スキップしてメイン コンテンツに移動

幼少の篤姫・於一像:今和泉に残る篤姫の幼き日の記憶

鹿児島県指宿市にある「幼少の篤姫・於一像」を訪れました。

今回の旅では、「白いゼロ戦」を求めて知覧特攻平和会館に向かいました。しかし、残念ながら目的としていた白い零戦は展示されていませんでした。もともと知覧特攻平和会館だけでなく、知覧や指宿周辺も観光するつもりで観光タクシーを貸し切っていたため、その後は知覧の戦争遺跡や武家屋敷通り、釜蓋神社、池田湖、西大山駅、区営鰻温泉、指宿市考古博物館などを巡りました。

指宿市考古博物館を見学した後は、東京へ戻るため鹿児島空港へ向かいました。すでにこの日の観光は終わったような気分でしたが、高速道路に入るまで少し時間があったため、運転手さんが篤姫ゆかりの場所へ案内してくれました。

この場所には、江戸時代に今和泉島津家の別邸がありました。今和泉島津家は、薩摩藩主の島津家に連なる一門家の一つです。別邸は初代の島津忠郷によって宝暦4年(1754年)に建てられ、現在の今和泉小学校の敷地に当たります。建物は残っていませんが、周辺には当時の石垣や松林があり、校庭には井戸や手水鉢なども残されています。

ただし、現在は小学校の敷地です。学校の安全を考えれば当然のことですが、観光地の史跡のように自由に中へ入り、井戸などを見学することはできませんでした。外から眺めるだけでも、歴史上の人物が過ごした場所が、現在も地域の子どもたちが学ぶ場所として使われていることに不思議なつながりを感じます。

篤姫は天保6年(1835年)、今和泉島津家の島津忠剛の娘として生まれました。後に薩摩藩主の島津斉彬の養女となって篤姫と名乗り、さらに近衛家の養女を経て、安政3年(1856年)に第13代将軍徳川家定の正室となりました。家定の死後は天璋院と称し、幕末から明治へと社会が大きく変化するなかで、徳川家の人々を支えました。

鹿児島湾のほとりには、海を望む場所に幼少期の篤姫を表した於一像が立っていました。この像は平成24年(2012年)に建立されたもので、後に江戸城大奥へ入り、日本史に名を残すことになる篤姫の、少女時代の姿を表しています。

立派な衣装に身を包んだ大奥の女性としてではなく、故郷の海を眺める少女として表現されているため、歴史上の人物というよりも、この土地で育った一人の少女として篤姫を身近に感じられました。於一が実際にどのような思いでこの海を眺めていたのかは分かりませんが、目の前に広がる鹿児島湾の風景は、江戸へ向かった後も故郷の記憶として残っていたのではないかと想像します。

当初の目的だった白い零戦には出会えませんでしたが、知覧から指宿までさまざまな場所を巡り、戦争の記憶、武家の暮らし、火山がつくった土地、温泉、そして幕末の歴史に触れることができました。旅の最後に予定していなかった於一像へ立ち寄ったことで、この日の観光が静かに締めくくられたように感じました。

この後は高速道路に入り、鹿児島空港へ向かいました。しかし、空港へ到着する少し前に、運転手さんがもう一か所案内してくれました。今回の鹿児島旅行は、まだもう少し続きます。

旅程

羽田空港(HND)

↓(飛行機)

鹿児島空港(KOJ)

↓(観光タクシー)

知覧特攻平和会館

↓(徒歩)

ミュージアム知覧

↓(徒歩/観光タクシー)

旧知覧飛行場油脂庫 / 弾薬庫 / 知覧飛行場正門跡 / 給水塔 / 防火水槽 / 特攻機発進の地碑 / 指揮所跡 / 三角兵舎跡 / 掩体壕 / 山砲砲座跡

↓(観光タクシー)

ホタル館 富屋食堂

↓(観光タクシー)

知覧武家屋敷通り

↓(観光タクシー)

釜蓋神社(射楯兵主神社)

↓(観光タクシー)

池田湖

↓(観光タクシー)

西大山駅

↓(観光タクシー)

区営鰻温泉

↓(観光タクシー)

指宿市考古博物館 時遊館COCCOはしむれ

↓(観光タクシー)

幼少の篤姫・於一像

↓(観光タクシー)

龍門滝

↓(観光タクシー)

鹿児島空港(KOJ)

地域の名物

  • かるかん
  • 豚骨料理

リンク

コメント

このブログの人気の投稿

斎宮歴史博物館:柵列の間をくぐり抜け、古代国家の祈りに触れる、祈りの都が農村へ変わるまで

斎宮跡を歩いたあと、その流れのまま斎宮歴史博物館へ向かいました。駅前から感じていた木造風の意匠や、整えられた景観の延長線上に、この博物館の落ち着いた佇まいがあり、ここでようやく「斎宮」という言葉が指す世界の輪郭を、資料と展示で掴めそうだと思いました。斎宮は史跡としては広々としていて、当時の建物がそのまま立ち上がっているわけではありません。その分、見学者の頭の中で想像を補う余地が大きいのですが、博物館はその空白を、根拠と手触りのある情報で丁寧に埋めてくれる場所でした。 ちょうど特別展「天地(あめつち)の神を祈りて-伊勢神宮、そして斎宮-」が開催されており、展示室に入ると、ここが古代から信仰の重要な舞台だったことを、古墳時代の出土品などの実物資料を通して実感できました。伊勢神宮が成立していく過程、そこに斎宮・斎王という制度が結びついていく必然性が、単なる言葉の説明ではなく「この土地から出てきたもの」と一緒に語られるので、歴史がふわっとした神話のように遠ざからず、現実の地層の上に積み上がった出来事として迫ってきます。斎宮跡を先に見ていたからこそ、「あの広い区画が、ただの空き地ではなく、国家的な祈りを担う装置だったのだ」という感覚が、じわじわと身体に染みてきました。 特別展のあとに常設展を見ていくと、展示室が二つに分かれている構成が分かりやすく、斎宮という存在を別々の角度から立体的に捉えられるようになっていました。展示室1のテーマは「文字からわかる斎宮」です。延喜式のレプリカが示す制度としての斎宮、そして源氏物語、栄華物語、大和物語といった文学作品の中に現れる斎宮や斎王の姿が並ぶと、斎王がただの宗教的存在ではなく、宮廷文化の文脈の中でも強く意識された存在だったことが見えてきます。文学の中の斎王は、歴史の事実だけでは捉えきれない感情や視線をまとっていて、制度の説明とは違う温度で当時の人々の心情を想像させます。 さらに、文字が書かれた土器や印といった資料も展示されていて、「斎宮は祈りの場」という一言では片づかない、運用のための事務や情報のやりとりが確かにあったことが伝わってきました。展示の中には、武官や男女の子どもの等身大人形と当時の衣装があり、そこに復元された葱華輦(そうかれん)や斎王の居室の再現も続きます。文字資料を中心とする展示室1なのに、こうした視覚的・空間的な復元がし...

新島旧邸:京都の町なかで思いがけず出会った特別公開

京都文化博物館に行くために京都市に来たこの日、私は開館までの時間を使って京都御苑を歩いていました。ところが、京都御苑は思っていた以上に見どころが多く、閑院宮邸跡や京都御所、桂宮邸跡などを見て回っているうちに、気づけばかなりの時間が過ぎていました。少し急ぎ足で京都文化博物館へ向かっていた途中、ふと目に入ったのが「新島旧邸 特別公開中」という文字でした。その瞬間、「あの新島だろうか」と思って案内を見ると、やはり同志社の創立者として知られる新島襄の旧邸でした。まったく予定していなかった立ち寄りでしたが、こうした思いがけない出会いも旅の大きな魅力です。入り口のスタッフの方に尋ねると、毎週土曜日は特別公開の日で、建物の内部も見学できるとのことでした。ここまで予定以上に時間を使ってしまっていましたが、せっかくの機会なので見学することにしました。 新島襄は、明治時代の日本において近代的な教育の実現を目指した人物として知られています。海外で学び、キリスト教や欧米の教育思想に触れた新島襄は、帰国後に京都で同志社英学校を創立し、日本の新しい教育のあり方を切り開こうとしました。その新島襄が暮らした旧邸が、京都の町なかに今も残されていること自体、とても貴重なことだと思います。しかも、この建物は単なる住まいではなく、新しい時代の思想や暮らし方を映し出す場でもあったのでしょう。明治という、和と洋、伝統と近代が激しく交差した時代の空気を、建物そのものから感じ取ることができるように思えました。 最初に見た日本風の附属屋は、落ち着いた雰囲気の建物でした。展示品もありましたが、同志社社史資料センター所蔵資料のレプリカが中心だったようで、いつか訪れてみたいと思っていた資料センターの予習のような時間にもなりました。この附属屋は新島襄の両親のために建てられたものだそうで、そのことを知ると建物の見え方も変わってきます。新しい時代の教育を志し、西洋の知識を積極的に取り入れた新島襄ですが、その一方で家族を大切にし、日本的な暮らしの空間もきちんと用意していたことが伝わってきます。近代化というと、何かを一方的に捨てて新しいものに入れ替えるような印象を持ちがちですが、実際にはこうして古いものと新しいものを併せ持ちながら進んでいったのだろうと感じました。 続いて見学した母屋は洋風の造りで、附属屋とはまた違った魅力がありま...

寺田倉庫G1ビル:NAKED meets ガウディ展:“作品鑑賞”ではなく“思考体験”としてのガウディ

東京都品川区の寺田倉庫G1ビルで開催された「NAKED meets ガウディ展」に行きました。2月11日の午後に一度訪れたときは、想像以上の人気で入場が3時間待ちになってしまい、その日は予定を変更して引き返しました。せっかくなので仕切り直し、別の日の朝10時少し前に再訪すると、この時間でもすでに人が多く、入口を抜けた先のエレベーター前でしばらく待つことになりました。展覧会が始まる前から熱量が伝わってきて、「ガウディは“作品”というより“体験”として見られているのかもしれない」と思いながら列に並びました。 会場に入ると、まずガウディの生涯が簡潔に紹介されます。19世紀後半から20世紀初頭のバルセロナは、産業の発展とともに都市が急速に膨張し、同時にカタルーニャ独自の文化が芸術へと結晶していった時代でした。いわゆるモデルニスモ(カタルーニャ・モダニズム)の潮流の中で、ガウディは歴史主義や装飾の流行に回収されない、自然の秩序そのものを建築へ翻訳するような道を選びます。その入口として、この展覧会は「自然から得た造形美」を前面に出していました。 印象的だったのは、自然物と建築部位を並べて見せる導入です。「小麦」とサグラダ・ファミリア上部の塔、「にんにく」とカサ・バトリョの換気塔、「糸杉の円錐」とベリュスグアルドの塔、「キノコ」とグエル公園の煙突、「樹の柱」とサグラダ・ファミリア内部の柱、「ハチの巣」とカサ・カルベットの覗き穴といった対応関係が、説明とレプリカ展示で示されていました。ここで面白いのは、自然を“模倣”するというより、自然の形が生まれる理屈や強度のあり方を“借りている”ように感じられる点です。曲線は気まぐれな装飾ではなく、重さを受け流し、光を導き、空間を育てるための構造そのものなのだと、最初のコーナーだけでも伝わってきました。 次のコーナーでは、バルセロナ来訪後のガウディの作品が、少し変わった見せ方で並びます。壁面にエル・カプリチョ、カサ・ビセンス、グエル邸、アストルガ司教館、カサ・ボティネスなどのファサードが立体的に配置され、そこにプロジェクションマッピングのような映像が流れていました。建物を単体で鑑賞するというより、街の中で呼吸し、時間とともに表情を変える“都市の一部”として体感させる構成で、バルセロナの通りを歩きながら次々に建築に出会う感覚がうまく再現されている...