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横浜都市発展記念館:特別展「絵図で旅する幕末の横浜」:絵図でたどる、小さな横浜村から近代都市への変貌

神奈川県横浜市の横浜都市発展記念館に行きました。

この日は横浜美術館で「マリー・アントワネット・スタイル」展とコレクション展を見た後、横浜都市発展記念館へ向かいました。雨が降っていたため、みなとみらい周辺から日本大通りへ移動し、駅からほとんど雨に濡れずに入れる施設を選びました。

横浜都市発展記念館は横浜ユーラシア文化館と同じ建物に入っています。今回は特別展のチケットで、横浜都市発展記念館と横浜ユーラシア文化館の常設展も見ることができました。


まず見たのは、横浜都市発展記念館の特別展「絵図で旅する幕末の横浜」です。

現在の横浜といえば、高層ビルが立ち並ぶ大都市であり、日本を代表する港町という印象があります。しかし展示を見て最初に驚いたのは、現在の横浜中心部が、江戸時代にはまったく違った姿をしていたことでした。


17世紀後半の様子を描いた「吉田新田開墾前図」では、現在の市街地にあたる場所の多くが大きな入り江となっており、横浜村はその海に突き出した小さな半島のような場所にありました。

伊能忠敬による「大日本沿海輿地全図」を見ても、「横濱村」という名前は狭い場所に小さく記されているだけです。当時、この地域で重要だったのは東海道の宿場町である神奈川宿であり、横浜村はその周辺にある小さな村の一つにすぎませんでした。


その状況を大きく変えるきっかけとなったのが、幕末の外国船来航です。

ペリーが来航すると、幕府や諸藩は沿岸警備を強化し、そのためにさまざまな絵図が作られました。地図は単に場所を記録するものではなく、どこを守るのか、外国船がどこに停泊しているのかを把握するための重要な情報でもありました。

さらに日米修好通商条約によって神奈川の開港が定められると、実際の開港場は東海道の神奈川宿ではなく、その対岸に近い横浜に設けられました。そして1859年に横浜港が開港すると、それまで小さな村だった横浜は外国との貿易を担う町へと急速に姿を変えていきます。


開港後には外国人居留地が設けられ、国内外から商人をはじめ多くの人々が集まりました。それに伴って、町や周辺地域を記録した地図も増えていきます。

展示されている絵図を見ると、沿岸警備だけでなく、外国人の遊歩区域や狩猟、商業、観光など、さまざまな目的で地図が作られていたことが分かりました。町が複雑になるほど、そこを把握するための地図も必要になっていったのでしょう。


一方、地図には災害の記録という役割もありました。

慶応2年(1866年)には横浜で大火が発生し、外国人居留地や日本人町の広い範囲が被害を受けました。展示には、その被害状況を記録した図もありました。都市が成長して建物が密集するようになれば、火災による被害も大きくなります。地図を通して、都市化の華やかな面だけでなく、その裏側にある危険まで見ることができます。


明治時代になると、横浜の近代化はさらに進みます。

西洋式の橋が架けられ、1872年には新橋と横浜を結ぶ日本最初の鉄道が開業しました。当時の横浜駅は、現在の桜木町駅の場所にありました。

展示されていた「官許 改正新刻横浜案内絵図」を見ると、横浜駅のところに「ステンシヨン」と書かれていました。

「駅」ではなく「ステンシヨン」と書かれているところに、鉄道そのものがまだ日本に入ってきたばかりの新しい文化だった時代を感じます。


また、開港後の横浜を描いた地図には、カタカナだけでなく「MAP of YOKOHAMA」のようにアルファベットを使ったものもありました。

特に一般向けに作られた地図では、実用的な情報を伝えるだけでなく、「横浜は外国文化が入ってくる新しい町である」というイメージそのものを表現していたのかもしれません。地図の表記を見ているだけでも、横浜がほかの日本の都市とは少し違った場所として認識されていたことが伝わってきます。


今回の展示を見て、横浜という都市に対する自分のイメージも少し変わりました。

これまでは、もともと港として栄えていた横浜が幕末に開港されたのだろうと漠然と思っていました。しかし実際には、江戸時代まで地域の中心だったのは東海道の神奈川宿であり、横浜はその周辺にある小さな村でした。

その横浜が開港場に選ばれたことによって、外国との貿易拠点として整備され、わずかな期間で近代都市へと変貌していきました。

現在では「神奈川」という地名以上に、「横浜」という都市名が国内外で広く知られているようにも感じます。さらに市域の拡大によって、かつて海辺の小さな村だった横浜という名前は、現在では内陸部まで含む巨大な都市全体を指すものになっています。


地図は、一見すると単に土地の形や道を記した資料ですが、年代順に見ていくと、その土地の社会そのものが変化していく様子が見えてきます。

小さく「横濱村」と記された江戸時代の絵図から、鉄道や外国人居留地が描かれた明治時代の地図へ。その変化を追っていくことで、横浜という都市が幕末の開港を境に急速に誕生していったことを実感できる展示でした。


特別展を見終えた後は、横浜都市発展記念館の常設展へ向かいました。

旅程

東京

↓(東京メトロ副都心線/みなとみらい線)

みなとみらい駅

↓(徒歩)

横浜美術館(「マリー・アントワネット・スタイル」展 / コレクション展

↓(徒歩)

みなとみらい駅

↓(みなとみらい線)

日本大通り駅

↓(徒歩)

横浜都市発展記念館(特別展「絵図で旅する幕末の横浜」 / 常設展)

↓(徒歩)

横浜ユーラシア文化館

↓(徒歩)

ニュースパーク

↓(徒歩)

日本大通り駅

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