を束ねて作った手帳や人名簿なども展示されています。一人だけが特別に記録を残そうと考えたわけではなく、多くの人が、それぞれの方法で自分たちの経験や仲間の存在を残そうとしていました。

手作りの麻雀牌も展示されていました。

もちろん麻雀をして時間を過ごすために作ったのでしょう。しかし説明では、それだけではなく、「作り終わるころには帰れるかもしれない」という期待があったのかもしれない、あるいは何かを作るという作業そのものによって時間を過ごしたかったのかもしれない、といった話もありました。

白樺の皮に文字を書くことも、麻雀牌を作ることも、一見するとまったく違う行為です。しかし、いつ終わるか分からない抑留生活の中で、自分の時間を自分のものとして保とうとする行為だったと考えると、どこか共通するものがあるようにも感じました。


館内には、引揚船の模型も数多く展示されていました。

「引き揚げ」という言葉だけでは非常に大きな歴史上の出来事に見えますが、実際には一隻一隻の船が海を渡り、一人一人の人間がそこに乗って日本へ戻ってきました。模型を見ていると、そうした巨大な歴史が具体的な移動の積み重ねであったことを実感できます。

舞鶴引揚記念館は1988年に開館し、現在では全国から寄贈された約1万6000点の資料を収蔵し、そのうち1000点を超える資料が常設展示されています。実際に見てみると、常設展だけでもかなりの情報量でした。


この日は企画展「ウズベキスタンと舞鶴~抑留から交流へ、深まる絆~」も開催されていました。

シベリア抑留という言葉からはロシアのシベリア地方を想像しがちですが、旧ソ連による抑留は広い地域に及び、現在のウズベキスタンにも日本人の抑留者が送られました。

展示では、タシケントにあるナボイ劇場の建設に日本人抑留者が従事したことも紹介されていました。過酷な抑留という歴史がある一方で、現地で働いた日本人の仕事ぶりや誠実さに関する記憶がウズベキスタン側にも残され、戦後の交流へとつながっていったそうです。舞鶴市とウズベキスタンのフェルガナ州リシタン地区との交流も、こうした歴史を背景に発展し、現在は姉妹都市提携へとつながっています。

企画展には抑留関係の資料だけでなく、リシタン陶器やギジュドゥバン陶器、パフタ柄の陶器、民族衣装なども展示されていました。

ここでは、抑留という過去の出来事を展示するだけでなく、その記憶を現在の国際交流へ結び付けようとしていることが印象に残りました。戦争や抑留の歴史を伝える施設というと、どうしても過去を振り返る場所という印象があります。しかし舞鶴とウズベキスタンの関係を見ると、歴史を記憶することが、現在や未来の関係を作ることにもつながり得ることが分かります。


記念館を一通り見た後は、建物の裏側に広がる引揚記念公園へ向かいました。

公園は、かつて舞鶴引揚援護局があった場所を見下ろす丘陵地に1969年に整備されたものです。頂上付近には、館内でも紹介されていた「ああ母なる国」の碑をはじめ、引き揚げや戦争の記憶に関係するさまざまな碑があります。

展望台に立つと、先ほど訪れた引揚桟橋の方向も見渡すことができました。

最初に桟橋へ行き、そこで当時の引き揚げについて説明を聞き、記念館で実物資料を見て、最後に丘の上からその場所全体を眺めることになりました。

結果的に、この順番はとても良かったと思います。


舞鶴引揚記念館で特に印象に残ったのは、戦争や抑留という大きな歴史そのものだけではありませんでした。白樺の皮に文字を書いた人、紙を束ねて手帳を作った人、仲間の名前を記録した人、麻雀牌を作った人、そして船が到着するたびに帰国者を迎えた人たちがいました。

大きな歴史の中にも、一人一人には毎日の生活があります。

いつ帰れるか分からない状況でも記録を残し、物を作り、誰かと遊び、帰国を待つ。そのような人間の行動が実物として残っているところに、この記念館の大きな意味があるように感じました。


この後はタクシーを呼び、舞鶴のもう一つの歴史を知るため、海軍記念館へ向かいました。

旅程

東京

↓(新幹線 / JR特急まいづる)

東舞鶴駅

↓(タクシー)

舞鶴引揚記念館

↓(タクシー)

海軍記念館

↓(徒歩)

舞鶴市立赤れんが博物館

↓(徒歩)

舞鶴赤れんがパーク / 海軍ゆかりの港めぐり遊覧船

↓(徒歩)

東舞鶴駅

関連イベント

関連スポット

リンク

コメント

このブログの人気の投稿

斎宮歴史博物館:柵列の間をくぐり抜け、古代国家の祈りに触れる、祈りの都が農村へ変わるまで

斎宮跡を歩いたあと、その流れのまま斎宮歴史博物館へ向かいました。駅前から感じていた木造風の意匠や、整えられた景観の延長線上に、この博物館の落ち着いた佇まいがあり、ここでようやく「斎宮」という言葉が指す世界の輪郭を、資料と展示で掴めそうだと思いました。斎宮は史跡としては広々としていて、当時の建物がそのまま立ち上がっているわけではありません。その分、見学者の頭の中で想像を補う余地が大きいのですが、博物館はその空白を、根拠と手触りのある情報で丁寧に埋めてくれる場所でした。 ちょうど特別展「天地(あめつち)の神を祈りて-伊勢神宮、そして斎宮-」が開催されており、展示室に入ると、ここが古代から信仰の重要な舞台だったことを、古墳時代の出土品などの実物資料を通して実感できました。伊勢神宮が成立していく過程、そこに斎宮・斎王という制度が結びついていく必然性が、単なる言葉の説明ではなく「この土地から出てきたもの」と一緒に語られるので、歴史がふわっとした神話のように遠ざからず、現実の地層の上に積み上がった出来事として迫ってきます。斎宮跡を先に見ていたからこそ、「あの広い区画が、ただの空き地ではなく、国家的な祈りを担う装置だったのだ」という感覚が、じわじわと身体に染みてきました。 特別展のあとに常設展を見ていくと、展示室が二つに分かれている構成が分かりやすく、斎宮という存在を別々の角度から立体的に捉えられるようになっていました。展示室1のテーマは「文字からわかる斎宮」です。延喜式のレプリカが示す制度としての斎宮、そして源氏物語、栄華物語、大和物語といった文学作品の中に現れる斎宮や斎王の姿が並ぶと、斎王がただの宗教的存在ではなく、宮廷文化の文脈の中でも強く意識された存在だったことが見えてきます。文学の中の斎王は、歴史の事実だけでは捉えきれない感情や視線をまとっていて、制度の説明とは違う温度で当時の人々の心情を想像させます。 さらに、文字が書かれた土器や印といった資料も展示されていて、「斎宮は祈りの場」という一言では片づかない、運用のための事務や情報のやりとりが確かにあったことが伝わってきました。展示の中には、武官や男女の子どもの等身大人形と当時の衣装があり、そこに復元された葱華輦(そうかれん)や斎王の居室の再現も続きます。文字資料を中心とする展示室1なのに、こうした視覚的・空間的な復元がし...

新島旧邸:京都の町なかで思いがけず出会った特別公開

京都文化博物館に行くために京都市に来たこの日、私は開館までの時間を使って京都御苑を歩いていました。ところが、京都御苑は思っていた以上に見どころが多く、閑院宮邸跡や京都御所、桂宮邸跡などを見て回っているうちに、気づけばかなりの時間が過ぎていました。少し急ぎ足で京都文化博物館へ向かっていた途中、ふと目に入ったのが「新島旧邸 特別公開中」という文字でした。その瞬間、「あの新島だろうか」と思って案内を見ると、やはり同志社の創立者として知られる新島襄の旧邸でした。まったく予定していなかった立ち寄りでしたが、こうした思いがけない出会いも旅の大きな魅力です。入り口のスタッフの方に尋ねると、毎週土曜日は特別公開の日で、建物の内部も見学できるとのことでした。ここまで予定以上に時間を使ってしまっていましたが、せっかくの機会なので見学することにしました。 新島襄は、明治時代の日本において近代的な教育の実現を目指した人物として知られています。海外で学び、キリスト教や欧米の教育思想に触れた新島襄は、帰国後に京都で同志社英学校を創立し、日本の新しい教育のあり方を切り開こうとしました。その新島襄が暮らした旧邸が、京都の町なかに今も残されていること自体、とても貴重なことだと思います。しかも、この建物は単なる住まいではなく、新しい時代の思想や暮らし方を映し出す場でもあったのでしょう。明治という、和と洋、伝統と近代が激しく交差した時代の空気を、建物そのものから感じ取ることができるように思えました。 最初に見た日本風の附属屋は、落ち着いた雰囲気の建物でした。展示品もありましたが、同志社社史資料センター所蔵資料のレプリカが中心だったようで、いつか訪れてみたいと思っていた資料センターの予習のような時間にもなりました。この附属屋は新島襄の両親のために建てられたものだそうで、そのことを知ると建物の見え方も変わってきます。新しい時代の教育を志し、西洋の知識を積極的に取り入れた新島襄ですが、その一方で家族を大切にし、日本的な暮らしの空間もきちんと用意していたことが伝わってきます。近代化というと、何かを一方的に捨てて新しいものに入れ替えるような印象を持ちがちですが、実際にはこうして古いものと新しいものを併せ持ちながら進んでいったのだろうと感じました。 続いて見学した母屋は洋風の造りで、附属屋とはまた違った魅力がありま...

寺田倉庫G1ビル:NAKED meets ガウディ展:“作品鑑賞”ではなく“思考体験”としてのガウディ

東京都品川区の寺田倉庫G1ビルで開催された「NAKED meets ガウディ展」に行きました。2月11日の午後に一度訪れたときは、想像以上の人気で入場が3時間待ちになってしまい、その日は予定を変更して引き返しました。せっかくなので仕切り直し、別の日の朝10時少し前に再訪すると、この時間でもすでに人が多く、入口を抜けた先のエレベーター前でしばらく待つことになりました。展覧会が始まる前から熱量が伝わってきて、「ガウディは“作品”というより“体験”として見られているのかもしれない」と思いながら列に並びました。 会場に入ると、まずガウディの生涯が簡潔に紹介されます。19世紀後半から20世紀初頭のバルセロナは、産業の発展とともに都市が急速に膨張し、同時にカタルーニャ独自の文化が芸術へと結晶していった時代でした。いわゆるモデルニスモ(カタルーニャ・モダニズム)の潮流の中で、ガウディは歴史主義や装飾の流行に回収されない、自然の秩序そのものを建築へ翻訳するような道を選びます。その入口として、この展覧会は「自然から得た造形美」を前面に出していました。 印象的だったのは、自然物と建築部位を並べて見せる導入です。「小麦」とサグラダ・ファミリア上部の塔、「にんにく」とカサ・バトリョの換気塔、「糸杉の円錐」とベリュスグアルドの塔、「キノコ」とグエル公園の煙突、「樹の柱」とサグラダ・ファミリア内部の柱、「ハチの巣」とカサ・カルベットの覗き穴といった対応関係が、説明とレプリカ展示で示されていました。ここで面白いのは、自然を“模倣”するというより、自然の形が生まれる理屈や強度のあり方を“借りている”ように感じられる点です。曲線は気まぐれな装飾ではなく、重さを受け流し、光を導き、空間を育てるための構造そのものなのだと、最初のコーナーだけでも伝わってきました。 次のコーナーでは、バルセロナ来訪後のガウディの作品が、少し変わった見せ方で並びます。壁面にエル・カプリチョ、カサ・ビセンス、グエル邸、アストルガ司教館、カサ・ボティネスなどのファサードが立体的に配置され、そこにプロジェクションマッピングのような映像が流れていました。建物を単体で鑑賞するというより、街の中で呼吸し、時間とともに表情を変える“都市の一部”として体感させる構成で、バルセロナの通りを歩きながら次々に建築に出会う感覚がうまく再現されている...