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出雲大社:大しめ縄の向こうに、神話と歴史が見えてきた

島根県出雲市の出雲大社を参拝しました。今回、出雲を訪れた一番の目的が、この出雲大社です。まずは隣接する古代出雲歴史博物館で出雲の歴史や神話に触れ、その後、実際の境内へ向かいました。

出雲大社に祀られているのは、大国主大神です。その由緒は、大国主大神が国づくりの後に国を譲り、自らの住まいとして壮大な宮殿が築かれたという、国譲りの神話と結びついています。縁結びの神としても知られていますが、そこでいう「縁」は男女の関係だけではなく、人々やさまざまなものが、ともに豊かに生きていくための結びつきを含んでいるそうです。

とはいえ、訪れる前に私が出雲大社と聞いて思い浮かべていたのは、やはり社殿いっぱいに掛かった大きなしめ縄でした。実際に境内を歩いてみると、その一枚のイメージだけではわからなかった、建物の違いや神話とのつながりが少しずつ見えてきました。

下り参道から、神話の世界へ

古代出雲歴史博物館から向かったため、勢溜の大鳥居から参道に入りました。鳥居の先は、少し下り坂になっています。神社では階段を上って社殿へ向かう印象があったので、まず下っていく参道が印象に残りました。

途中には、参拝前に心身を清める祓社がありましたが、多くの人が並んでいたため、今回はそのまま先へ進みました。やがて茶色の鳥居が現れ、その先に松の参道が続いています。中央部分は進入禁止となっていたので、脇の道を歩きました。現在、中央を通れないのは、松の根を保護するためでもあるそうです。

参道を進んだ右手には、「ムスビの御神像」がありました。両手を広げた大国主大神と、波の上に載った玉が向かい合う、動きのある像です。

これは、大国主大神が「幸魂・奇魂(さきみたま・くしみたま)」と出会う神話の場面を表しているそうです。

博物館で神話の世界に触れた後だったこともあり、境内に置かれた像も、単なる飾りというより、物語の一場面を目の前に示しているように感じられました。参道を歩くところから、すでに出雲大社の世界に入っているのかもしれません。

思い描いていた姿とは違う拝殿

銅鳥居をくぐると、拝殿が見えてきました。ここで、少し戸惑いました。

出雲大社といえば、建物の横幅いっぱいに掛かった大きなしめ縄を想像していました。しかし、目の前の拝殿では、手前の小さな切妻屋根の下にしめ縄が掛かり、その後ろに大きな屋根がそびえています。「知らない間に、後ろに大きな建物が追加されたのかな」と思いながら、まずは参拝しました。

現在の拝殿は、1953年(昭和28年)の火災で以前の拝殿などが焼失した後、1959年(昭和34年)に完成した建物です。設計は神社建築の研究者でもあった福山敏男で、大社造と切妻造を組み合わせた様式になっています。古い神社という印象の強い出雲大社ですが、目の前の拝殿には、戦後の再建という歴史がありました。

この時点では、自分の記憶にある建物と目の前の建物が違う理由が、まだ整理できていませんでした。その答えは、境内を一周した後にわかることになります。

宝物殿で出会った、かつての本殿の柱

境内を巡る前に、宝物殿の神祜殿を見学しました。神祜殿は、建築家の菊竹清訓の設計によって1981年(昭和56年)に完成した施設で、出雲大社に伝わる宝物を展示しています。「神祜」には、神の助けや、神から幸いを授かるという意味があるそうです。

ここで特に気になったのが、心御柱でした。古代出雲歴史博物館でレプリカを見ていたものを、今度は実物で見ることができました。

心御柱は、本殿の中央に立つ柱です。2000年から始まった境内の発掘調査では、心御柱や宇豆柱などの柱根が見つかり、これらは1248年(宝治2年)の本殿造営に伴うものと考えられています。大木を三本まとめて一本の柱にする構造が、実際の遺物として確認されたことは、かつての壮大な本殿を考えるうえで重要な発見でした。

博物館で展示を見ていたときには、昔の建物について学んでいる感覚でした。しかし、その柱が出土した境内に来て、実物を目にすると、ここにかつて別の姿の本殿が建っていたことを、より身近に感じます。神話の舞台として知られる場所であると同時に、地中に残されたものから、その歴史を具体的にたどれる場所でもあるのだと思いました。

本殿の裏手で、兎と素鵞社に出会う

神祜殿を出た後は、反時計回りに境内を歩きました。塀越しに本殿などを眺めながら、東側から裏手へ回っていきます。

現在の本殿は、1744年(延享元年)に造営された国宝の建物です。高さは約24メートルあり、大社造と呼ばれる形式を伝えています。拝殿とは建てられた時代も役割も異なり、境内には、さまざまな時代の建物が重なっていることがわかります。

本殿の裏手では、兎の石像を見かけました。「因幡の白兎も、ここが舞台だったかな」と思いましたが、後で調べると、物語の舞台とされる白兎海岸は、出雲ではなく鳥取市にありました。ただし、傷ついた兎を助けるのは大国主大神です。場所は違っても、出雲大社の祭神と深くつながる物語だったのです。

知っているつもりの神話でも、登場する神様と土地との関係は、意外に曖昧なまま覚えているものです。境内の兎をきっかけに、その関係を一つ整理できました。

さらに本殿の裏手には、素鵞社がありました。こちらは、八岐大蛇退治の神話でも知られる素戔嗚尊を祀る社です。

素鵞社には、稲佐の浜の砂を持参してお供えし、代わりに社の床縁下にある御砂をいただいて帰る信仰があります。持ち帰った御砂は、お守りとしたり、屋敷や田畑にまいて清めたりするそうです。単に砂をいただくのではなく、浜から持ってきた砂を、まずお供えするという順序になっています。

残念ながら、稲佐の浜へはこの後に行く予定だったため、今回は砂を持っていませんでした。御砂をいただくことはしませんでしたが、これから向かう海岸と、いま歩いている境内が、信仰の作法によってつながっていることを知りました。

彰古館と、西を向く神座

そのまま反時計回りに進むと、彰古館がありました。古い宝物館という印象の建物ですが、建築年は1914年(大正3年)です。木造二階建ての建物は、国の登録有形文化財になっています。

案内板には、神祜殿とこの彰古館の二つが宝物館として紹介されていました。先ほど見学した神祜殿だけでなく、こちらにも宝物を公開してきた歴史があるのです。実際、彰古館は、出雲大社の宝物を日常的に公開するために建てられた施設でした。

神社に伝わる品々は、長く守られてきただけでなく、ある時代からは、人々に見てもらうための展示施設へと移されてきました。宝物の歴史に加えて、それをどのように伝えてきたのかという歴史にも、少し目が向きます。

本殿の西側まで来ると、遥拝所がありました。本殿の建物自体は南向きですが、内部にある大国主大神の神座は西向きになっているそうです。本殿内部は、中央の心御柱と側柱の間に設けられた板壁で仕切られ、その奥に神座が置かれています。

外から建物を見ているだけでは、建物の正面と、神様の向いている方向が違うとは気づきません。西側に遥拝所があることで、塀の向こうにある本殿の内部にも意識が向きました。先ほど神祜殿で見た心御柱も、単に建物を支える大きな柱というだけではなく、神殿内部の構成を考える手がかりになりました。

ようやく出会った、大しめ縄の神楽殿

稲佐の浜へ向かうため、西側へ出ると、神楽殿がありました。そこには、私が出雲大社の姿として思い描いていた、大きなしめ縄が掛かっていました。

「これが、写真などで見ていた建物だったのか」と、ようやく納得しました。最初に参拝した拝殿ではなく、こちらの神楽殿が、私の中で出雲大社の代表的な姿になっていたのです。

神楽殿の大しめ縄は、長さ約13メートル、重さ約5.2トンに及びます。もともと神楽殿は、出雲大社の宮司家である千家國造家の大広間を起源とし、現在の建物は1981年(昭和56年)に規模を広げて建て替えられました。祈祷や結婚式など、さまざまな祭事や行事が行われる場所です。

実際に見る大しめ縄は、やはり圧巻でした。一方で、「こちらばかりが紹介されると、出雲大社の中心がこの建物だと思ってしまうのではないか」とも感じました。少なくとも私は、その印象を持って訪れていました。

もちろん、これほど目を引くものを紹介したくなるのはわかります。しかし、本殿、拝殿、神楽殿には、それぞれ違う役割と歴史があります。実際に歩いてみたことで、大しめ縄のある一つの建物としてではなく、いくつもの社殿や信仰の場からなる出雲大社の姿が、少し見えてきた気がします。神楽殿でも参拝し、さらに西へ進みました。

永職館を見て、稲佐の浜へ

神楽殿の西側には、「永職館」と書かれた案内がありました。神祜殿でこの名の扁額を見ていたため、気になって足を止めました。ただ、自由に中へ入って見学できる場所ではないようでした。

永職館は、出雲大社の祭祀を担う千家國造家の屋敷、千家國造館の呼び名です。その名は、1667年(寛文7年)、霊元天皇が出雲國造の伝統的な立場を認め、永くその職を務めるよう命じたことに由来するそうです。

また、國造館は単なる住まいではなく、祭祀に際して身を清める潔斎の場という性格も持っています。大きな社殿や宝物だけではなく、祭りを続けてきた人々の暮らしや務めも、この場所を支えているのだと感じました。

訪れる前には、大しめ縄の印象が強かった出雲大社ですが、歩き終えてみると、記憶に残ったものはそれだけではありませんでした。下っていく参道、神話を表した像、地中から見つかった巨大な柱、本殿の裏手にいる兎、西を向く神座。それぞれを見て、少し調べてみることで、ばらばらだった知識が、この境内の中でつながっていくようでした。


博物館で学んだことと、現地を歩いて初めて気づくこと。その両方を重ねながら出雲大社を巡った後は、さらに西へ歩き、稲佐の浜へ向かいました。

旅程

羽田空港

↓(飛行機)

出雲空港

↓(バス)

古代出雲歴史博物館

↓(徒歩)

出雲大社

↓(徒歩)

出雲阿国塔

↓(徒歩)

稲佐の浜

↓(徒歩)

安養寺/出雲阿国墓所/阿国寺

↓(徒歩)

日御碕神社

↓(徒歩)

(略)

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