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名古屋市博物館:特別展「リトアニア ―バルトの森に響く歌―」:森に響く歌、国境を越える本

愛知県名古屋市の名古屋市博物館に行きました。

今回の名古屋訪問の目的は、特別展「リトアニア ―バルトの森に響く歌―」です。

バルト三国のうち、ラトビアとエストニアには15年ほど前に旅行で訪れたことがありますが、リトアニアにはまだ行ったことがありません。いつか訪れたいと思っていたところ、今回の特別展を見つけ、名古屋まで足を運ぶことにしました。

午前中は、名古屋市博物館に向かう前に、杉原千畝広場センポ・スギハラ・メモリアルを訪れました。第二次世界大戦中、リトアニアのカウナスでユダヤ人難民に「命のビザ」を発給した杉原千畝は、名古屋で少年時代を過ごした人物です。リトアニアと名古屋には、こうした歴史的なつながりもあります。

名古屋市博物館では、「リトアニア ―バルトの森に響く歌―」とともに、特別展「名古屋には秀吉がおるでよ! ―秀吉と尾張の歴史―」も開催されていました。展示室の順路に従い、先に豊臣秀吉の特別展を見学してから、今回の目的であるリトアニアの展示へ向かいました。


展示の冒頭では、リトアニアの「歌と踊りの祭典」を紹介する映像が流れていました。

歌と踊りの祭典は、国内各地から多くの人々が集まり、大規模な合唱や民族舞踊を披露する行事です。リトアニアでは1924年に第1回の歌の祭典が開催され、現在も4年に一度の大きな文化行事として受け継がれています。

数多くの人々が一斉に歌う光景は壮観ですが、この祭典が持つ意味は、単なる音楽イベントにとどまりません。民族の伝統や文化を世代を超えて継承する場でもあります。そのことは、後半のリトアニアの歴史を知ることで、より深く理解できました。


第1章は「森とともに暮らす」です。

リトアニアには豊かな森林が広がり、人々は古くから森の恵みを利用し、自然とともに生活してきました。キリスト教を受け入れる以前の自然崇拝の伝統も、暮らしや文化の中に受け継がれてきたようです。

最初に興味を引かれたのは、「雌ヘラジカ頭部を象った儀仗」です。

展示されていたものは複製ですが、原資料は紀元前3640~3510年頃のもので、リトアニアのシュベントーイ遺跡から出土しました。雌ヘラジカの頭部が彫られた杖のようなもので、材料にはヘラジカの角が使われています。

見た目から木製かと思いましたが、角で作られていると知って驚きました。何千年も前の人々が、身近な動物を素材として、これほど特徴的な造形物を作っていたことに興味を覚えました。

紀元前3千年頃の「円盤形の護符」は、琥珀で作られていました。小さなボタンのような形をしており、表面には点を打って描かれた模様があります。規則的なようにも、不規則なようにも見える不思議な模様でした。

琥珀はバルト海沿岸の代表的な産物です。古代から装飾品などに利用され、遠方との交易にも用いられてきました。こうした小さな護符からも、当時の人々と自然との関わりが感じられます。

5世紀の「角杯用の金具」も印象に残りました。日本では古墳時代にあたる頃のものですが、その意匠には、私が漠然とイメージするヨーロッパや北欧の雰囲気が感じられました。

時代が大きく進んだ20世紀の資料には、織機の模型もありました。小さな模型ですが、非常に精密に作られており、実際に布を織ることもできるようです。単なるおもちゃには見えない、見事な作りでした。

展示の途中には、リトアニアの文化を紹介する小さなコラムも設けられていました。

中でも面白かったのが、リトアニア語についての説明です。リトアニア語はインド・ヨーロッパ語族に属する言語で、古代のインド・ヨーロッパ祖語の特徴を数多く残していることで知られています。

そのため、言語学者にとっては「タイムマシン」のような存在なのだそうです。

現代まで使われ続けている言語の中に、遠い古代の言葉の特徴が残っているというのは、なかなか興味深い話です。


第2章は「歌い、踊り、祝う」です。

ここでは、民族衣装や楽器、祭典に関する資料が展示されていました。

カンクレスという伝統的な弦楽器は、地方ごとに形の異なるものが紹介されていました。水平に置いて弦を弾く楽器で、日本の琴を思わせます。もちろん、構造や演奏方法は異なりますが、遠く離れた地域にも似たような発想の楽器が存在するのは面白いものです。

女性の晴れ着には、ズーキヤ地方や小リトアニア地方のものがありました。19世紀頃の衣装を復元したもので、地方ごとの色彩や模様の違いが見られます。

民族衣装は、単に美しい衣服というだけでなく、地域の伝統や人々の帰属意識を表すものでもあります。

歌と踊りの祭典に使われた旗などの資料も展示されていました。最初に映像で見た大規模な合唱も、こうした各地の文化や伝統が集まることで成り立っているのでしょう。


第3章は「自由のための戦い」です。

ここからは、リトアニアの長く複雑な歴史が紹介されていました。

現在のリトアニアは比較的小さな国ですが、中世にはヨーロッパ有数の大国だった時代があります。

13世紀にはミンダウガスが諸勢力を統合し、1253年にリトアニア王として戴冠しました。その後、リトアニア大公国は勢力を拡大し、14世紀のゲディミナス大公の時代には、現在のベラルーシやウクライナ方面にも領土を広げていきました。

1386年には、リトアニアのヨガイラがポーランド女王ヤドヴィガと結婚し、ポーランド王となります。これを契機に、リトアニアとポーランドの結びつきが強まりました。

1410年には、ヴィータウタス大公とヨガイラ率いるポーランド・リトアニア連合軍が、ジャルギリスの戦いでドイツ騎士団に大勝します。

その後、リトアニア大公国はヨーロッパ最大級の領土を持つ国家となりました。

1569年にはポーランドとの間でルブリン合同が成立し、ポーランド・リトアニア共和国が誕生します。しかし、周辺諸国との対立が続き、18世紀後半にはロシア、プロイセン、オーストリアによって領土が分割されました。

1795年の第3次分割によって国家は消滅し、リトアニアの大部分はロシア帝国の支配下に入りました。

展示では、中世の鎧や兜、剣なども紹介されていました。

15年ほど前にラトビアやエストニアを旅行した際、何かの本で「ヨーロッパよりヨーロッパらしい地域」といった表現を見た記憶があります。

かつてソ連の支配下にあった地域ですが、旧市街には日本人が思い描く中世ヨーロッパのような街並みが残っています。

今回の鎧や剣なども、ゲームや映画に登場しそうな姿をしていました。

もっとも、実際の歴史は、そうしたロマンチックな印象とは大きく異なります。

陸続きで周辺の大国と接するリトアニアは、何度も侵略や支配を受け、そのたびに自分たちの自由や文化を守ろうとしてきました。

特に印象に残ったのは、ロシア帝国支配下での抵抗運動です。

ロシア帝国は、19世紀後半にリトアニア語をラテン文字で印刷することを禁止しました。1864年から1904年まで続いたこの政策は、リトアニアの言語や文化を抑圧し、ロシア化を進めるものでした。

しかし、人々は母国語を守ることを諦めませんでした。

隣接するプロイセン領などで印刷されたリトアニア語の書籍を、密かに国境を越えて国内へ持ち込み、人々に配布したのです。

こうした活動に携わった人々は「本の密輸人」と呼ばれています。

展示されていた聖歌集「カンティチュコス」などの書籍は、まさに言語と文化を守るために使われてきた資料です。

19世紀末には、ヨナス・バサナビチュスらの知識人によって民族復興運動が進められました。定期刊行物「アウシュラ(夜明け)」や新聞「リエトゥヴォス・アイダス(リトアニアの木霊)」なども展示されていました。

当時の人々にとって、母国語で本や新聞を読み、自分たちの歴史や文化を知ることは、当たり前に認められた権利ではありませんでした。

武器を取って戦うことだけが抵抗ではありません。本を運び、言葉を伝え、文化を次の世代に残すこともまた、自由を守るための戦いだったのです。

こうした地道な活動によって民族意識が受け継がれ、第一次世界大戦中の1918年2月16日、リトアニアは独立を宣言しました。

しかし、独立を取り戻した後も苦難は終わりません。

第二次世界大戦期には再び大国による占領を経験し、その後は長くソ連の支配下に置かれました。そして1990年、リトアニアは再び独立回復を宣言しました。

この長い歴史を振り返ると、冒頭で見た「歌と踊りの祭典」の意味も違って見えてきます。

歌や踊りは、人々が楽しむためのものであると同時に、言葉や文化、そして自分たちの存在を次の世代へ伝えるためのものでもあります。

リトアニアの人々は、武力による抵抗だけでなく、本や新聞、歌といった文化の力によっても、自分たちの民族としてのつながりを守り続けてきたのでしょう。

島国である日本にも、もちろん外圧や戦争の歴史はあります。しかし、陸続きの大国に囲まれ、国家そのものが幾度も消滅の危機にさらされるという歴史は、日常的にはなかなか実感しにくいものです。

今回の展示では、華やかな民族衣装や古代の工芸品だけでなく、そうした厳しい歴史の中で文化を守り続けた人々の強さが、特に印象に残りました。


ラトビアやエストニアに旅行した際は、主に美しい街並みや歴史的建築を楽しんでいましたが、今回の展示を見て、改めてバルト三国の歴史を学びながら訪れてみたいと思いました。

いつかリトアニアを訪れることができたら、首都ヴィリニュスの旧市街だけでなく、森や民族文化に触れられる場所にも足を運んでみたいものです。


名古屋市博物館を出た後は、地下鉄で名古屋市美術館へ移動しました。次の目的は「ゴッホの跳ね橋と印象派の画家たち ヴァルラフ=リヒャルツ美術館所蔵」展です。

リトアニアの長い歴史と文化に触れた後は、19世紀ヨーロッパの絵画の世界へ向かいました。

旅程

東京

↓(新幹線 / 名古屋市営桜通線)

瑞穂区役所駅

↓(徒歩)

杉原千畝広場センポ・スギハラ・メモリアル

↓(徒歩)

名古屋市博物館:特別展「名古屋には秀吉がおるでよ! ―秀吉と尾張の歴史―」

↓(徒歩)

名古屋市博物館:特別展「リトアニア ―バルトの森に響く歌―」

↓(徒歩)

桜山駅

↓(名古屋市営桜通線)

久屋大通駅

↓(徒歩)

名古屋市美術館

↓(徒歩)

(略)

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