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泉屋博古館東京:特別展 没後100年記念 住友春翠―仕合せの住友近代美術コレクション:集める楽しみ、残す仕合せ

東京都港区の泉屋博古館東京に行きました。「ルーヴル美術館展 ルネサンス」を見るために国立新美術館を訪れ、その後、サントリー美術館を経て、こちらへ来ました。この日開催されていたのは、特別展「没後100年記念 住友春翠―仕合せの住友近代美術コレクション」です。

サントリー美術館では、阪急東宝グループの創業者で、「逸翁」と号した小林一三のコレクションを見てきました。続いて、こちらでは住友家の住友春翠です。同じ日に二人の実業家の美術品を見たことで、作品そのものだけでなく、それを集めた人が何を考え、美術とどのように関わっていたのかにも、自然と目が向きました。

個人の楽しみから、社会に残る財産へ

春翠は、住友家第15代当主の住友吉左衞門友純の号です。1864年に公家の徳大寺家に生まれ、西園寺公望を兄に持ち、住友家には婿養子として入りました。家業の近代化を進める一方で、美術品の収集や芸術文化の支援にも力を注いだ人物です。今回の展覧会は、1926年に亡くなった春翠の没後100年を記念したものでした。

第1章は「ノブレス・オブリージュの目覚め」です。春翠は1897年に約8か月にわたる欧米視察を行い、企業経営だけでなく、実業家による社会貢献のあり方にも触れました。美術を自分の邸宅で楽しむことと、それを社会に役立てることが、彼の中では次第につながっていったようです。

美術館や博物館を巡っていると、個人が建てた施設や、個人のコレクションを基礎にした展示によく出会います。普段は作品の名前や作者を中心に見ていますが、その作品が今ここにあるまでには、誰かが買い求め、大切に保管し、次の人へ引き継いだ時間があるのだと、改めて感じました。

そこで、仕事でも身近な現代のIT業界の富裕層のことを、少し考えました。少なくとも私が普段接する情報の中では、こうした美術館やコレクションの話は、それほど目に入りません。ただ、自分が知らないだけかもしれませんし、百年後に残ったものを見ている私たちが、現在とそのまま比較することもできません。

今は高級車や腕時計、宝石として個人に楽しまれている品々も、いつか、その時代の技術や美意識を伝える展示品になるのかもしれません。現在の私たちが「贅沢な趣味」と見るものと、未来の人が「貴重な文化資料」と見るものは、必ずしも別ではないのでしょう。大切なのは、何を所有したかだけでなく、それをどのように残し、誰に開いていくかということなのだと思います。

食堂に掛けられていた二枚のモネ

印象に残ったのは、モネの《サン=シメオン農場の道》と《モンソー公園》です。前者は1864年、後者は1876年の作品で、制作年には12年の隔たりがあります。展示の説明によると、この二枚は住友家須磨別邸の大食堂に掛けられていたそうです。

美術館で見るモネが、かつては食卓のそばにあったというのは、なかなか想像しにくい光景です。展覧会へ出かけて鑑賞するのではなく、食事のたびに自然と目に入る絵だったのでしょう。作品の来歴を知ると、美術品が暮らしの中にあった頃の姿を考えたくなります。

モネといえば印象派というイメージがありますが、初期の《サン=シメオン農場の道》は、隣の《モンソー公園》とはずいぶん違って見えました。二枚を並べて比べることで、自分が印象派らしいと感じる部分も、少しつかみやすくなりました。

とくに《モンソー公園》は、部分を拡大して見ると、それが何を表しているのか、はっきりしないところがあります。それでも全体として見ると、木々や道、その場の光が感じられます。一つひとつの形を細かく説明するように描くのではなく、色や筆の跡が重なることで、風景が立ち上がってくるようでした。「印象派とはこういうものです」と文章で読むよりも、同じ画家の異なる時期の作品を比べる方が、私には分かりやすく感じられました。

二つの展覧会で出会った楠木正成

高村光雲の《楠木正成銅像頭部木型》も展示されていました。皇居前に立つ楠木正成像は、別子銅山の開坑200年を記念して、住友家が宮内省、現在の宮内庁へ献納したものです。制作には東京美術学校、現在の東京藝術大学の前身の学校が関わり、高村光雲はその頭部を担当しました。銅像の原型が木彫で作られていたことも、今回の木型を見ると具体的に理解できます。

楠木正成公像、(2023/4/1 筆者撮影)

ここで思い出したのが、直前にサントリー美術館で見た、逸翁の《是楠忠辞乎》です。「これ、なんちゅう字や」と読ませる言葉遊びの書でした。もちろん、こちらは銅像と同じ趣旨の作品ではありませんが、続けて「楠」の字に出会ったことで、この時代の人々にとって、楠木正成は特別な存在だったのだろうかと気になりました。

歴史を振り返ると、楠木正成への尊敬は明治時代に突然始まったものではなく、江戸時代から幕末にかけても広がっていました。とくに明治以降は、後醍醐天皇への忠義を象徴する人物として重視され、1872年には正成を祀る湊川神社が創建されています。唱歌などを通じてもその物語が伝えられ、皇居前の銅像も、そうした時代の価値観の中に位置づけられます。

今の私には、その忠義を当時の人と同じ感覚で受け止めることは難しいです。それでも、なぜこの人物が選ばれ、なぜこの場所に像が建てられたのかを知ると、銅像は中世の武将を表すだけでなく、それを作った近代の人々の考えも伝えているのだと感じます。美術館の展示から、東京の街中にあるものの見方まで変わっていくのが面白いところです。

四君子は、四人のことではありませんでした

第3章は「『家』と『私』を貫くもの」です。

ここで興味を引かれたのが、初代伊東陶山の《白磁四君子画花瓶》でした。伊東陶山が作った白磁の花瓶に、春翠と山田秋坪、渡辺花仙、井口邨僊が絵を描いた合作です。春翠が竹、秋坪が梅、花仙が蘭、邨僊が菊を担当しています。

最初は、四人で描いたから「四君子」なのかと思いました。しかし、四君子というのは人の数ではなく、蘭・竹・梅・菊という四種類の植物を指す言葉でした。まっすぐ伸びる竹や、寒さに耐えて咲く梅などの性質を、気高い人格を持つ「君子」に重ねた、東洋絵画の画題なのだそうです。

春翠が描いたのは、赤い竹、朱竹です。展示では、こうした制作が、人の集まる席で即興的に絵を描く「席画」の楽しみとも結びついていることが紹介されていました。限られた時間の中で、それぞれが筆を取り、一つの花瓶を仕上げていく様子を想像すると、完成した作品だけでなく、その場の交流まで残されているように思えます。

春翠は、美術品を買う側にいるだけではありませんでした。自らも筆を取り、画家たちと同じ楽しみを分かち合っていたのです。大きな事業を担う住友家の当主という顔とは別に、気の合う人たちと絵を描く一人の人間の姿が、この花瓶からは感じられました。

一万円を使い切れなかった返礼品

もう一つ、作品とともに、その背景の話まで印象に残ったのが、大国柏斎の《銀玉象嵌鳳凰耳付花瓶》です。大正11年、1922年頃の作品で、住友家が大阪市に茶臼山本邸の敷地を寄付したことへの返礼品でした。美術館の建設を条件とした土地の提供は、春翠の没後、1936年に開館する大阪市立美術館へとつながっていきます。

展示で紹介されていた逸話によると、大阪市は返礼品のために当時の一万円という予算を用意しました。ところが、制作を担当した柏斎は、その予算をなかなか使い切れず、苦労したそうです。

そこで、高田竹山に書を書いてもらい、予算を消化しようとしました。しかし竹山は、制作の経緯を聞くと、かえって制作料を値下げしてしまいます。これには柏斎も「それは殺生だす」と嘆いたというのです。

お金が足りなくて困る話ではなく、十分に使うことができずに困る話です。感謝にふさわしいものを贈りたい側と、その仕事に応えようとする作り手、事情を知って報酬を控えようとする書家。それぞれの気持ちが少しずつすれ違って、困ったことになっているところに、人間味を感じました。

そして、話はそこで終わりません。花瓶を受け取った春翠は、子息に「かかるものを貰おうと思って寄付したのではない」と伝えたそうです。

美術を愛し、優れた作品を集めていた人が、美術品を返礼にもらうために寄付をしたのではないと言う。その言葉には、個人の楽しみと、社会のために行うことを混同しない姿勢が表れているように感じました。立派な花瓶だけを見ていたら分からなかった、春翠という人物の一面です。


今回は、二つの美術館を続けて訪れたことで、逸翁と春翠、それぞれの美術との関わり方を考える一日になりました。コレクションとは、単に高価なものや美しいものを集めた結果ではなく、その人の暮らしや交友関係、社会への向き合い方が積み重なったものなのだと思います。

モネのある食卓、四人で絵を描いた花瓶、善意が少しずつすれ違った返礼品。作品の背景を知るほど、そこに関わった人々が身近に感じられました。展覧会名の「仕合せ」も、作品と人、人と人との巡り合わせを表す言葉として受け止めたくなります。その巡り合わせの先に、百年後の私たちの鑑賞があることも、今回の展示を見て感じたことでした。

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