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東京国立博物館:平成館:教科書で覚え、博物館で迷う古代史

東京都台東区の東京国立博物館・平成館に行きました。

この日は、国立科学博物館の特別展「いきもの超ワールド展」を見た後、東京国立博物館へ向かいました。来週、奈良の法隆寺に行く予定があるため、まず法隆寺宝物館を見学し、その後、本館、東洋館と回り、最後に平成館の考古展示室へ行きました。

平成館の考古展示室には以前にも一度来ていますが、今回は大学で学んだ考古学の復習と、来週訪れる予定の藤ノ木古墳の予習も兼ねています。

展示は旧石器時代から始まり、縄文、弥生、古墳時代へと、日本列島の歴史を順番に追えるようになっています。

縄文土器は、早期、前期、中期、後期、晩期と時期ごとに並べられていました。

大学の考古学では、縄文時代早期の土器には底が尖ったものがあると習いました。それ以前、人々が動物の胃袋や皮など袋状の容器を利用していたため、その形状が初期の土器にも影響したという説明です。

実際に展示を見ると、底が尖っていたり、細くなっていたりして、そのまま平らな場所に置くには不安定そうな土器が並んでいました。その後、時代が進むにつれて平底のものが増え、縁の形や文様も複雑になっていきます。

ところが、晩期の展示を見ても、底の尖ったような土器が残っていました。

ここで改めて感じたのは、「ある時代の特徴」と「その時代に実際に存在したもの」は同じではないということです。仏像を勉強していても、飛鳥時代、白鳳時代、天平時代など、それぞれに代表的な様式があります。しかし実際には、ある時期になったから一斉に新しい様式へ切り替わるわけではありません。

縄文土器も同じで、時代ごとの大きな傾向はありながら、その中には多くの地域差や用途の違い、古い形式の継続があったのでしょう。教科書では整理された歴史を学びますが、博物館に並ぶ実物を見ると、その整理からはみ出すものがたくさんあることが分かります。

日本美術史のテキストでは、縄文時代晩期になると、器面いっぱいに文様を施すのではなく、無文の部分、つまり空白を生かすような構成も紹介されていました。その点も実物で確認したかったのですが、欠損部分が補修されている土器も多く、今回ははっきり確認できませんでした。

図録を帰宅後に見ていると、日本美術史の本に出てきた巻貝形土製品も掲載されていました。しかし写真を撮った記録もなく、実物を見た記憶もありません。すでに法隆寺宝物館、本館、東洋館と回った後だったため、かなり疲れていたようです。


弥生時代の展示では、弥生土器が前期、中期、後期に分けて並べられていました。

縄文土器ほど弥生土器の特徴を覚えていなかったため、このあたりはいつものように実物を眺めながら進みましたが、その中で強く印象に残ったのが、茨城県筑西市の女方遺跡から出土した弥生時代中期の「顔面付壺形土器」です。

壺に人間の顔が付いているという、それまであまり見たことのない形でした。顔を見ると顎の線が強く浮き出ており、単純に顎を表現したものなのか、顎髭のようなものまで意識しているのか気になりました。耳には穴も開いており、耳飾りを表現したものなのかとも考えました。

こうした人間の顔を表した土器を見ると、後の古墳時代の人物埴輪を連想します。

ただし、埴輪そのものの系譜は、弥生時代の吉備地方で祭祀に使われた特殊器台や特殊壺に求められ、そこから古墳の周囲に並べられる円筒埴輪へ発展したと考えられています。そのため、顔面付土器から人物埴輪へ直接つながったとは考えにくそうです。

それでも、人間の顔や身体を土器や土製品で表現するという発想そのものは、埴輪より以前から存在していました。直接の祖先ではなくても、人間を土で表現してきた日本列島の長い造形文化として見ると興味深いものがあります。


古墳時代に入ると、鏡や武器、装身具などが多くなります。

有名な三角縁神獣鏡の仲間も展示されていました。今回見たものには「三角縁四神四獣鏡」という名称が付いていました。

本などでは「三角縁神獣鏡」という言葉をまとめて使うことが多いのですが、実際には鏡に表された神像や獣像の数によって、三神三獣、四神四獣など、さらに細かな名称があります。

教科書では一つの名前で覚えていたものが、博物館に来ると突然細分化されるのも、実物を見る面白さです。


ヤマト王権に関する展示では、玉杖形石製品が気になりました。

そこには勾玉を思わせる形の装飾が取り入れられていました。勾玉というと、紐に通して身につける独立した装身具という印象が強かったのですが、その特徴的な形自体が権威を示す器物のデザインにも取り込まれていたことを初めて知りました。

古墳時代には、碧玉などの石材を加工して、実用品とは考えにくい精巧な石製品が数多く作られています。こうしたものは、ヤマト王権を中心とする政治的、祭祀的な権威と結びついていたと考えられています。


そして、この展示で特に驚いたものの一つが、大阪府羽曳野市の伝安閑陵古墳から出土したと伝えられる6世紀のガラス碗でした。

透明なガラスの表面には細かな装飾が施され、遠目には近代のガラス器や江戸切子のようにも見えます。約1500年前の古墳時代のものとは思えないほど洗練されていました。

最初は「古墳時代の日本で、これほど精巧なガラス製品を作っていたのか」と驚きましたが、帰宅して図録を見ると、ササン朝ペルシアで作られたと考えられるガラス器でした。

日本製ではなかったのは少し残念でしたが、それ以上に驚いたのは、遠く西アジアで作られたガラス器が日本の古墳にまで到達していることでした。

もちろんペルシアから日本まで一人の商人が直接運んできたわけではなく、中央アジア、中国大陸、朝鮮半島などを経由し、人から人へと渡ってきた可能性があります。それでも、壊れやすいガラス製品がユーラシア大陸の東端に近い日本まで到達し、最終的に古墳へ納められたことになります。

東洋館で中国やインド、西域の美術を見た直後だったこともあり、日本古代史も日本列島だけを見ていては理解できないことを改めて感じました。


飛鳥・奈良時代の展示では、瓦当が大量に並んでいました。

少し前に書道博物館で中国の瓦を見た際、漢字そのものを文様として使った瓦があったため、日本にも同じようなものがないか探してみました。

今回の展示では見つけられませんでした。

日本の古代瓦にも文字や印が残るものはありますが、中国で見られるように文字を主要な装飾として扱った瓦は、日本の寺院建築では一般的ではありません。日本では蓮華文や唐草文などが瓦当文様の中心となり、大陸から技術を受け入れながらも、同じものをそのまま使ったわけではないことが分かります。


平安時代では、経筒が特に気になりました。

初期のものは比較的単純な円筒形ですが、後になると六角形のものや細かな装飾を加えたものまで現れます。

経筒は、仏教経典を納めて地中に埋めるための容器です。

平安時代後期には、釈迦の教えが衰える「末法」の時代に入ったという末法思想が広がりました。釈迦入滅後、遠い未来に弥勒菩薩がこの世に現れて人々を救うと考えられ、その時まで経典を保存しようとして経塚が造られました。

弥勒菩薩が現れるのは、釈迦入滅から56億7000万年後とされます。

人間の感覚ではほとんど想像できない未来です。その未来まで教えを伝えようとして、経典を容器に納め、石室などを造り、さらに土をかぶせるという行為には、当時の人々の末法への不安と、それでも仏法を未来へ残そうとする強い願いが感じられます。


展示は本州の歴史だけではありません。

北海道の続縄文文化、擦文文化、オホーツク文化などの資料もありました。日本史というと、縄文、弥生、古墳、飛鳥、奈良という一直線の時代区分で考えてしまいがちですが、それは主に本州を中心に整理した歴史でもあります。

同じ時代、日本列島の北方では異なる文化が展開していました。

博物館で地域ごとの資料を並べて見ると、「日本史」という一本の線の横に、実際にはいくつもの異なる時間軸が存在していたことが分かります。


この日は国立科学博物館から始まり、法隆寺宝物館、本館、東洋館、そして平成館まで歩きました。

さすがに東洋館あたりから疲れが出てきたようで、平成館は十分に集中して見ることができませんでした。

しかし、東京国立博物館には特別展で何度も来ています。考古展示室も常設ですから、今回すべてを理解しようとする必要もありません。また考古学や日本美術史の勉強が進んだところで戻ってくれば、今回とは違うものが見えるはずです。

今回特に感じたのは、教科書で覚えた「時代の特徴」は、実物を見るための入口にすぎないということでした。

縄文時代早期には尖底土器がある、古墳時代には三角縁神獣鏡がある、飛鳥・奈良時代には寺院の瓦が作られ、平安時代には経塚が造られる。

こうして文章にすると歴史はきれいに整理できます。

しかし実物を見ると、古い形式が次の時代まで残っていたり、同じ種類の遺物にも細かな違いがあったり、遠くペルシアで作られたガラス器が突然日本の古墳から現れたりします。

歴史は時代ごとに箱を作って整理しなければ学べませんが、実際の歴史はそれほど整然としていなかったのでしょう。

最近は日本美術史の勉強で仏像の時代や様式を覚えるのに苦労しています。しかし今回、縄文土器を見ながら、「仏像だけが複雑なのではない」と少し安心しました。

どの時代にも代表的な特徴はありますが、その内側には無数のバリエーションがあります。

教科書で大きな流れを覚え、博物館でそこから外れる実物に出会い、また教科書へ戻る。その繰り返しで少しずつ理解が深まっていくのだと思います。


来週は実際に法隆寺と藤ノ木古墳を訪れる予定です。

今回見た展示が、現地でどのようにつながって見えるのか。それを確かめるのも楽しみになりました。

旅程

鶯谷駅

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国立科学博物館

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東京国立博物館:法隆寺宝物館

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東京国立博物館:本館

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東京国立博物館:東洋館

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東京国立博物館:平成館

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鶯谷駅

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