スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

日本近代文学館:宇野千代展―100年の旅人:波乱万丈、それでも人生は面白い

東京都目黒区の日本近代文学館に行きました。目的は「宇野千代展―100年の旅人―」です。駒場公園の周辺を調べていたところ、旧前田家本邸で特別ガイドが行われていることを知り、先にそちらを見学してから、日本近代文学館に向かいました。 宇野千代については、朝ドラの題材になったことをきっかけに知ったばかりでした。調べてみると、いくつかの文学館で展覧会が開かれており、今回もその一つです。ドラマを通して興味を持った人物の、実際の人生や仕事を知りたいと思って訪れました。 宇野千代は1897(明治30)年に現在の山口県岩国市に生まれ、1996(平成8)年に98歳で亡くなりました。明治、大正、昭和、平成という四つの時代を生きた人です。展示を見ていくと、その長い人生の中に、小説を書くことだけでなく、雑誌をつくること、装うこと、人との出会いを楽しむことが、ぎっしりと詰まっていました。 プロローグで紹介されていたのは、自伝的な著作の決定版ともいえる『生きて行く私』でした。1983年に刊行され、多くの読者に親しまれた本です。宇野千代には自分の人生を振り返った著作がいくつもあるそうですが、今回はこの本を入口に、若い頃の作品やさまざまな人との関係をたどっていく構成になっていました。 第一部は「初期作品の世界―『中央公論』掲載作品から」です。宇野千代がレストランでウェイトレスとして働いていたとき、常連客として『中央公論』の編集者が訪れていたという話が紹介されていました。その人物が、編集長の滝田樗陰です。本郷のレストランで働く中で、文学に関わる人たちとの接点が生まれていたのでした。 ちょうど今、朝ドラで見ている場面が思い浮かびました。ドラマの中で見ていた出来事に、実際の人の名前や資料が重なると、それまで少し遠かった文学の世界が身近に感じられます。宇野千代をよく知らないまま来た私にも、展示に入っていくための手がかりになりました。 初期の作品で意外だったのは、怒りの強さです。展示の説明によると、父親の暴力や、母の異なるきょうだいとの関係、教員やウェイトレスとして働いた頃の事情など、自分を取り巻く環境への怒りや告発が作品に込められていたそうです。後年の写真や紹介から抱いていた、明るく前向きな人という印象とは、かなり違っていました。 作家としての出発を示す作品として、『脂粉の顔』も紹介されていました。1921...

旧前田家本邸:洋館で暮らし、和館でもてなす

東京都目黒区の旧前田家本邸に行きました。 この日は、日本近代文学館で開催されている宇野千代展が目的で、駒場公園に来ました。周辺の見所を調べたところ、旧前田家本邸で特別ガイドが行われていることを知り、先に見学することにしました。 旧前田家本邸は、加賀百万石で知られる前田家の第16代当主、前田利為(としなり)侯爵が建てた邸宅です。もともと前田家の本邸は東京の本郷にありましたが、東京帝国大学との土地交換によって駒場に移転しました。1929年に洋館、翌1930年に和館が完成しています。 明治維新によって大名制度が廃止された後も、前田家は華族制度のもとで侯爵の地位を与えられました。江戸時代の大名家が、近代日本の華族としてどのような生活を送っていたのかを知ることができる建物でもあります。 特別ガイドが始まるまで少し時間があったため、まずは自分で和館と洋館を見学しました。 最初に向かったのは和館です。 前田家のような名家の邸宅というと、広い座敷がいくつも並ぶ豪邸を想像していましたが、和館は思っていたよりも小ぶりでした。2階が公開されていないこともありますが、1階も部屋数はそれほど多くなく、大勢の人を集めて宴会を開くような広さでもありませんでした。 展示されていた説明によると、和館は迎賓や四季折々の行事に使われていたそうです。 実際、和館は前田家の日常生活のためではなく、外国からの賓客に日本文化を紹介するための迎賓施設として建設されたものでした。つまり、邸宅というよりも、接客のための特別な空間だったわけです。 前田利為は、イギリスへの留学や駐在武官としての勤務など、ヨーロッパで長く生活した経験がありました。外国の文化に親しんでいた人物が、外国人を迎えるために日本建築を用意したというのも興味深いところです。 次に洋館へ向かいました。 こちらは和館とは対照的に、入口からして大きく、赤い煉瓦の外壁が印象的な、いかにも華族の豪邸という建物でした。 洋館は鉄筋コンクリート造で、イギリス風の重厚な建築様式が採用されています。 1階には応接室、サロン、小客室、大客室などがあり、どの部屋も暖炉や照明、天井の装飾まで豪華に造られていました。和館を見た直後だったこともあり、その規模と華やかさには驚かされました。 洋館の1階は、外交官や皇族などを招いた晩餐会や社交の場として使われていたそうです。当時の上...

国立西洋美術館:テート美術館 ターナー展―崇高の絵画、現代美術との対話:霧の向こうに、赤いブイ

東京都台東区の国立西洋美術館に行きました。上野の森美術館の「シンシナティ美術館展」を目的に上野公園へ来ていましたが、せっかくなので「テート美術館 ターナー展――崇高の絵画、現代美術との対話」にも足を運ぶことにしました。 2か月ほど前、大阪中之島美術館でフェルメールの《真珠の耳飾りの少女》を見た頃は、ターナーという画家にはまだなじみがありませんでした。それが今回は、事前に作品を調べ、映画まで観てから訪れています。短い間でも、少しずつ興味の向く先が増えているようです。 予習をしていて気になったのは、独特な土色の霧がかかったような絵でした。どこかで見たことがあると思って調べると、美術史のテキストにも登場していました。たくさんの画家が出てくるので名前を覚えるのは難しいですが、あの特徴的な画面は、名前よりも先に記憶に残っていたようです。 暗い部屋で出会ったターナー ターナーは1775年に生まれ、1851年に亡くなった、イギリスのロマン主義を代表する画家です。若くしてロイヤル・アカデミーの正会員となり、風景の中の光や大気を追い続けました。「光の画家」と呼ばれる人の絵を、私はまず「土色の霧」として覚えていたわけです。今回の鑑賞では、その印象がどう変わるのかも楽しみでした。 展覧会の始まりには、暗い部屋が用意されていました。ターナーは自身の画廊に来た客を、作品を見る前に暗い部屋でしばらく待たせたといいます。今回の導入も、その逸話を踏まえたものです。絵を描くだけでなく、見る側の目の状態まで意識していたと思うと、作品の見せ方にも強い関心があったことが伝わってきます。 そこに展示されていたのが、ウィリアム・ホールが版刻した《ターナーの肖像》でした。予習で観た映画『ターナー、光に愛を求めて』では、ターナーは随分と癖の強いおじさんでしたが、こちらは整った顔立ちです。「このイケメンと、映画のあの強烈なおじさんと、どちらが本当なのだろう」と、最初から絵画とは少し違うところが気になってしまいました。 ただ、この版画は若い頃の肖像をもとにしており、映画が描くのは晩年に至る約25年間です。1859〜61年という版画の制作年も、描かれた本人の年齢を示すものではありません。そもそも比べている時期が違っていました。 石の輪とアルプスに感じる自然の力 第1章「はじまりの歩み、英国の風景から」では、中央に置かれ...

上野の森美術館:シンシナティ美術館展:見えすぎる絵と、まだ見えない絵

東京都台東区の上野の森美術館に行きました。今回の目的は、「シンシナティ美術館展 ~アメリカに渡ったヨーロッパの至宝~」です。 先日、名古屋市美術館で「ゴッホの跳ね橋と印象派の画家たち」を見てきたばかりですが、今回も印象派の前後の流れが分かりやすくまとめられていて、良い復習になりました。前の展覧会で知った画家や言葉がもう一度出てくると、初めて聞いたときよりも少し身近に感じます。それでも、後半になるほど分からないことが増え、会場でも、帰宅後に図録を開いてからも、ずいぶん頭を使うことになりました。 仮面のような目をした肖像画 最初の「芸術家の姿」では、いくつかの肖像画が並んでいました。その中で気になったのが、アメデオ・モディリアーニの《マックス・ジャコブ》(1916~1917年頃)です。 まず、目が黒く塗りつぶされているように見えました。ところが、よく見ると、単なる黒というより背景の壁に近い色にも感じられます。目の部分だけ向こう側が透けているようで、少し不思議な顔です。 図録によると、モディリアーニの細長い顔や幾何学的な顔立ちには、コートジボワールのバウレ族の仮面への関心が反映されているそうです。そう聞いてから見直すと、この目も仮面の穴のように思えてきました。目の描き方が変わるだけで、人の顔がこれほど違って見えるのかと感じます。 モデルのジャコブは詩人であり画家でもあり、ピカソやモディリアーニらと交流した人物です。モンマルトルには「洗濯船(バトー=ラヴォワール)」と呼ばれるアトリエ兼住居があり、そこに集まる芸術家や文学者たちの交流から、新しい表現が生まれていきました。肖像画のモデルを調べると、描いた画家だけでなく、その周囲の人間関係にもつながっていきます。 「見る人を見る」絵が、浮き出してきました 続く「伝統」では、まず「アカデミー」が取り上げられていました。 昔の画家というと、それぞれが自分の力で技術を磨いていく姿を何となく想像していました。しかし、師匠の工房で学ぶ伝統があり、ルネサンス期には美術アカデミーも生まれていたそうです。1563年にはフィレンツェにアカデミーが設立され、フランスでも1648年に王立絵画彫刻アカデミーが創設されました。こうした組織は技術を教えるとともに、古典や歴史を重んじる美術の基準を形づくり、作品の評価にも大きな影響を与えていました。 ここで長...

旧江戸川乱歩邸(大衆文化研究センター):名古屋で知った太郎、池袋で出会った乱歩

東京都豊島区の旧江戸川乱歩邸、大衆文化研究センターに行きました。通常の公開日は月・水・金曜日なので、タイミングが合えば訪ねたいと思っていた場所です。ちょうど月曜日に池袋へ行く予定ができたため、この機会に立ち寄ることにしました。 今回の訪問は、名古屋へ行く前から予定していたものです。ところが、その名古屋で訪れた杉原千畝広場センポ・スギハラ・メモリアルに、第五中学校の出身者として「平井太郎」の名前がありました。江戸川乱歩の本名です。千畝さんについて知るために訪れた場所で、次に見学する予定の作家につながったことで、乱歩邸へ行くのがさらに楽しみになりました。 乱歩は1894(明治27)年、現在の三重県名張市に生まれ、幼いころに名古屋へ移り住みました。第五中学校を卒業して早稲田大学へ進み、さまざまな職業を経験した後、1923(大正12)年に『新青年』で「二銭銅貨」を発表しました。僕にとっては、子どものころに推理小説をいくつか読んだことのある作家ですが、作品を書くようになるまでの人生は、あまり知りませんでした。 池袋のこの家へ移り住んだのは、1934(昭和9)年のことです。それまでは何度も住まいを変えていた乱歩ですが、ここには1965(昭和40)年に亡くなるまで、約30年間暮らしました。転居を繰り返した末に落ち着いた、最後の住まいということになります。現在も、実際に暮らしていた場所で、その生活や仕事の跡に触れられます。 展示室1で足を止めたのは、乱歩自身が自分の歩みをまとめた「貼雑年譜」でした。これは、経歴を書き記すとともに、日記や手紙、新聞・雑誌の切り抜きなどを貼り込み、自筆の書き込みを添えた記録です。人生に関わるさまざまな資料を、自ら集めて残していました。 第五中学校の出身だと知っていたので、その記述を探してみると、きちんと書かれていました。名古屋で見かけた学校の名前が、今度は本人の残した年譜の中に出てきます。知っていることを確認しただけといえばそれまでですが、これが思いのほか楽しいものでした。 博物館や記念館には、人物の生涯を紹介する年表がよくあります。本人の手書きであっても、施設が分かりやすく作ったものであっても、普段は一つひとつを丁寧に読むことはあまりありません。ところが今回は、「あの学校のことは、どこに書いてあるだろう」と、自分から文字を追っていました。少し知ってい...