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上野の森美術館:大ゴッホ展 夜のカフェテラス:限られた時間の美術鑑賞の難しさ

東京都台東区の上野の森美術館で開催されている「大ゴッホ展 夜のカフェテラス」に行きました。 この展覧会を知り、1か月半ほど前にチケットを購入しようとしたところ、空いていたのは7月29日だけでした。日時指定制の展覧会だったため、入場者数はある程度抑えられていると思っていましたが、会場に少し早く着くと、すでに多くの人が並んでいました。展示室の中もかなり混雑しているだろうと予想しながら入館しました。 会場となった上野の森美術館は、日本美術協会の美術展示館を改修し、1972年に開館した美術館です。常設展示を持たず、国内外の美術を紹介する企画展や公募展などを開催してきました。今回の展覧会では、オランダのクレラー=ミュラー美術館が所蔵する作品を中心に、ゴッホのオランダ時代からパリ時代を経て、南フランスのアルルへ向かうまでの画業が紹介されていました。 私は最近、大学の授業に備えて西洋美術の見方を少しずつ学んでいます。そのため、以前であれば「有名なゴッホの絵を見る」というだけだった展覧会を、今回は「少しは構図や光の使い方を理解できるだろうか」と考えながら見始めました。 特に印象に残ったのは、「第2章 オランダ時代」に展示されていた織工を描いた作品です。 ゴッホは1883年末から1885年にかけて、オランダ南部のニューネンで暮らしました。この時期には、農民や織工など、土地に根差して働く人々を数多く描いています。織工は自宅に置かれた大きな織機を使い、厳しい生活の中で長時間働いていました。ゴッホは、そうした労働者の生活を重要な題材として捉えていたようです。 会場には、織工を横から描いた作品や、斜め前から捉えた作品など、さまざまな構図のデッサンや油彩画が並んでいました。最初に横から見た構図が続いたときには、西洋美術史の勉強で比較したカスターニョとレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を思い出しました。同じ題材であっても、画家は人物や空間をどの方向から見せるかを考え、何度も試行錯誤するのだと感じました。 その後、織工を斜め方向から見た作品が現れると、今度はティントレットの「最後の晩餐」が思い浮かびました。もちろん、描かれている題材も時代もまったく違います。しかし、正面や真横からではなく、斜め方向から空間を捉えることで奥行きや動きが生まれるという点で、授業で学んだ作品と目の前の作品が結びつき...

日本科学未来館:特別展「大南極展」:猛暑の東京で触れた南極の氷

東京都江東区青海にある日本科学未来館に行きました。 厳しい猛暑が続いていたため、都内で手軽に行ける屋内施設を探していたところ、日本科学未来館で特別展「大南極展」が開催されていることを知りました。南極という言葉だけでも少し涼しい気分になれそうだったので、久しぶりに日本科学未来館を訪れることにしました。 「大南極展」は、日本の南極観測70周年を記念して開催された特別展です。日本の南極観測は、1956年11月8日に第1次南極地域観測隊を乗せた観測船「宗谷」が東京港を出発したことから始まりました。翌1957年1月29日には隊員17人が東南極のオングル島に上陸し、そこを日本の観測拠点として「昭和基地」と名づけました。それ以来、南極では気象、地質、生物、海洋、宇宙など、さまざまな分野の観測が続けられています。 特別展の入口近くでは、実物の南極の氷が展示されていました。ケース越しに見るだけではなく、実際に手で触れられる展示だったため、多くの人が列を作っていました。日本科学未来館は常設展にも体験型の展示が多く、見るだけではなく、触ったり動かしたりしながら科学を学べるところが、いかにも科学館らしく感じられます。 南極の氷に触れるという体験は、単に冷たさを感じるだけではありません。はるか遠くにある南極大陸が、一時的に東京まで運ばれてきたようでもありました。猛暑の東京で南極の氷に手を触れるという状況も、少し不思議なものでした。 その先には、歴代の南極観測船などの模型が並んでいました。船体には「PL107」「5001」「5002」「5003」といった番号が記されていました。これは、初代観測船の「宗谷」、その後を継いだ「ふじ」、初代の「しらせ」、現在の「しらせ」へと続く日本の南極観測船の歴史を示しています。宗谷は第1次から第6次、ふじは第7次から第24次、初代しらせは第25次から第49次の観測を支えました。現在の「しらせ」は艦番号AGB-5003の砕氷艦で、厚さ約1.5メートルの氷を連続して砕きながら進む能力を備えています。 模型の近くには、南極地域観測隊が使用する防寒服も展示されていました。南極というと、氷と雪に覆われた静かな世界を想像しますが、実際には強風によるブリザードが発生し、短時間で視界が悪化することもあります。昭和基地周辺でも最大瞬間風速が毎秒50メートル前後に達することがあり、...

雄翔館:白い零戦を追って出会った、もう一つの戦争の記憶

白い零戦を求めて鹿児島県の知覧まで足を運びましたが、残念ながら目的としていた機体は見つかりませんでした。その後、ChatGPTで調べてみると、茨城県阿見町の予科練平和記念館に白い零戦の実物大模型が展示されていることが分かりました。思っていたよりも近い場所にあることに驚き、さっそく予科練平和記念館を訪れました。 館内を見学したあと、隣接する雄翔館にも向かいました。雄翔館は陸上自衛隊土浦駐屯地の敷地内にありますが、予科練平和記念館側にも専用の入り口があり見学できるようになっています。すぐ近くに予科練を扱う博物館が二つ並んでいるため、最初はなぜ別々の施設になっているのか不思議に思いました。 予科練とは、「海軍飛行予科練習生」と、その教育制度を指す略称です。航空戦力の拡充を進めていた旧日本海軍が、若いうちから搭乗員を育成するため、1930年に横須賀で教育を開始しました。1939年には予科練教育が阿見町へ移され、翌年に発足した土浦海軍航空隊が、その中心的な役割を担うようになりました。全国から多くの少年が集まりましたが、戦地に赴いた卒業生の約8割にあたる約1万9千人が亡くなったとされています。 二つの施設が並んでいる理由は、それぞれが異なる時代に、異なる目的で建てられたことにあります。雄翔館は、全国の予科練出身者が寄付を出し合い、戦没者の遺品や資料を保存するため、1968年に開館しました。これに対して、阿見町が運営する予科練平和記念館は、予科練の歴史や阿見町の戦争体験を伝え、命の尊さや平和について考える施設として、2010年に開館しています。 実際に見学すると、二つの施設の違いは展示内容からも感じられました。予科練平和記念館は、少年たちが受けた厳しい訓練や戦争による犠牲を通して、戦争の悲惨さと平和の大切さを伝える構成になっています。一般的な平和祈念館や戦争記念館に近い印象を受けました。 一方の雄翔館では、予科練出身者一人ひとりの経歴や遺影、遺書、遺品などが数多く展示されていました。雄翔館は、予科練戦没者の慰霊と顕彰を目的として設けられた施設で、予科練生の生活や遺書、遺品など約千点を展示・保管しています。そのため、戦争全体を大きな視点から振り返るというよりも、そこで生き、戦い、亡くなった人たちの姿を個人の記録から伝えることに重点が置かれています。 撃墜した敵機や攻撃した艦船など、...

予科練平和記念館:白い零戦を追う旅の終着点

先日、白い零戦を求めて鹿児島県の知覧を訪れました。しかし、知覧特攻平和会館に展示されていたのは海から引き揚げられた零戦で、探していた白い零戦とは異なるものでした。その後、ChatGPTで調べてみたところ、茨城県稲敷郡阿見町の予科練平和記念館に白い零戦の実物大模型があることが分かりました。 知覧まで行った後だったので、「案外近くにあったんだな」と驚きましたが、さっそく阿見町へ向かうことにしました。 予科練平和記念館の敷地に入ると、野外には人間魚雷「回天」の実物大模型が展示されていました。回天は、搭乗員が内部に乗り込んで敵艦に体当たりする特攻兵器です。その大きさを実物大の模型で見ると、兵器としての構造だけでなく、この狭い機体に人間が乗り込んだという事実を強く意識させられます。 回天の近くでは、インドネシアから来た若い人たちの集団に写真を撮ってほしいと頼まれました。写真を撮りながら、「この前、バリ島に行ったよ」などと少し話をしました。日本は戦時中にインドネシアを占領したため、日本人に対して複雑な感情を持っていても不思議ではありません。しかし、彼らは当時の日本の技術に興味があると話していました。 もちろん、短い会話だけで本心まで分かるわけではありません。それでも、戦争に関する施設で、かつて日本軍が進出した国から来た若者たちと、普通に写真を撮り合い、旅行の話ができたことには、不思議な感慨がありました。 阿見町は、かつて海軍航空と深い関係を持った町です。大正時代に霞ヶ浦海軍航空隊が置かれ、1939年には海軍飛行予科練習部が横須賀から移転しました。翌1940年には、予科練教育を専門に行う土浦海軍航空隊が設置され、阿見は予科練教育の中心地となりました。予科練は、若い段階から航空機搭乗員を育てるため、1930年に始まった制度です。全国から試験で選抜された少年たちは、厳しい教育と訓練を受け、やがて多くが戦地へ送られました。 館内の常設展示は、予科練習生の入隊から訓練、日常生活、戦局の悪化、特攻へと、時間の流れに沿って構成されていました。予科練の制服を象徴する「七つボタン」にちなみ、展示も七つのテーマに分けられています。 入隊試験の問題も展示されていました。幾何学や数学など、現在の学校の試験にもありそうな問題が並んでおり、予科練が単に体力のある少年を集めた場所ではなく、航空機を扱うために...

龍門滝:見つからなかった白い零戦と見つけた鹿児島の魅力

鹿児島県姶良市にある龍門滝を訪れました。 今回の鹿児島旅行の一番の目的は、「白い零戦」を見ることでした。事前に調べた情報を頼りに知覧特攻平和会館へ向かいましたが、残念ながら目的としていた白い零戦は展示されていませんでした。 しかし、旅行計画を立てた段階から、知覧特攻平和会館だけでなく、知覧や指宿周辺の名所も巡るつもりでした。公共交通機関だけでは移動が難しい場所が多いため、今回は観光タクシーを貸し切りました。 知覧では特攻隊に関係する戦争遺跡を訪ね、知覧武家屋敷通りでは薩摩の武士たちが暮らした町並みに触れました。その後は釜蓋神社、池田湖、西大山駅、区営鰻温泉、指宿市考古博物館「時遊館COCCO」、幼少の篤姫・於一像と、南薩摩を中心にさまざまな場所を巡りました。 於一像を見たあとは、東京へ戻るため鹿児島空港へ向かいました。高速道路を利用して空港へ向かう途中、最後に立ち寄ったのが龍門滝です。 駐車場に到着した時点では、周囲の山や木々に隠れて滝の姿は見えませんでした。案内に従って少し歩いていくと、山の間から白い水の流れが少しずつ現れました。最初から全景が見えるのではなく、歩みを進めるにつれて滝が姿を現すため、自然の奥に隠された場所へ近づいていくような感覚がありました。 龍門滝は、高さ46メートル、幅43メートルに達する大きな滝です。数字だけを見たときには、縦と横の長さが近いため、正方形に近い形を想像していました。しかし、実際には両側を木々の茂った山に囲まれており、中央を水が勢いよく落ちているため、幅の広さよりも高さが強調され、縦長の滝らしい姿に見えました。 黒っぽい岩肌を何本もの白い水流が滑り落ち、その周囲を濃い緑が囲んでいます。滝を形成している岩盤は、地層に入り込んだマグマが冷えて固まった安山岩で、柱状節理も見られるそうです。現在の美しい景観は、鹿児島の火山活動と長い年月をかけた水の流れによって生み出されたものでもあります。 龍門滝は古くから薩摩の名所として知られ、現在は「日本の滝百選」にも選ばれています。その名前は、かつてこの滝を見た唐人が「漢土の龍門瀑を見るが如し」と称賛したことに由来すると伝えられています。遠い中国の名瀑にたとえられるほど、昔の人々にとっても印象的な景観だったのでしょう。 今回の旅では、当初の目的だった白い零戦を見ることはできませんでした。しかし、そ...

幼少の篤姫・於一像:今和泉に残る篤姫の幼き日の記憶

鹿児島県指宿市にある「幼少の篤姫・於一像」を訪れました。 今回の旅では、「白いゼロ戦」を求めて知覧特攻平和会館に向かいました。しかし、残念ながら目的としていた白い零戦は展示されていませんでした。もともと知覧特攻平和会館だけでなく、知覧や指宿周辺も観光するつもりで観光タクシーを貸し切っていたため、その後は知覧の戦争遺跡や武家屋敷通り、釜蓋神社、池田湖、西大山駅、区営鰻温泉、指宿市考古博物館などを巡りました。 指宿市考古博物館を見学した後は、東京へ戻るため鹿児島空港へ向かいました。すでにこの日の観光は終わったような気分でしたが、高速道路に入るまで少し時間があったため、運転手さんが篤姫ゆかりの場所へ案内してくれました。 この場所には、江戸時代に今和泉島津家の別邸がありました。今和泉島津家は、薩摩藩主の島津家に連なる一門家の一つです。別邸は初代の島津忠郷によって宝暦4年(1754年)に建てられ、現在の今和泉小学校の敷地に当たります。建物は残っていませんが、周辺には当時の石垣や松林があり、校庭には井戸や手水鉢なども残されています。 ただし、現在は小学校の敷地です。学校の安全を考えれば当然のことですが、観光地の史跡のように自由に中へ入り、井戸などを見学することはできませんでした。外から眺めるだけでも、歴史上の人物が過ごした場所が、現在も地域の子どもたちが学ぶ場所として使われていることに不思議なつながりを感じます。 篤姫は天保6年(1835年)、今和泉島津家の島津忠剛の娘として生まれました。後に薩摩藩主の島津斉彬の養女となって篤姫と名乗り、さらに近衛家の養女を経て、安政3年(1856年)に第13代将軍徳川家定の正室となりました。家定の死後は天璋院と称し、幕末から明治へと社会が大きく変化するなかで、徳川家の人々を支えました。 鹿児島湾のほとりには、海を望む場所に幼少期の篤姫を表した於一像が立っていました。この像は平成24年(2012年)に建立されたもので、後に江戸城大奥へ入り、日本史に名を残すことになる篤姫の、少女時代の姿を表しています。 立派な衣装に身を包んだ大奥の女性としてではなく、故郷の海を眺める少女として表現されているため、歴史上の人物というよりも、この土地で育った一人の少女として篤姫を身近に感じられました。於一が実際にどのような思いでこの海を眺めていたのかは分かりませんが...

指宿市考古博物館 時遊館COCCOはしむれ:開聞岳の麓に重なるいくつもの時代

鹿児島県指宿市にある指宿市考古博物館「時遊館COCCOはしむれ」に行きました。 今回の鹿児島旅行では、「白いゼロ戦」を見ることを主な目的として知覧特攻平和会館を訪れました。しかし、残念ながら探していた白いゼロ戦は展示されていませんでした。 もっとも、旅行を計画した段階から、知覧特攻平和会館だけでなく、知覧や指宿周辺の観光地も巡るつもりでした。公共交通機関だけでは移動しにくい場所が多いため、観光タクシーを貸し切り、知覧の戦争遺跡や武家屋敷通り、釜蓋神社、池田湖、西大山駅、区営鰻温泉などを案内していただきました。 区営鰻温泉を出たあと、この日の指宿観光の最後に訪れたのが、時遊館COCCOはしむれでした。 館内で特に印象に残ったのは、開聞岳の噴火と指宿の歴史との関係です。開聞岳は今から約3700年前の縄文時代に誕生し、その後も複数回の噴火を繰り返して形成された火山です。館内には、開聞岳周辺で採取された地層の剝ぎ取り資料がいくつも展示され、火山灰や火山弾なども見ることができました。 噴火は、その時代を生きていた人々にとって、生活の場を奪う深刻な災害だったはずです。しかし、降り積もった火山灰が住居や道具、生活の痕跡を覆ったことで、それらが後世まで残されることにもなりました。人間にとっての災害が、考古学にとっては過去を読み解くための重要な手掛かりになるという、少し複雑な関係を感じました。 この博物館の名前にも使われている橋牟礼川遺跡(はしむれがわいせき)では、開聞岳の火山灰を挟んで、上の地層から弥生土器、下の地層から縄文土器が発見されました。これによって、縄文土器が弥生土器よりも古いことが、日本で初めて地層によって確かめられたそうです。また、平安時代の貞観16年、874年の噴火で埋まった集落跡も発見されており、建物や畑、道などが火山灰の下に残されていました。 知覧や池田湖、西大山駅などから眺めてきた開聞岳は、雲に頂上を隠しながらも、整った形をした美しい山に見えました。しかし、博物館の展示を見ると、その美しい山が、長い歴史の中で周辺の人々の暮らしを何度も変えてきた火山であることが分かります。同じ開聞岳でも、外から眺めるのと、地層や遺跡を通して見るのとでは、かなり印象が異なりました。 動物に関する展示では、旧石器時代の九州にツキノワグマが生息していたことも紹介されていました。現在の...

区営鰻温泉:台風が連れてきた思いがけない湯めぐり

鹿児島県指宿市山川の区営鰻温泉に行きました。 今回の鹿児島旅行では、「白いゼロ戦」を求めて知覧特攻平和会館を訪れました。残念ながら目的の機体は展示されていませんでしたが、旅行計画を立てたときから、知覧や指宿周辺の観光地も巡るつもりで観光タクシーを貸し切っていました。 知覧の戦争遺跡や武家屋敷通り、釜蓋神社、池田湖、西大山駅などを巡ったあと、指宿名物の砂蒸し温泉を体験するため、砂むし会館「砂楽」へ向かいました。 この日は晴れていたものの、開聞岳の頂上付近には厚い雲がかかっていました。釜蓋神社では海の波も強く、大陸方面に来ていた台風の影響が、少しずつ鹿児島にも届いているようでした。 運転手さんによると、砂楽はうちうみ(内海?)にあり比較的波の影響を受けにくい場所にあるため、おそらく営業しているだろうとのことでした。しかし、到着してみると、残念ながら台風の影響で休業していました。 楽しみにしていた砂蒸し温泉に入れなかったのは残念でしたが、自然を相手にする施設では、無理に営業するよりも安全を優先することが大切です。今回は縁がなかったと考え、また指宿を訪れる機会があれば体験したいと思います。 もともと今回の旅行では知覧特攻平和会館が主な目的で、温泉はおまけ程度に考えていました。そのため、「これもおもしろい話のネタになりました」と、運転手さんと笑いながら話していました。 すると運転手さんが、砂蒸し温泉でなくてもよければ、別の温泉を案内できると言ってくれました。そうして予定にはなかった区営鰻温泉を訪れることになりました。 鰻温泉は、鰻池の湖畔にある江戸時代から続く湯治場です。西郷隆盛が好んだ温泉としても知られており、明治7年(1874年)には犬を13匹連れ、約1か月滞在したと伝えられています。昼間は開聞岳周辺へ猟に出かけ、夜になると温泉に入っていたそうです。当時は明治六年政変によって政府を離れ、鹿児島へ戻った直後の時期でした。 温泉には西郷隆盛の肖像画が飾られていました。また、温泉へ続く道のところどころには犬の石像が置かれています。西郷が連れてきた愛犬たちを表したもので、温泉地を案内するように並んでいました。西郷隆盛というと政治家や軍人としての姿が思い浮かびますが、犬を連れて猟をし、温泉で長い時間を過ごしたという話を知ると、歴史上の人物の日常が少し身近に感じられます。 有名な観光...

西大山駅:線路の向こうにそびえる美しい円錐峰

鹿児島県指宿市にある西大山駅に行きました。 今回の鹿児島旅行では、「白いゼロ戦」を求めて知覧特攻平和会館を訪れました。しかし、残念ながら目的としていた白い機体は見つかりませんでした。せっかく知覧まで来たので、知覧や指宿周辺も観光しようと観光タクシーを貸し切っていたので、戦争遺跡や知覧武家屋敷通り、釜蓋神社、池田湖などを巡りました。その後、運転手さんに案内されて西大山駅へ向かいました。 西大山駅は、JR指宿枕崎線にある小さな無人駅です。駅舎はなく、線路の脇に一本のホームが延びているだけの簡素な造りでした。しかし、私たちが到着したときには、いくつかのグループが駅を訪れており、記念写真を撮っていました。 ホームには「JR日本最南端の駅」と記された碑が立っています。西大山駅は1960年、当時の国鉄指宿線が山川駅から西頴娃駅まで延伸された際に開業しました。2003年に沖縄都市モノレールが開業してからは鉄道全体での最南端ではなくなりましたが、現在もJRの駅としては日本最南端に位置しています 運転手さんがここを案内してくれた理由は、最南端の駅だからというだけではありませんでした。もう一つの目的は、これまでとは違う方向から開聞岳を見せることだったそうです。 この日、私は知覧や池田湖など、主に開聞岳の北側から山を眺めてきました。池田湖では山頂付近が雲に隠れていましたが、それでも独立峰らしい堂々とした姿が印象に残っていました。 西大山駅は開聞岳の東側に位置しています。ホーム付近から眺めると、山の裾野が左右に滑らかに広がり、開聞岳が美しい円錐形をしていることがよく分かりました。周囲に同じような高さの山がないため、その姿はいっそう際立っています。西大山駅が、最南端の駅という鉄道上の記録だけでなく、開聞岳を望む場所としても多くの観光客を集めている理由が分かりました。 開聞岳は標高924メートルの火山で、整った円錐形の山容から「薩摩富士」と呼ばれています。この呼び名は知っていましたが、実際にさまざまな方向から山を眺めてみると、富士山になぞらえられたことにも納得できます。見る場所によって多少印象は変わりますが、どこから見ても形の美しい独立峰でした。 簡素な無人駅、最南端を示す碑、一本の線路、そしてその向こうにそびえる開聞岳という風景は、西大山駅ならではのものでした。列車に乗るためではなく、駅と山...

池田湖:湖と山に感じた遠方の台風

鹿児島県指宿市の池田湖に行きました。 今回の知覧・指宿周辺の旅は、「白いゼロ戦」を探して知覧特攻平和会館を訪れたことから始まりました。残念ながら目的の機体には出会えませんでしたが、交通の便があまり良くない地域で、観光タクシーを貸し切っていたので周辺を巡ることにしました。 知覧の戦争遺跡や武家屋敷通りを歩き、海辺の釜蓋神社を参拝したあと、車は指宿方面へ向かいました。そうして案内されたのが、開聞岳を望む景勝地として知られる池田湖です。 池田湖は、およそ5700年前の大規模な火山活動によって地面が陥没して生まれたカルデラ湖です。周囲は約15キロメートル、最も深いところは233メートルあり、九州最大のカルデラ湖とされています。湖底には火山地形も残っており、一見すると静かな湖ですが、その成り立ちは薩摩半島が火山活動によって形づくられてきた歴史を物語っています。 江戸時代の古い記録には池田湖に住む龍神の伝説が残され、現代には謎の巨大生物「イッシー」の目撃談も生まれました。また、湖には大ウナギが生息することでも知られています。深く大きな湖を前にした人々が、昔から水面の下に何か神秘的なものを感じてきたことがうかがえます。 この日の鹿児島は、十分に晴れていて、外を歩くと暑さを感じるほどでした。しかし、大陸の方に台風が来ていたためか、あるいは直前まで雨が降っていたためか、湖の水は少し濁っていました。湖面も穏やかに静まり返っているわけではなく、小さな波が絶えず広がっていました。 ただし、岸に立っていても、身体で感じるほど強い風が吹いているわけではありません。雨が降りそうな空でもなく、頭上には青空が広がっています。それでも、山の周辺には厚い雲が集まり、池田湖の向こうにそびえる開聞岳の上部は雲の中に隠れていました。 晴れているのに山頂が見えず、風をほとんど感じないのに湖面は波立っています。目の前の天候だけを見れば穏やかな夏の日ですが、湖と山の様子には、どこか遠方の台風の影響が現れているようでした。 台風というと、激しい雨や強風を思い浮かべます。しかし、中心から離れた場所でも空気や雲、水面の状態を変え、広い範囲に影響を及ぼします。直接その力を感じることはなくても、普段とは少し違う風景を通して、巨大な気象現象が遠くまでつながっていることを実感しました。 開聞岳の美しい山頂をすべて見ることができな...

釜蓋神社(射楯兵主神社):荒れた海と深紅の社殿

鹿児島県南九州市頴娃町にある釜蓋神社を参拝しました。 今回の鹿児島旅行では、「白いゼロ戦」を求めて知覧特攻平和会館を訪れました。しかし、残念ながら目的としていた白いゼロ戦は展示されていませんでした。 知覧や指宿周辺には公共交通機関だけでは訪れにくい場所も多いため、この日は観光タクシーを貸し切っていました。知覧特攻平和会館や周辺の戦争遺跡、知覧武家屋敷通りなどを巡ったあと、運転手さんの案内で釜蓋神社に向かいました。 釜蓋神社の正式名称は、射楯兵主神社といいます。「いたてつわものぬしじんじゃ」と読む難しい名前で、素盞鳴命などを祭神とする神社です。創建された年代は明らかではありませんが、江戸時代にはすでにこの地で信仰されていました。享保元年に火災で焼失し、その翌年に再建されたことや、天保14年に薩摩藩主の島津斉興が国家鎤護と武運長久を祈願したことも伝えられています。 「釜蓋神社」という通称には、この地方に残る不思議な伝説が関係しています。天智天皇と妃の大宮姫を迎えるため、大量の米を炊いていたところ、強い風によって釜の蓋が吹き飛ばされ、大川の浦に落ちたといいます。土地の人々はその釜蓋を拾い上げ、神としてまつったことから、釜蓋神社と呼ばれるようになったそうです。 運転手さんによると、なでしこジャパンの選手たちが近くで合宿した際に参拝し、その後の活躍によって、勝負運にご利益のある神社として広く知られるようになったそうです。現在では、サッカーに限らず多くのスポーツ選手が訪れる神社になっています。 この日の鹿児島は、ところどころに厚い雲が浮かんでいたものの、暑さを感じるほどよく晴れていました。一方で、大陸方面には台風が来ていたため、釜蓋神社を取り囲む海は激しく荒れていました。 神社は入り江の岩礁に突き出すような場所に鎮座しています。普段はもっと穏やかな海だそうですが、この日は大きな波が次々と押し寄せ、岩にぶつかって白いしぶきを上げていました。海辺の神社らしい美しさよりも、自然の力強さや怖さの方が強く感じられる光景でした。 境内に入ると、濃い赤色の鳥居が目に入りました。一般的な神社で見かける明るい朱色よりも深い色に見え、本殿も白と濃い赤を組み合わせた、よく目立つ色合いでした。 なでしこジャパンの話を聞いた直後だったこともあり、その色使いから、最初はどことなく女性的な印象を受けました。...

知覧武家屋敷通り:小さな庭に広がる薩摩の風景

鹿児島県南九州市にある知覧武家屋敷通りを訪れました。 今回、知覧を訪れた一番の目的は、「白いゼロ戦」を探すことでした。知覧特攻平和会館に展示されているという情報を見て訪れたのですが、残念ながら目的の機体は見つかりませんでした。しかし、知覧や指宿周辺を広く観光するために観光タクシーを貸し切っていたので、平和会館だけでなく、飛行場跡に残る戦争遺跡なども巡りました。その後、戦争の記憶が残る場所から少し時代をさかのぼり、江戸時代の面影を残す知覧武家屋敷通りへ向かいました。 江戸時代の薩摩藩では、武士を鹿児島城下だけに集めず、領内各地に「外城」と呼ばれる行政・軍事拠点を置きました。その中心には「麓」と呼ばれる武家集落が形成され、知覧もその一つとして発展しました。現在の武家屋敷群は江戸時代中期に形づくられたとされ、石垣や生垣、武家門が続く町並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。また、地区内の七つの庭園は国の名勝に指定されています。 通りに入って最初に印象に残ったのは、各屋敷の前に続く石垣と生垣でした。石を積み上げた塀の上に木々が隙間なく植えられ、その緑が通りの両側に連なっています。その姿は、どことなく沖縄で見た石垣や屋敷囲いにも似ているように感じました。後で調べると、知覧の庭園や町並みには琉球の庭園と共通する手法が見られ、石垣と大きく刈り込まれた植え込みには琉球や中国の影響があるともいわれています。沖縄に似ていると感じたのも、まったく的外れではなかったようです。 観光タクシーの運転手さんによると、生垣は単なる装飾ではなく、防御の役割も持っていたそうです。硬い石塀だけであれば足場にして乗り越えられる可能性がありますが、枝葉が重なった生垣では、人が乗ると沈み込んだり崩れたりします。また、屋敷側からは枝の隙間を利用して外の様子をうかがい、必要なら攻撃することもできたと説明してもらいました。 屋敷ごとに門の形も異なっていました。屋根が一段だけの門と、下にも小さな屋根を備えた二段構えのような門があり、運転手さんによれば、立派な構えの門を持つ家ほど格式が高かったそうです。見た目の美しさだけでなく、門の造りからも家の立場や家格が表されていたのでしょう。 門をくぐった正面には、石で造られた目隠しが設けられている屋敷もありました。これは「屏風岩」などと呼ばれ、通りから屋敷の内...