スキップしてメイン コンテンツに移動

東京国立博物館:東洋館:仏像の姿から見るアジアの文化交流

東京都台東区の東京国立博物館・東洋館に行きました。

この日は、国立科学博物館の特別展「いきもの超ワールド展」を見たあと、東京国立博物館に移動しました。翌週に法隆寺へ行く予定だったため、まず法隆寺宝物館を見学し、その後に本館、そして東洋館へ向かいました。

最近、日本美術史のテキストを読んでいると、飛鳥時代や奈良時代の仏像について、「隋の様式」「初唐の様式」「盛唐の様式」といった説明が頻繁に出てきます。日本の仏像だけを見ていると、日本国内で少しずつ様式が変化したようにも感じますが、実際には中国や朝鮮半島、さらにその先のインドや中央アジアまで長い文化の流れがあります。

以前、法隆寺の玉虫厨子に描かれた《捨身飼虎図》を見たときも、細長い人物表現が気になりました。物語そのものはインドに起源を持つ仏教説話であり、それが中央アジアや中国を経て日本へ伝わっています。日本美術を理解するためには、日本だけを見るのではなく、その西側へさかのぼっていく必要がありそうです。

そこで今回は、東洋館で日本と海外の仏像を比較することを一つの目的にしました。エジプトや西アジアの展示にも魅力的なものがたくさんありましたが、今回はかなり我慢して、仏像を中心に見ていきました。


2階の第3室では、インド、ガンダーラ、西域などの作品が展示されています。

パキスタンのマルダン地方で作られたクシャーン朝、2~3世紀の《菩薩交脚像》は、椅子のようなものに腰掛け、左右の脚を交差させています。日本の仏像ではあまり見かけない姿勢なので、最初は少しくつろいだ姿にも見えました。

顔立ちも日本の仏像とはかなり異なり、上半身には衣をまとっていますが、身体そのものをはっきりと見せています。台座や衣の表現には、西洋の彫刻を思わせる部分もありました。

これは偶然ではありません。ガンダーラは現在のパキスタン北部からアフガニスタン東部付近にあたり、アレクサンドロス大王の東方遠征以降に広がったヘレニズム文化の影響を受けた地域です。仏教美術の中にギリシャ・ローマ系の造形表現が取り込まれたため、ガンダーラ仏には写実的な身体や衣のひだなど、西方的な特徴が見られます。

「日本の仏像の源流ではない」と単純に切り離すよりも、インドで成立した仏教美術が複数のルートに展開し、その一つが中央アジアから中国へつながったと考える方がよさそうです。日本の仏像も、その長い伝播のかなり東端に位置しています。


インドの2~3世紀の《如来頭部》は赤みを帯びた砂岩で作られていました。穏やかに微笑んでいるような表情で、意外にも日本の仏像からそれほど遠い印象を受けませんでした。

5世紀の如来頭部は顔立ちが異なって見えましたが、日本の仏像自体にもさまざまな顔があるため、少数の作品だけで地域差を判断するのは難しそうです。


地下の第11室は「クメールの彫刻」です。

クメール文化は現在のカンボジアを中心に発展し、アンコール王朝の時代には現在のタイやラオス、ベトナムの一部にも大きな影響を及ぼしました。

特に面白かったのが、11~12世紀の《九曜像》です。九体の像が横に並び、太陽(日輪)、月(月輪)、火星などの天体を表しています。

九曜はインドの天文学・占星術に由来する考え方で、中国を経て日本にも伝わりました。日本でも日曜、月曜、火曜などの七曜に羅睺と計都を加えた九曜の信仰が行われ、平安時代には密教や陰陽道とも結びついていきます。そのため、九体という構成は東南アジアだけのものではありません。

日本では四天王や十二神将のような仏教像のグループを目にする機会が多いため、九体が並ぶ姿は新鮮でした。しかし、こうして見ると、日本の仏教文化の中にもインド由来の天文学や占星術がかなり入り込んでいます。

カンボジアの観音菩薩などを見ると、日本の仏像との身体表現の違いも目立ちました。上半身をほとんど裸にし、腰布だけを身につけた像が多く、身体は細身で若々しく見えます。

日本の仏像では衣そのものが造形表現の重要な部分になり、複雑な衣文や装飾を伴う作品も少なくありません。そのため、クメール彫刻の簡潔な服装を見ると、むしろ身体そのものを表現しようとしているように感じました。

ただし、これは「東南アジアは質素、日本は豪華」という単純な違いではありません。クメール彫刻にも時代や神格によって非常に豪華な装身具を身につけた像があります。今回は展示されていた作品の選択によって、その違いが強く感じられた面もありそうです。


地下の第12室では、さらに広く東南アジアの作品を見ることができます。

ここでも、柔らかな微笑みを浮かべた像が多いことが印象に残りました。上半身を裸にし、腰布をまとった身体表現もクメール彫刻と共通しています。

インドネシア・中部ジャワ、8~9世紀の《ジャムバラあるいはクベーラ坐像》には、「仏教ではジャムバラ、ヒンドゥー教ではクベーラ」と説明されていました。

これは単にどちらの宗教の像なのか分からない、というだけではありません。ジャムバラは仏教に取り入れられた財宝神で、ヒンドゥー教の財宝神クベーラと深い関係を持っています。インドでは仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教などが同じ地域で長く共存し、神格や図像が宗教の境界を越えて共有されることがありました。

日本の神仏習合とまったく同じ現象ではありませんが、一つの神格が複数の宗教世界で異なる名前や意味を与えられるという点では、似たような面があります。


4階の第7室では、中国の画像石が展示されていました。

後漢時代、1~2世紀の《画像石 舞人と楽人》は特に印象的でした。画面が細かく区切られ、その中に人物が配置されているため、現代の漫画のコマ割りのようにも見えます。

日本の古い絵に同じものがあれば、「漫画文化の源流」と言いたくなるところですが、もちろん漫画に直接つながるわけではありません。むしろ興味深いのは、人間が異なる時代や地域で、複数の場面や時間を一つの画面の中に整理して表そうとすると、似たような方法にたどり着くことです。

人物の腕は不自然なほど長く表現されていました。写実的な人体を描こうとしたというより、踊りや演奏の動きを分かりやすく示すために誇張されたのかもしれません。


1階の第1室では、中国の仏像を見ることができました。

唐時代、8世紀の《如来倚像》は、細い腰と厚い胸を持ち、腕や脚も細身ながら力強く見えました。白い石材で作られていることもあり、最初はギリシャ彫刻を思わせるほどで、日本で普段見ている仏像とはかなり印象が違いました。

中国の仏像を時代順に見ていると、5~6世紀ごろには微笑みを浮かべた像が多く、唐代になるにつれて、より落ち着いた表情の像が目立つように感じました。


日本美術史で学ぶ飛鳥時代の仏像にも、口元に微笑みを浮かべる「古拙の微笑」と呼ばれる表現があります。西洋美術のアルカイック・スマイルと外見上は似ていますが、両者が直接つながっているわけではありません。ただ、古代の彫刻において、生命感や超越的な存在感を示すために微笑みのような表情が使われ、それが後の時代にはより自然で落ち着いた表情へ変化していくという現象を比較するのは面白いところです。

中国の展示では石造仏が多かったことも、日本との違いとして印象に残りました。

もちろん中国にも木造仏は存在しましたが、木は石よりも火災や腐朽などで失われやすく、古い時代の作品が残りにくいという問題があります。一方、中国では雲岡石窟、龍門石窟、天龍山石窟など、岩山そのものを彫る石窟寺院が盛んに造られました。日本では木造建築と木彫仏が発達したため、現在の博物館で見る作品にも大きな違いが現れています。


3階の第5室では、中国工芸を見ました。

唐時代、8世紀の《三彩女子》は、緑、黄、白を中心とする独特の色彩で彩られていました。以前、奈良の寧楽美術館で奈良三彩に関する展示を見たため、すぐに似た色だと気づきました。

奈良三彩は唐三彩の影響を受けて日本で作られた鉛釉陶器です。ただし、唐三彩をそのまま模倣したものではなく、日本の技術や用途に合わせて独自に発展しました。名前に「三彩」と付いていますが、必ず三色を使用するという意味でもありません。


唐時代、7世紀の《海獣葡萄鏡》も、本館で見た日本の鏡と非常によく似ていました。細かな葡萄の粒や鳥の羽根まで精密に表現されています。

海獣葡萄鏡は唐で盛んに作られ、日本にも伝来しました。正倉院にも類例が残っているため、中国と日本の工芸文化が直接つながっていたことを実感しやすい資料です。


5階の第10室では、朝鮮半島の文化を見ました。

原三国時代、紀元前1世紀の《馬鐸》は、上部に輪を持つ青銅製品で、形だけを見ると日本の銅鐸の一部分のようにも見えました。ただし、馬鐸はその名のとおり馬具につける小型の鐸で、日本の祭祀用と考えられている大型の銅鐸とは用途が異なります。

それでも、朝鮮半島と日本列島で青銅器文化や馬具文化がつながっていたことを考えるうえでは興味深い資料でした。

瓦や甲冑などにも、日本の古墳時代の資料とよく似たものがあります。古墳時代の日本は朝鮮半島と非常に活発な交流を行っており、技術者や工人、さまざまな文物が日本列島へ渡ってきました。単に「似ている」というより、実際に人的・技術的な交流があった世界です。

新羅、5世紀の《馬形容器》は、馬の形をした土器で、お尻側から上に伸びる注入口のような部分があります。日本の土器ではあまり見かけない形で、同じ土器でも文化によって発想が大きく異なることを感じました。

そして7世紀の《菩薩半跏像》は、法隆寺宝物館で見た像と非常によく似ていました。

片脚をもう片方の膝の上に置き、頬に手を近づけて思索する姿です。この姿勢は一般に半跏思惟像と呼ばれ、中国や朝鮮半島、日本で広く作られました。特に朝鮮半島の三国時代には優れた金銅製の半跏思惟像が作られており、日本の飛鳥時代の像との関係も重要な研究テーマになっています。


今回、仏像を中心に東洋館を見ていくと、インドやガンダーラ、東南アジア、中国、朝鮮半島、日本が、一方では明らかに違いながら、もう一方では一本の長い文化の流れとしてつながっていることを感じました。

特に東南アジアの仏像と、中国・朝鮮半島・日本の仏像には、身体の見せ方や衣服、表情などにかなり違いがあります。一方、中国、朝鮮半島、日本の像は非常によく似ており、その中で少しずつ地域や時代ごとの違いが現れていました。

もちろん、一度の博物館訪問で見た数点の作品だけから、それぞれの地域の特徴を決めることはできません。日本の仏像だけを見ても、飛鳥、白鳳、天平、平安、鎌倉では大きく姿が変わります。

それでも、日本美術史の本に書かれている「中国の様式を受けた」「朝鮮半島を経由して伝わった」という説明が、今回は実物として少し理解できた気がしました。

日本の仏像だけを見ていると、その造形が当たり前に見えてきます。しかし、その隣に中国の仏像を置き、さらに朝鮮半島、東南アジア、インド、ガンダーラへと視野を広げていくと、日本の仏像も世界各地へ広がった仏教美術の一つの地域的な形なのだと分かります。

日本美術史を勉強するために訪れた東洋館でしたが、結果的には「日本美術だけを見ていても、日本美術は完全には分からない」ということを実感する見学になりました。


次は平成館へ向かいました。

旅程

鶯谷駅

↓(徒歩)

国立科学博物館

↓(徒歩)

東京国立博物館:法隆寺宝物館

↓(徒歩)

東京国立博物館:本館

↓(徒歩)

東京国立博物館:東洋館

↓(徒歩)

東京国立博物館:平成館

↓(徒歩)

鶯谷駅

リンク

コメント

このブログの人気の投稿

斎宮歴史博物館:柵列の間をくぐり抜け、古代国家の祈りに触れる、祈りの都が農村へ変わるまで

斎宮跡を歩いたあと、その流れのまま斎宮歴史博物館へ向かいました。駅前から感じていた木造風の意匠や、整えられた景観の延長線上に、この博物館の落ち着いた佇まいがあり、ここでようやく「斎宮」という言葉が指す世界の輪郭を、資料と展示で掴めそうだと思いました。斎宮は史跡としては広々としていて、当時の建物がそのまま立ち上がっているわけではありません。その分、見学者の頭の中で想像を補う余地が大きいのですが、博物館はその空白を、根拠と手触りのある情報で丁寧に埋めてくれる場所でした。 ちょうど特別展「天地(あめつち)の神を祈りて-伊勢神宮、そして斎宮-」が開催されており、展示室に入ると、ここが古代から信仰の重要な舞台だったことを、古墳時代の出土品などの実物資料を通して実感できました。伊勢神宮が成立していく過程、そこに斎宮・斎王という制度が結びついていく必然性が、単なる言葉の説明ではなく「この土地から出てきたもの」と一緒に語られるので、歴史がふわっとした神話のように遠ざからず、現実の地層の上に積み上がった出来事として迫ってきます。斎宮跡を先に見ていたからこそ、「あの広い区画が、ただの空き地ではなく、国家的な祈りを担う装置だったのだ」という感覚が、じわじわと身体に染みてきました。 特別展のあとに常設展を見ていくと、展示室が二つに分かれている構成が分かりやすく、斎宮という存在を別々の角度から立体的に捉えられるようになっていました。展示室1のテーマは「文字からわかる斎宮」です。延喜式のレプリカが示す制度としての斎宮、そして源氏物語、栄華物語、大和物語といった文学作品の中に現れる斎宮や斎王の姿が並ぶと、斎王がただの宗教的存在ではなく、宮廷文化の文脈の中でも強く意識された存在だったことが見えてきます。文学の中の斎王は、歴史の事実だけでは捉えきれない感情や視線をまとっていて、制度の説明とは違う温度で当時の人々の心情を想像させます。 さらに、文字が書かれた土器や印といった資料も展示されていて、「斎宮は祈りの場」という一言では片づかない、運用のための事務や情報のやりとりが確かにあったことが伝わってきました。展示の中には、武官や男女の子どもの等身大人形と当時の衣装があり、そこに復元された葱華輦(そうかれん)や斎王の居室の再現も続きます。文字資料を中心とする展示室1なのに、こうした視覚的・空間的な復元がし...

新島旧邸:京都の町なかで思いがけず出会った特別公開

京都文化博物館に行くために京都市に来たこの日、私は開館までの時間を使って京都御苑を歩いていました。ところが、京都御苑は思っていた以上に見どころが多く、閑院宮邸跡や京都御所、桂宮邸跡などを見て回っているうちに、気づけばかなりの時間が過ぎていました。少し急ぎ足で京都文化博物館へ向かっていた途中、ふと目に入ったのが「新島旧邸 特別公開中」という文字でした。その瞬間、「あの新島だろうか」と思って案内を見ると、やはり同志社の創立者として知られる新島襄の旧邸でした。まったく予定していなかった立ち寄りでしたが、こうした思いがけない出会いも旅の大きな魅力です。入り口のスタッフの方に尋ねると、毎週土曜日は特別公開の日で、建物の内部も見学できるとのことでした。ここまで予定以上に時間を使ってしまっていましたが、せっかくの機会なので見学することにしました。 新島襄は、明治時代の日本において近代的な教育の実現を目指した人物として知られています。海外で学び、キリスト教や欧米の教育思想に触れた新島襄は、帰国後に京都で同志社英学校を創立し、日本の新しい教育のあり方を切り開こうとしました。その新島襄が暮らした旧邸が、京都の町なかに今も残されていること自体、とても貴重なことだと思います。しかも、この建物は単なる住まいではなく、新しい時代の思想や暮らし方を映し出す場でもあったのでしょう。明治という、和と洋、伝統と近代が激しく交差した時代の空気を、建物そのものから感じ取ることができるように思えました。 最初に見た日本風の附属屋は、落ち着いた雰囲気の建物でした。展示品もありましたが、同志社社史資料センター所蔵資料のレプリカが中心だったようで、いつか訪れてみたいと思っていた資料センターの予習のような時間にもなりました。この附属屋は新島襄の両親のために建てられたものだそうで、そのことを知ると建物の見え方も変わってきます。新しい時代の教育を志し、西洋の知識を積極的に取り入れた新島襄ですが、その一方で家族を大切にし、日本的な暮らしの空間もきちんと用意していたことが伝わってきます。近代化というと、何かを一方的に捨てて新しいものに入れ替えるような印象を持ちがちですが、実際にはこうして古いものと新しいものを併せ持ちながら進んでいったのだろうと感じました。 続いて見学した母屋は洋風の造りで、附属屋とはまた違った魅力がありま...

寺田倉庫G1ビル:NAKED meets ガウディ展:“作品鑑賞”ではなく“思考体験”としてのガウディ

東京都品川区の寺田倉庫G1ビルで開催された「NAKED meets ガウディ展」に行きました。2月11日の午後に一度訪れたときは、想像以上の人気で入場が3時間待ちになってしまい、その日は予定を変更して引き返しました。せっかくなので仕切り直し、別の日の朝10時少し前に再訪すると、この時間でもすでに人が多く、入口を抜けた先のエレベーター前でしばらく待つことになりました。展覧会が始まる前から熱量が伝わってきて、「ガウディは“作品”というより“体験”として見られているのかもしれない」と思いながら列に並びました。 会場に入ると、まずガウディの生涯が簡潔に紹介されます。19世紀後半から20世紀初頭のバルセロナは、産業の発展とともに都市が急速に膨張し、同時にカタルーニャ独自の文化が芸術へと結晶していった時代でした。いわゆるモデルニスモ(カタルーニャ・モダニズム)の潮流の中で、ガウディは歴史主義や装飾の流行に回収されない、自然の秩序そのものを建築へ翻訳するような道を選びます。その入口として、この展覧会は「自然から得た造形美」を前面に出していました。 印象的だったのは、自然物と建築部位を並べて見せる導入です。「小麦」とサグラダ・ファミリア上部の塔、「にんにく」とカサ・バトリョの換気塔、「糸杉の円錐」とベリュスグアルドの塔、「キノコ」とグエル公園の煙突、「樹の柱」とサグラダ・ファミリア内部の柱、「ハチの巣」とカサ・カルベットの覗き穴といった対応関係が、説明とレプリカ展示で示されていました。ここで面白いのは、自然を“模倣”するというより、自然の形が生まれる理屈や強度のあり方を“借りている”ように感じられる点です。曲線は気まぐれな装飾ではなく、重さを受け流し、光を導き、空間を育てるための構造そのものなのだと、最初のコーナーだけでも伝わってきました。 次のコーナーでは、バルセロナ来訪後のガウディの作品が、少し変わった見せ方で並びます。壁面にエル・カプリチョ、カサ・ビセンス、グエル邸、アストルガ司教館、カサ・ボティネスなどのファサードが立体的に配置され、そこにプロジェクションマッピングのような映像が流れていました。建物を単体で鑑賞するというより、街の中で呼吸し、時間とともに表情を変える“都市の一部”として体感させる構成で、バルセロナの通りを歩きながら次々に建築に出会う感覚がうまく再現されている...