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加藤神社:清正公を訪ねて、熊本城の復興を見つめる

熊本県熊本市の加藤神社に行きました。

この日は朝から熊本市内を観光しており、夏目漱石の内坪井旧居、熊本城、水前寺成趣園、熊本博物館などを巡っていました。加藤神社は熊本城の敷地内にありますが、午前中に熊本城を見学した際には立ち寄りませんでした。しかし、一通りの観光を終えても飛行機の時間まで少し余裕があったため、旅の最後にもう一度熊本城の周辺へ戻り、加藤神社を訪れることにしました。

加藤神社は、その名の通り加藤清正を主祭神として祀る神社です。加藤清正は天正16年(1588年)に肥後へ入り、治山治水や水田開発などを進める一方、茶臼山と呼ばれた台地に熊本城を築き、慶長12年(1607年)に完成させました。熊本では現在でも「清正公(せいしょこ)さん」と呼ばれるほど親しまれている人物です。

ただし、加藤神社そのものが清正の時代から存在していたわけではありません。明治4年(1871年)、神仏分離の流れのなかで、熊本城本丸と宇土櫓の間に「錦山神社」として創建されました。その後、明治7年(1874年)に熊本城外の京町へ移り、明治42年(1909年)には加藤神社と改称されます。そして昭和37年(1962年)、再び熊本城内の現在地へ遷宮しました。いったん城外へ出た清正を祀る神社が、約90年を経て清正自身が築いた城へ戻ってきたことになります。

神社の入口へ行くと、鳥居の周囲には「清正公」と書かれた旗がいくつも並んでいました。熊本城を歩いていると加藤清正の名前を何度も目にしますが、その人物自身を神として祀っている場所だけに、ここではより直接的に清正への信仰を感じます。

境内に入ると、社殿は巨大な城郭建築を見た後だったこともあってか、思っていたよりも小さく感じました。白い壁が印象的で、熊本城の黒い板壁や石垣とはまた違った、静かで落ち着いた雰囲気があります。午前中に多くの観光客とともに歩いた熊本城とは少し空気が違い、旅の終わりに立ち寄るにはちょうどよい場所でした。

一方で、加藤神社周辺で特に印象に残ったのは、神社そのものよりも、周囲に並べられていた熊本城の石垣の石でした。2016年4月の熊本地震では熊本城も大きな被害を受け、建物だけでなく、多数の石垣が崩落しました。2017年から本格的な復旧工事が始まり、大天守の外観は2019年、天守閣全体は2021年に復旧していますが、城内ではその後も石垣や櫓などの復旧作業が続いています。

私が訪れた2024年3月は、熊本地震からすでに8年近くが経過していました。午前中に歩いた熊本城でも工事中の場所をいくつも見ましたが、加藤神社の周辺には崩れた石垣の石材が整然と並べられていました。それを目の前にすると、熊本城ほど巨大な文化財を元の姿へ戻す作業が、いかに長い時間を必要とするものなのかが実感できます。

城の石垣は、単純に新しい石を使って積み直せばよいわけではありません。文化財として復旧するためには、崩れた石材を回収し、それぞれの石がもともとどこにあったのかを確認しながら復元していく必要があります。熊本地震直後から石材の回収や被害状況の調査が行われ、その後、積み直しを含む復旧作業が続けられてきました。

加藤清正は築城だけでなく、治水や土木事業にも力を発揮した人物として知られています。 その清正を祀る神社のすぐそばで、400年以上前に築かれた城の石垣を現代の技術で一つずつ復旧している光景を見るのは、少し不思議な感じがしました。清正が築いた城を後世の人々が守り、さらに次の時代へ残そうとしている姿そのものが、加藤神社にふさわしい風景のようにも思えます。

本殿で参拝を済ませると、熊本での観光もこれで終わりです。朝から近代文学、熊本城、庭園、博物館とさまざまな場所を巡った一日でしたが、最後に加藤清正を祀る神社を訪れ、さらに熊本地震からの復興が今も続いていることを目にしたことで、熊本城が単なる過去の史跡ではなく、現在も地域の人々によって守られ続けている場所なのだと感じました。

境内を出た後は、熊本空港へ向かうバスに乗るため、バスターミナルへ向かいました。

旅程

羽田空港

↓(飛行機)

阿蘇くまもと空港

↓(バス)

桜町バスターミナル

↓(徒歩)

夏目漱石 内坪井旧居

↓(徒歩)

熊本大神宮

↓(徒歩)

熊本城稲荷神社

↓(徒歩)

熊本城

↓(徒歩)

熊本城・市役所前駅

↓(路面電車)

水前寺公園駅

↓(徒歩)

熊本洋学校教師ジェーンズ邸

↓(徒歩)

夏目漱石 大江旧居

↓(徒歩)

水前寺成趣園

↓(徒歩)

水前寺公園駅

↓(路面電車)

熊本城・市役所前駅

↓(徒歩)

熊本博物館

↓(徒歩)

加藤神社

↓(徒歩)

桜町バスターミナル

↓(バス)

阿蘇くまもと空港

地域の名物

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