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名古屋市博物館:特別展「名古屋には秀吉がおるでよ! ―秀吉と尾張の歴史―」:天下人の華やかさと、一人の母親の悲しみ

愛知県名古屋市の名古屋市博物館に行きました。

今回は、特別展「リトアニア ―バルトの森に響く歌―」を見るために、朝から名古屋に来ました。先に、リトアニアと深い関わりのある杉原千畝を顕彰する「杉原千畝広場センポ・スギハラ・メモリアル」を訪れ、その後、名古屋市博物館へ向かいました。

名古屋市博物館では、リトアニア展と同時に、特別展「名古屋には秀吉がおるでよ! ―秀吉と尾張の歴史―」も開催されていました。展示の順路では秀吉展が先になっていたので、まずはこちらから見学することにしました。

僕にとって今回の名古屋訪問の主な目的ではありませんでしたが、2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の影響もあるのでしょうか。秀吉展には多くの人が訪れていました。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市中村区にあたる尾張国中村の出身と考えられています。大阪城や京都の聚楽第など、天下人となってからの秀吉にゆかりのある場所はよく知られていますが、ここ尾張は秀吉が生まれ育った土地です。今回の展覧会は、秀吉の生涯をたどりながら、故郷の尾張との関係にも注目したものでした。

最初に展示されていたのは、江戸時代後期の《豊臣秀吉画像》です。秀吉は金色の立派な冠をかぶっていました。「唐冠」と呼ばれるものだそうです。

先日、東京のサントリー美術館で開催されていた「逸翁美術館コレクション」の展覧会で、狩野光信の《豊臣秀吉画像》を見たばかりだったので、少し印象が違うと感じました。こちらの秀吉は顔がややふっくらとしており、同じ人物でも描かれ方によって随分と印象が変わるものだと思いました。


続いて興味深かったのが、名古屋市蓬左文庫所蔵の《清須翁物語》です。

ここには、織田信長と秀吉の出会いに関する、なかなか強烈な逸話が記されていました。なんと、信長が二階から秀吉に小便をかけたというのです。

博物館内では、この話を題材にした紙芝居も行われていました。信長らしい大胆な行動とも思えますが、実際にあった出来事なのかは分かっていません。

ただし、このような逸話も歴史資料として意味があります。《清須翁物語》は江戸時代初期に成立した物語の系統に属するもので、秀吉の生きた時代からそれほど長い年月が経過していない頃の記録です。

書かれていることがそのまま史実であるとは限りませんが、当時の人々が信長や秀吉をどのような人物として記憶し、語り継いでいたのかを知ることができます。歴史は出来事そのものだけでなく、それが後世にどのように伝えられたのかも興味深いところです。


《小牧長久手合戦図屏風》には、数多くの武士たちが細かく描き込まれていました。

小牧・長久手の戦いは、1584年、本能寺の変後に勢力を拡大していた羽柴秀吉と、織田信長の次男・信雄、そして徳川家康が対立した戦いです。

屏風では家康軍が中心に描かれているためか、家康や信雄は金色の扇や傘によって目立つように表現されていました。一方、秀吉軍では、討ち取られた池田恒興などが描かれています。

長久手の戦いでは、秀吉軍は池田恒興や森長可らを失い、大きな敗北を喫しました。しかし、戦争全体では秀吉が信雄と和睦し、その後も政治的な優位を強めていきます。

この戦いは、家康の軍事的な勝利が有名ですが、最終的に秀吉が天下人への道を進んでいったことを考えると、戦場での勝敗と政治的な結果が必ずしも一致しない例でもあります。


秀吉の弟、羽柴秀長が発した《羽柴秀長禁制》も展示されていました。1584年、小牧・長久手の戦いの時期に、犬山の寂光院に出されたものです。

「禁制」とは、軍勢による略奪や乱暴などを禁じ、寺社や地域の安全を保障するために発給された文書です。戦国時代というと戦場での武将の活躍に目が向きがちですが、軍勢が移動する土地では、住民や寺社に被害が及ぶこともありました。

小牧・長久手の戦いでは、楽田城も秀吉方の重要な拠点となりました。最近の『豊臣兄弟!』でも楽田城が登場したと思います。ドラマで知った地名を実際の古文書で目にすると、歴史が少し身近に感じられます。


秀吉が関白となった1585年の《位記》も展示されていました。

関白は天皇を補佐する朝廷の最高職であり、それまで藤原氏の摂関家が担ってきた役職です。秀吉は近衛家の猶子となり、藤原姓を名乗ることで関白に就任しました。

展示されていた位記は、秀吉が関白に任命された同じ日に、従一位を授けられたことを示すものです。文書には従三位の織田信雄の名もあり、かつての主君であった信長の息子よりも、秀吉が上位に立ったことが分かります。

もともと織田家の家臣だった秀吉が、信長の息子を上回る地位に就いたのですから、随分と大きな立場の変化です。戦場での勝利だけでなく、朝廷の官位や権威を利用して自らの地位を確立していったことも、秀吉の政治手腕を考えるうえで重要なのでしょう。


また、太閤検地で使用された検地枡や検地基準尺の複製も展示されていました。

太閤検地は、土地の面積や収穫量などを調べ、年貢を徴収するための基準を整えていった政策です。全国の土地と生産力を把握することは、豊臣政権の支配を支える重要な基盤となりました。

戦国時代の天下統一というと、どうしても合戦や武将の活躍が中心になりますが、その後の全国統治を考えると、こうした制度づくりも欠かせないものです。実際に使われていた道具の複製を見ることで、政治の仕組みを整えるために行われた地道な作業を想像することができました。


特に印象に残った資料の一つが、《裁断橋擬宝珠》です。

擬宝珠とは、橋の欄干などに取り付けられる装飾のことです。この擬宝珠には、小田原攻めに従軍し、18歳の若さで病死したと伝わる堀尾金助を悼む母親の思いが刻まれています。

金助は、尾張国丹羽郡の出身である堀尾一族の人物です。1590年、秀吉による小田原攻めに参加しましたが、故郷に戻ることはありませんでした。

息子を失った母親は、供養のために熱田の裁断橋を架け替え、さらに1622年の33回忌にも橋を架け替えました。その際に作られた擬宝珠には、息子を出陣させて以来、二度と会うことができなかった悲しみや、後世の人々にも念仏を唱えてほしいという願いが刻まれています。

秀吉の小田原攻めは、後北条氏を滅ぼし、天下統一を完成させた大きな出来事として語られます。しかし、その歴史的な勝利の陰には、帰らぬ息子を待つ家族もいました。

天下統一という大きな歴史の流れと、一人の母親の悲しみが、同じ展示室の中に並んでいることが印象的でした。


最後の方に展示されていた《太閤花見図屏風》も興味深い作品でした。

桜に彩られた寺院の建物と、それを眺める秀吉らしき人物が描かれています。秀吉が晩年の1598年に京都の醍醐寺で催した、盛大な花見を連想させる作品です。

展示の説明によると、秀吉の死後、かつて境内の整備などで恩恵を受けた寺社関係者が、秀吉を追慕して描かせた可能性があるそうです。

秀吉は天下人として寺社の保護や整備にも関わっていました。そのため、秀吉の死後も各地の寺社で彼を慕い、顕彰する動きが見られました。

織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった人物は、現代ではどうしても天下統一を争った武将という印象が強くなります。しかし、政治や軍事だけでなく、寺社や地域の人々とどのような関係を築いていたのかという視点も、歴史を理解するうえでは大切なのだと思います。


今回の展覧会では、天下人となるまでの秀吉の歩みだけでなく、尾張との関わりや、秀吉の死後に人々がどのように彼を記憶してきたのかを知ることができました。

《清須翁物語》に残る逸話、《裁断橋擬宝珠》に刻まれた母親の悲しみ、そして《太閤花見図屏風》に見られる秀吉への追慕。いずれも、合戦や政治だけでは見えてこない歴史の一面を伝えています。

今回はリトアニアの歴史と文化を知るために訪れた名古屋でしたが、思いがけず、秀吉のふるさと尾張の歴史にも触れることができました。


続いて、今回の名古屋訪問の本来の目的である特別展「リトアニア ―バルトの森に響く歌―」を見学しました。こちらについては、次の記事で紹介したいと思います。

旅程

東京

↓(新幹線 / 名古屋市営桜通線)

瑞穂区役所駅

↓(徒歩)

杉原千畝広場センポ・スギハラ・メモリアル

↓(徒歩)

名古屋市博物館:特別展「名古屋には秀吉がおるでよ! ―秀吉と尾張の歴史―」

↓(徒歩)

名古屋市博物館:特別展「リトアニア ―バルトの森に響く歌―」

↓(徒歩)

(略)

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