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寧楽美術館:正倉院三彩から青磁まで、東アジアの美をたどる

奈良県奈良市の寧楽美術館に行きました。

今回は奈良国立博物館の特別展「南都仏画」を見るために奈良を訪れていました。奈良国立博物館は遅い時間まで開館しているため、それまで周辺を巡ることにし、元興寺、春日大社、依水園を見学したあと、依水園と同じ敷地内にある寧楽美術館に入りました。依水園と寧楽美術館は同じチケットで見学できます。

寧楽美術館の建物で最初に目を引いたのが屋根でした。二段になった屋根の上部がわずかに弧を描いています。このように上方へふくらむ曲線を「むくり」といい、建物は大和屋根をイメージして建築家の東畑謙三によって設計され、1969年に完成しました。近代的な美術館でありながら、奈良らしい伝統的な建築を意識した外観になっています。

訪問時には、企画展「令和8年 中国・朝鮮半島・日本の美をもとめて ―前期―」が開催されていました。寧楽美術館には、中国、朝鮮半島、日本を中心とした東アジアの古美術が収蔵されており、陶磁器だけでなく、青銅器、古印、古鏡、書画、茶道具など、その種類はかなり多岐にわたっています。今回の企画展でも、一つの分野に限定されず、さまざまな時代と地域の作品を見ることができました。

特に興味を持ったのが、正倉院に伝わる奈良三彩の再現を試みた作品です。初代館長の中村準佑が、陶芸家の加藤慈雨楼らの協力を得て研究したもので、薄い緑、白、黄色を組み合わせた作品が展示されていました。実用品として完成させるには難しい点もあったそうですが、三色の釉薬が混ざり合う色合いは美しく、古代の技法を近代に再現しようとした試みそのものにも面白さを感じました。今回の企画展でも、中村準佑が奈良三彩の再現を試みた「寧楽陶房」の作品が紹介されています。

毛利家に伝来した「黄金茶碗」も印象に残りました。名前の通り全体が金色に輝いており、最初は陶器などの表面に金を施したものなのかと思いました。しかし解説を読むと、木製の器を素地として金を使って仕上げたものでした。見た目だけでは素材まで分からず、展示解説を読むことで作品の見え方が変わるのも、美術館を訪れる面白さです。

中国・明時代の五彩人物文碗「大明万暦年製」も展示されていました。「五彩」という名前から最初は五色を使っているのだと思いましたが、ここでの「五」は必ずしも数字としての五色を意味するのではなく、多彩な色を使った陶磁器を表しています。青磁とはまったく異なる華やかさがあり、同じ中国陶磁でも時代や技法によって印象が大きく変わることが分かります。

一方、北宋や高麗の青磁も展示されていました。華やかな五彩とは対照的に、青磁は色数を抑えた静かな美しさがあります。中国で発達した青磁が朝鮮半島へ伝わり、高麗時代には独自の発展を遂げたことを考えると、中国、朝鮮半島、日本の作品を一つの美術館で見ることができる今回の展示は、東アジアの文化交流を考えるうえでも興味深いものでした。

陶磁器だけでなく、硯(すずり)も印象に残っています。中国・清時代の「端渓 十二支八卦洛書文円硯」はかなり大きな硯で、展示では十二支などが彫られた裏側を見ることができました。硯は文字を書くための実用品という印象が強かったのですが、普段は見えなくなる部分にまで細かな意匠が施されていることが面白く感じられました。実用性だけでなく、所有し、眺める美術品としての側面も持っていたのでしょう。

寧楽美術館は決して規模の大きな美術館ではありません。しかし、陶磁器、硯、絵画、掛け軸、書など展示の種類が多く、一点一点を見ていると、当初想像していたよりもかなり長い時間を過ごしていました。

最後の展示では、寧楽美術館そのものの歴史についても紹介されていました。

寧楽美術館の基礎を築いたのは、海運業を営みながら美術品を収集した中村準策です。中村準策は1939年に依水園を購入し、翌1940年に財団法人寧楽美術館を設立しました。中村家三代が収集した美術品のうち、第二次世界大戦中の神戸大空襲を免れた二千数百点が、現在のコレクションの中心となっています。戦後には依水園がGHQに接収されるという時期もありましたが、1953年に返還され、1958年から庭園と美術品の公開が始まりました。その後、1969年に現在の美術館が完成し、1970年から常設展示が始まりました。

こうした歴史を知ると、現在展示されている美術品が単に昔からそこにあったわけではないことが分かります。個人が集めた作品を子や孫の世代が受け継ぎ、戦争や占領といった困難な時代を乗り越えながら守り、美術館という形で一般に公開してきました。美術品そのものだけでなく、それを後世へ残そうとした人々の活動もまた、美術館の歴史の一部なのだと思います。

寧楽美術館では中国、朝鮮半島、日本のさまざまな美術を見ることができ、予想以上に楽しむことができました。庭園と美術館を一緒に見ることで、依水園という場所が単に庭園を保存しているだけではなく、美術品も含めて文化を受け継いできた場所であることも感じられました。

まだ時間には余裕がありました。地図を見ると、奈良国立博物館へ向かう途中から少し足を延ばせば「子規の庭」や正倉院にも行けそうです。そこで奈良国立博物館へ向かう前に、まず「子規の庭」に立ち寄ってみることにしました。

旅程

東京

↓(新幹線 / 近鉄)

近鉄奈良

↓(徒歩)

元興寺

↓(徒歩)

春日大社

↓(徒歩)

依水園寧楽美術館

↓(徒歩)

子規の庭

↓(徒歩)

転害門 / 正倉院正倉

↓(徒歩)

(略)

リンク

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