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法隆寺:西院伽藍:土の表情、壁の記憶、人の祈り

奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺で、西院伽藍を拝観しました。

今回、法隆寺を訪れた目的は、「法隆寺みらいプロジェクト」の収蔵庫改修を支援するクラウドファンディングの返礼として行われた、支援者限定の収蔵庫公開です。収蔵庫の見学に加えて法隆寺の拝観券もいただいたので、焼損した金堂壁画を見たあと、その壁画がもともとあった金堂へと向かいました。

金堂、五重塔、大講堂といえば、法隆寺を代表する建物です。僕もこれまで何度か訪れています。友人の会社の社員旅行に参加してバスガイドさんの説明を聞いたこともあれば、タクシーを貸し切り、運転手さんに案内してもらったこともあります。ただ、そのころは歴史や美術への関心が今ほど強くなく、説明をなんとなく聞き、建物や仏像を眺めて、それで終わっていました。

法隆寺は、推古天皇と聖徳太子によって607年に創建されたと伝えられます。一方、『日本書紀』には670年の火災の記事があり、現在の金堂や五重塔を中心とする西院伽藍は、その後に再建されたものと考えられています。聖徳太子ゆかりの寺というだけでなく、その後の人々が再建し、守り続けてきた寺でもあるのです。

今回は、日本美術史を学び、金堂の釈迦三尊像や壁画についても、テキストで繰り返し見てきました。しかも、つい先ほど収蔵庫で実物の壁画を見たばかりです。見慣れた場所でありながら、以前とは違う気持ちで金堂に向かいました。

金堂の暗がりで、以前の自分を思い出す

金堂の中は、思っていたよりも暗く感じました。

そこには、テキストで何度も見た釈迦三尊像がありました。ただ、写真のように細かいところまで見えるわけではありません。内陣に入れるわけでもなく、限られた位置から、暗がりの中の像を見つめることになります。勉強してから来れば、実物を前にいろいろなことを確かめられるだろうと思っていましたが、知識とは別に、「実際に見えるか」という問題もあるのだと感じました。

金堂の釈迦三尊像は、止利仏師の作として知られる飛鳥時代の金銅仏です。光背の銘文によれば、聖徳太子の病気平癒を願って造り始められましたが、完成前に太子が亡くなったため、その冥福を祈る像となり、623年に完成したとされています。美術史の代表作であると同時に、身近な人を失った人々の願いが込められた仏像でもあります。

壁画も、拝観できる位置からは角度がつき、なんとか見えるという印象でした。その壁を眺めていると、以前ここで「ここにあるのは模写です」と説明されたことを思い出しました。

そのときの僕は、「ああ、本物ではないのですね」と思っただけでした。おそらく、失われた絵の代わりに別の絵が置かれている、という程度にしか受け止めていなかったのだと思います。

金堂壁画は、1949年1月26日、解体修理中の火災によって大きな損傷を受けました。一方で、火災以前から画家による模写や写真撮影が行われていました。その後、安田靫彦や前田青邨らを中心とした模写事業によって1968年に再現壁画が完成し、再び金堂の内部を飾ることになりました。

今なら、「模写です」という一言の背後に、多くの人の技術や時間、壁画を後世へ伝えようとする努力があることが分かります。古代に描かれた原画と同じものではありませんが、だからといって、単なる代用品として片づけられるものでもありません。

収蔵庫で見た焼損壁画と、金堂にある再現壁画。片方は実物として歴史を伝え、もう片方は、このお堂が壁画に囲まれていた空間であることを伝えています。僕には、その二つが一続きのものとして感じられました。

もっとも、以前の自分が、その意味を受け取れなかったことも理解できます。仏像の細部は見えにくく、壁画も正面からじっくり眺められるわけではありません。そこで「模写」と聞けば、関心がその先に進まないこともあるでしょう。説明を聞いたことがあるのと、その説明が自分の中で意味を持つことは、別なのかもしれません。

五重塔の足元に広がる、立体の仏教世界

次に、五重塔を拝観しました。

こちらも塔の中へ入るのではなく、外から初層の内部をのぞき込みます。そこにある塑像の群像を見た瞬間、「そういえば、これも前に見た」と思い出しました。

ただ、今回の印象は、テキストの写真から想像していたものとは少し違いました。写真では比較的こぢんまりとしたものに感じていましたが、実物には広がりがあり、像の数や細かな造形、奥行きのある配置が伝わってきます。人物が並んでいるだけではなく、一つの空間の中に、それぞれの表情や動きが置かれているようでした。

塑像は、木などでつくった芯に粘土を盛りつけて形を整える彫刻です。奈良国立博物館に伝わる法隆寺五重塔の旧塑像にも、木にわらを巻き、その上に土をつけて造形した構造が確認されています。素材を知ってから見ると、顔の表情や身体の柔らかさが、土を形づくる仕事によって生まれたことにも意識が向きます。

五重塔の初層には、711年に制作された塑像群があり、四方に異なる仏教の場面が表されています。北面は釈迦の入滅を弟子たちが嘆く涅槃の場面です。東面は維摩居士と文殊菩薩の問答、西面は釈迦の遺骨である舎利を分ける場面、南面は未来の仏である弥勒の説法を表しています。

その場では、一体一体の役割や物語をすべて理解できたわけではありません。それでも、様々な表情をした像が、岩山のような背景の中に奥行きを持って配置されている様子には引き込まれました。塔の内部を見ているはずなのに、まるで洞窟の奥に広がる世界をのぞいているようです。

金堂では、写真の方が細部を確認しやすいと感じましたが、五重塔の塑像群では、実物の空間に接することで初めて伝わってくるものがありました。写真は一体の像をよく見せてくれますが、実物では、その像が周囲の像や背景とどのような関係で置かれているかが分かります。同じ仏像を見るのでも、作品そのものを見ることと、作品がつくり出す空間を見ることは違うのだと感じました。

大講堂で、仏像と参拝する人の姿を見る

続いて、大講堂に向かいました。

大講堂は、僧侶たちが学ぶ場として使われてきた建物です。925年に落雷による火災で焼失し、現在の建物は990年に再建されました。金堂や五重塔と同じ景色の中にありますが、こちらは平安時代の建築です。一つの伽藍の中にも、異なる時代が重なっています。

堂内には大きな薬師三尊像があり、その周囲には四天王像も立っていました。本尊の薬師如来像は大講堂の再建に合わせて造られたもので、高さは約2.5メートルあり、日光菩薩と月光菩薩を従えています。

大講堂は、金堂と比べると明るく、空間にも広がりがありました。僕にとっては仏像を見やすく、落ち着いて向き合える場所でした。暗がりの奥をのぞき込むのとは違い、大きな像を前に、少し余裕を持って眺めることができます。

ここで印象に残ったのは、仏像だけではありません。海外から来たように見える若い人たちが、何度も礼をしながら参拝していました。一人や二人ではなく、複数のグループで似たような動きを見かけたので、気になりました。

どこの国や地域から来た人たちなのかは分かりません。その国で一般的な参拝の仕方なのか、宗派によるものなのか、それとも、その人たちが普段から行っている作法なのか。その場では判断できませんでした。ただ、僕自身がお寺で合掌して一礼するときとは違う所作が、自然に繰り返されているように見えました。

先週、東京国立博物館の東洋館では、日本とほかの地域の仏像の違いを意識しながら見ていました。顔立ちや衣服、身体の表し方など、仏像の形の違いに目を向けていたところでしたが、今回は、仏像に向き合う人の動きにも関心が広がりました。

美術史を学んでいると、どうしても「いつ、誰が、どのようにつくったか」という視点で仏像を見ます。しかし、目の前で礼拝する人たちを見ていると、この場所は過去の美術を残しているだけではなく、今も人が祈る場所なのだと、改めて感じました。


何度も来たことがある法隆寺ですが、今回は、以前見たものを思い出しながら、その意味を少しずつ捉え直す拝観になりました。学んだからといって、暗い場所の仏像が急にはっきり見えるようになるわけではありません。それでも、「模写」という言葉の先にある仕事や、塑像がつくり出す空間、参拝する人たちの所作など、以前は気に留めなかったものが気になるようになりました。

「見たことがある」と「もう一度見たい」の間には、思っていたよりも広い世界があるようです。

西院伽藍の拝観を終え、次は大宝蔵院へと向かいました。

旅程

東京

↓(新幹線 / JR特急はるか / JR大和路線)

法隆寺駅

↓(徒歩)

法隆寺:収蔵庫(旧金堂)

↓(徒歩)

法隆寺:西伽藍

↓(徒歩)

法隆寺:大宝蔵院 / 東院伽藍

↓(徒歩)

(略)

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