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サントリー美術館:逸翁美術館コレクション 蕪村・呉春と茶の湯の名品:名品をたどって出会った、実業家の遊び心

東京都港区のサントリー美術館に行きました。国立新美術館で「ルーヴル美術館展 ルネサンス」を見た後、東京ミッドタウンへ移動してきました。以前、ミッドタウンで仕事をしていたので、美術館の存在は知っていましたが、実際に入るのは、おそらく初めてです。

このとき開催されていたのは、「逸翁美術館コレクション 蕪村・呉春と茶の湯の名品」でした。最初は「逸翁」が何を意味するのか分かりませんでしたが、入口の説明を読んで、阪急東宝グループの創業者、小林一三の雅号だと知りました。逸翁美術館は、そのコレクションをもとに昭和32年(1957)に大阪府池田市に設立された美術館です。小林一三の名前も今回初めて知りましたが、明治時代の起業家に興味がある自分にとって、美術品とともに一人の実業家の生涯に出会う機会になりました。


第1章の「古筆と経巻」では、まず古筆切が紹介されていました。古い巻物や冊子から、優れた筆跡の一部分を切り取ったもので、掛軸に仕立てたり、手鑑と呼ばれる帖に貼ったりして鑑賞してきたそうです。少し前に東京国立博物館の本館でも、似たようなものを見た気がしました。帰宅後に調べてみると、そちらは絵巻の一部分である「断簡」でした。古筆切も断簡の一種なので、もとの書物の一部を独立した作品として楽しむという点で、つながっていたことになります。

小野道風の筆と伝わる、平安時代の《継色紙「あまつかぜ」》では、紙のつなぎ目も含めて一つの掛軸になっていることが気になりました。もとは冊子の見開き二枚に、一首の和歌を散らして書いたものだそうです。継ぎ目で分けるのではなく、左右の紙と余白を合わせた姿に意味があったのだと分かりました。書の鑑賞には、文字の形だけでなく、紙面のどこに書き、どこを空けるかという楽しみもあるようです。

伝藤原公任筆の《石山切 伊勢集「ぬきためて」》は、一見すると、何か汁物でもこぼしたように見えました。ところが、これは紙を破って継ぎ合わせる「破り継ぎ」という技法によるものでした。不規則な境目も、料紙の装飾の一部なのです。何も知らずに見たときの印象が、説明を一つ知るだけで変わっていきます。平安時代の書を読むのはまだ難しいですが、紙そのものにも鑑賞の入口があることを教えてもらいました。

鎌倉時代の《伊勢物語下絵梵字経断簡》も、最初は文字の間に墨が飛び散っているように見えました。よく見ると、それは絵でした。この絵巻は、現存する最古の伊勢物語絵として知られ、書画に親しんだ貴族の手になるとも考えられているそうです。絵や詞書の上に梵字の経文が捺されているのは、所有者や制作者の追善供養のためと考えられています。物語を楽しむための絵に、後から祈りが重ねられていると知ると、小さな断簡にも、描かれたときだけでは終わらない歴史が感じられます。


第2章は「中世・近世の絵画と工芸」です。最近、仏像や仏画を見る機会が多かったこともあり、鎌倉時代の《地蔵十王像》の前で立ち止まりました。これまで見てきた飛鳥・奈良時代の仏像と比べると、地蔵は、もう少し後の時代に多く見かける印象があります。地蔵と十王を結びつけ、死後の裁きを受けた人々の救済を願う信仰は、平安時代末から鎌倉時代にかけて広まっていきました。

会場では気づきませんでしたが、帰ってから図録を見ると、地蔵の下に描かれた人物は十人より多く見えます。実際に、十王のほかに使者や善悪二童子なども描かれていました。題名を知っただけで分かった気にならず、一人ずつ見直すと、画面の中に表されている世界が少しずつ広がっていきます。

狩野光信の《豊臣秀吉画像》は、まさによく見かける秀吉の顔でした。しかも、顔を中心とした部分には「紙形」という別紙が貼られています。これは完成した肖像画ではなく画稿で、よく似ているという趣旨の書き込みもあり、いくつかの下絵から選ばれて、後の秀吉像のもとになったものだそうです。見慣れた歴史上の人物の顔にも、描き直しや選び直しの過程があったと思うと、急に制作の現場が身近に感じられました。

《花鳥蒔絵螺鈿洋櫃 付籐編外櫃》では、外側の籐編みの櫃にアルファベットが表されていることに驚きました。桃山時代の日本の工芸品を見ているつもりだったので、思いがけない文字でした。ヨーロッパ向けに日本で作られた南蛮漆器の一つで、西欧の注文主を意識した品だと考えられています。南蛮貿易という言葉は知っていても、当時の日本で海外の注文に応じた品が作られていたことは、実物を前にすると、歴史の教科書とは違った実感を伴います。


第3章の「蕪村と呉春 近世諸派の絵画」では、与謝蕪村の《奥の細道画巻》が印象に残りました。蕪村が敬愛する松尾芭蕉の『おくのほそ道』を書き写し、俳画の挿絵を添えたもので、安永8年(1779)の作品です。芭蕉の旅を、後の時代の蕪村が絵と文字でたどっていることになります。

その絵が、漫画のようにコミカルで、軽やかでした。旅好きの自分には、「ちょっと奥の細道と同じ旅をしてみようか」と、思わず気軽に出かけたくなるような魅力がありました。描かれた人々を見ていると、遠い時代の旅人たちにも親しみが湧いてきます。こういう絵を入口にすれば、古典を読むことも、史跡を訪ねることも、少し気軽に始められそうです。

呉春の《白梅図屛風》は、ほかの展示から分けられた薄暗い部屋に置かれていました。暗い背景と梅の幹や枝の中に、白い花だけが静かに浮かび上がるようでした。背景には藍染めの絹が使われているそうで、展示室の照明だけでなく、作品そのものにも、あの深い色合いを生み出す工夫がありました。呉春は蕪村に学び、後に円山応挙の写生の表現も取り入れた画家です。師の軽やかな俳画を楽しんだ後でこの屏風を見ると、同じ章の中でも、絵の前で過ごす時間の感じ方が変わるようでした。


第4章の「逸翁の茶道具」には、多くの茶碗や茶入が並んでいました。その中で面白かったのが、《五彩蓮華文呼継茶碗》、逸翁が「家光公」と名づけた茶碗です。呼継とは、異なる器の破片を取り合わせて、一つの器に仕立てることです。この茶碗の見事な継ぎ方に感心した逸翁は、徳川の三代目を見事に継いだ家光にかけて、その銘を付けたそうです。

継ぎ合わせた線も、まるで模様のように見えました。器の形や絵付けだけでなく、継ぎ方を楽しみ、さらに歴史上の人物に結びつけて名前を考えるところまでが、逸翁にとっての鑑賞だったのかもしれません。茶道具というと少し難しそうですが、こうしたしゃれを知ると、急に親しみやすくなります。

海外の作品もあり、ドイツのマイセンで19世紀に作られた《彩磁マンドリン形花入》には、こんな形を磁器で作れるのかと驚きました。白い地に花が描かれ、楽器の形をしているのに、用途は花入です。茶道具が並ぶ中で目にすると、マンドリンと花と茶の湯が、一つの場所に集まっていることも面白く感じられました。

逸翁は、西洋の器を茶道具に見立てたり、懐石に洋食を取り入れたり、椅子席の茶室を考えたりした人でもありました。一方で、点前の作法には晩年まで心を配っていたそうです。茶の湯を学びながら、自分がよいと思ったものを取り入れ、楽しみを広げていく姿勢に、事業家としての発想とも通じるものを感じます。


第5章の「近代芸術家と逸翁」では、与謝野晶子の《源氏物語五十四首和歌短冊》が目を引きました。大正9年(1920)の作品で、短冊そのものに光沢があり、とてもきれいでした。晶子は、一三の家で上田秋成らによる源氏物語の短冊を貼った屏風を見て心を動かされ、自分でも五十四帖を一首ずつ詠み、それを一三に贈ったそうです。集めた作品が別の作家を刺激し、新しい作品につながるという交流もあったのだと知りました。

《黒地歌劇雛祭楽譜蒔絵棗》と《朱地君が代楽譜蒔絵棗》には、楽譜が装飾として使われていました。棗は薄茶に用いる抹茶を入れる器で、ナツメの実に似た形が名前の由来だそうです。黒い棗に表されているのは、一三が手がけた歌劇「雛祭」の楽譜で、宝塚歌劇二十周年の記念茶会のために、漆芸家の三砂良哉に作らせたものでした。茶の湯の道具に、自分の関わる歌劇の音楽を取り入れるところにも、人を楽しませようとする発想が感じられます。


最後の第6章は「明治・大正・昭和 逸翁・小林一三の生涯」です。電鉄の開業、百貨店の開設、宝塚歌劇の創設などが紹介され、歴史好きの自分には、美術品とはまた違う興味をひかれるコーナーでした。

一三が創立に関わった箕面有馬電気軌道は、明治43年(1910)に運行を始め、鉄道とあわせて沿線の住宅開発も進めました。大正3年(1914)には宝塚少女歌劇が初公演を行い、昭和4年(1929)には阪急百貨店が開業しています。明治から大正、昭和へと時代が移る中で、移動の手段、暮らす場所、買い物をする場所、休日を楽しむ場所が、一つの事業の広がりとして結びついていったことが分かります。

野球にも関わり、阪急野球団の創立や球場の整備などの功績によって、昭和43年(1968)には野球殿堂入りしています。鉄道会社と百貨店、野球の組み合わせは想像しやすいですが、そこに歌劇や映画まで加わると、事業の幅広さに驚きます。もともと文学に親しみ、小説家を志した人だったと知ると、文化を楽しむ感覚と、事業を考える感覚が、一三の中では近いところにあったのかもしれません。

そして、人柄が最も身近に感じられたのが、一三自身の書《是楠忠辞乎》でした。字面だけを見ると、楠木正成の忠義について述べた、何か立派な言葉のように見えます。ところが、「これ、なんちゅう字や」と読ませるそうです。読み方が分かると、それまでの印象が変わってしまいました。名品を集めた文化人というと、こちらまで背筋を伸ばしてしまいそうですが、この書からは、見る人を和ませようとするユーモアが伝わってきました。

茶碗に「家光公」と名づけたしゃれも、楽譜を描いた棗も、この書を見た後では、一人の人物の好みとして、つながって見えてきます。古い作品の価値をよく知りながら、自分なりの発見や遊びを加えることも楽しんでいたのでしょう。展示を見終える頃には、作品の名前や年代だけでなく、それを選んだ人の顔も、少し見えてきたような気がしました。


一三は生前、小さな都市にも美術館がある社会を思い描き、「一都市一美術館」という構想を持っていたそうです。自らの美術館の開館を見届けることはできませんでしたが、その遺志は逸翁美術館に引き継がれました。こうして東京でその収集品を見ることができるのも、美術を多くの人と分かち合おうとした思いの続きなのだと感じます。

訪れる前には、「逸翁」も「小林一三」も知らない名前でした。今回の展示を通して、明治から大正、昭和にかけて、関西の交通や街づくりを担いながら、芸術や娯楽を育て、古い美術を次の時代へ伝えた人物だと知ることができました。何より印象に残ったのは、その大きな業績とともに、茶碗の継ぎ目や短い書の中に見えた遊び心でした。


サントリー美術館を後にして、次は泉屋博古館東京へ向かいました。

旅程

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泉屋博古館東京

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