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元興寺:飛鳥から奈良へ、古代の記憶を残す寺を歩く

奈良県奈良市の元興寺に行きました。 この日は奈良国立博物館の特別展「南都仏画」を見るために奈良を訪れていました。奈良国立博物館は遅い時間まで開館していたため、先に周辺の寺社や文化施設を巡ることにし、最初に向かったのが元興寺です。 普段Google Mapで、行ってみたい場所や実際に訪れた場所に印をつけています。その中でも特に優先して行きたい場所には❤をつけているのですが、奈良を調べていると元興寺にも❤がついていることに気がつきました。 ところが、なぜ元興寺を優先していたのか、まったく記憶がありませんでした。読み方も最初は「げんこうじ」だと思っていたほどです。調べている途中で「がんごうじ」と読むことを知り、さらに世界文化遺産「古都奈良の文化財」の構成資産の一つであることが分かりました。世界遺産には基本的に❤をつけているので、どうやらそれが理由だったようです。 元興寺の歴史は非常に古く、その前身は蘇我馬子によって飛鳥に建立された法興寺、現在の飛鳥寺です。法興寺は588年に建立が始まった日本最初期の本格的な仏教寺院で、平城京への遷都にともなって奈良へ移され、元興寺となりました。奈良時代には南都七大寺の一つに数えられる大寺院でしたが、平安時代以降しだいに衰退し、かつての広大な伽藍の大部分は失われていきました。現在の元興寺は、その巨大な寺院のうち僧坊があった一角を中心に残ったものです。 世界遺産ということで多くの観光客がいるのかと思っていましたが、午前中だったこともあってか境内にはほとんど人がいませんでした。東大寺や春日大社とはかなり雰囲気が違い、静かな境内をゆっくり歩くことができました。 受付を済ませて東門を通ると、正面に本堂である極楽堂が見えてきます。境内には五重塔のような巨大で華やかな建造物はなく、全体として落ち着いた印象です。しかし、それには元興寺がたどった歴史が関係しています。 現在の極楽堂は、もともと奈良時代の僧坊だった建物の一部を鎌倉時代に改築したものです。現在の建物は1244年のもので、国宝に指定されています。かつて大伽藍を誇った元興寺そのものではなく、衰退していく中で残った僧坊が後世の信仰の中心となり、それが現在まで伝えられているわけです。 極楽堂の中には仏像や曼荼羅が安置されていました。元興寺では奈良時代の僧・智光が感得したと伝わる浄土曼荼羅への信仰が広が...

ニュースパーク:企画展「1945新聞裏面史」:新聞の裏面から見えた、戦争と人々の暮らし

神奈川県横浜市にあるニュースパーク(日本新聞博物館)に行きました。 この日は朝から横浜美術館を訪れ、「マリー・アントワネット・スタイル」展とコレクション展を見ていました。その後も横浜市内を歩く予定でしたが、かなり強い雨が降っていたため、駅から直接行くことのできる横浜都市発展記念館へ向かいました。いくつかの博物館を見学したあと、同じ日本大通り周辺にあるニュースパークにも立ち寄りました。 ニュースパークは、日本新聞協会が運営する新聞と情報の博物館です。日刊新聞発祥の地である横浜に2000年に開館し、日本の新聞の歴史だけでなく、現代の情報社会やジャーナリズムについても学べる施設となっています。 この日は、企画展「1945 新聞裏面史」が開催されていたため、まず企画展示室から見ていきました。 この展覧会で取り上げられているのは、終戦の年である1945年の新聞です。当時は新聞用紙の供給事情が悪化し、新聞は表裏2ページ程度にまで縮小していました。1面には戦況や政治などの大きなニュースが掲載される一方、2面には食料、医療、郵便、教育など、人々の日常生活に直接関係する記事が掲載されていました。企画展では、その「裏面」に注目することで、戦争という大きな歴史の陰にあった人々の暮らしを見ていきます。 第1章は「戦時の裏面① 衣食住/交通・旅客」です。 食料の配給が続くなか、少しでも食料を確保するため、玉蜀黍(トウモロコシ)や甘藷(サツマイモ)、大豆、野草などを利用する方法が新聞で紹介されていました。 特に印象に残ったのが、トウモロコシを紹介する記事です。現在では普通に食べている食材ですが、記事が「食べにくいもの……」というような書き出しになっていました。現在とは品種や調理法も違ったでしょうし、そもそも食糧難のなかで主食を補うために食べるトウモロコシと、現在の甘いトウモロコシでは、かなり印象も違ったのだと思います。同じ食材でも、時代や社会状況によって見え方が変わることを感じました。 さらに「食べられる虫」を紹介する記事もあり、「滋養の王」という強い言葉とともに、カミキリムシやカブトムシなどの絵が掲載されていました。昆虫食そのものは日本各地に昔から存在しましたが、それが新聞で食糧難への対応策として紹介されているところに、戦時下の厳しい食料事情が表れていました。 第2章は「戦時の裏面② 教育・...

横浜ユーラシア文化館:西アジアから東アジアへ、遺物でたどる文化の道

神奈川県横浜市の横浜ユーラシア文化館に行きました。 この日は横浜美術館で「マリー・アントワネット・スタイル」展とコレクション展を見たあと、雨が降っていたため、日本大通り駅とつながっている横浜都市発展記念館へ向かいました。横浜ユーラシア文化館は横浜都市発展記念館と同じ建物にあり、横浜都市発展記念館の特別展のチケットで、こちらの常設展も見ることができました。 横浜ユーラシア文化館は、東洋学者の江上波夫が横浜市に寄贈した考古・歴史・美術・民族資料などをもとに、2003年に開館した博物館です。現在の常設展示は、単純に国や時代ごとに分けるのではなく、「砂漠と草原」「色と形」「技」「装う」「伝える」といったテーマから、ヨーロッパとアジアを一続きの「ユーラシア」として眺められるようになっています。東西の文化が人や物の移動によって影響し合ってきたことを意識した展示になっているのも、この博物館の特徴です。 この日は美術館や博物館をいくつか回りましたが、考古学が好きなこともあり、素直にここが一番楽しめました。入口付近にはモンゴルの衣装や寝具、家具などが展示されており、考古資料だけではなく、現在まで続くユーラシア各地の生活文化にも触れられます。展示室に入った段階で、これからどのような資料を見ることができるのかと興味が高まりました。 特に印象に残ったのが、小さな「動物形護符」です。羊や牛、鳥、犬などをかたどったもので、石や貝などで作られた小さな動物には穴があり、ひもを通して身につける護符だったと考えられているそうです。日本の縄文時代にもイノシシなどを表現した土製品がありますが、羊が並んでいるところには、日本とは異なるユーラシアの自然や牧畜文化を感じました。 展示品の年代にも驚かされました。紀元前3千年紀や紀元前2千年紀という資料が並び、紀元前2千年紀の段階ですでに「中期青銅器時代」と説明されているものもあります。日本ではまだ縄文時代にあたる頃、西アジアではすでに青銅器を用いる社会が成立し、都市や交易の歴史が展開していました。同じ年代でも地域によって考古学上の時代区分が大きく異なることを、実物を前にすると改めて実感します。 紀元前2千年紀のイラクで使われた「移動式羊頭付竈」も面白い資料でした。竈には三つの羊の頭が付いているのですが、写実的というより曲線を使った柔らかな造形で、どこかかわいらし...

横浜都市発展記念館:特別展「絵図で旅する幕末の横浜」:絵図でたどる、小さな横浜村から近代都市への変貌

神奈川県横浜市の横浜都市発展記念館に行きました。 この日は横浜美術館で「マリー・アントワネット・スタイル」展とコレクション展を見た後、横浜都市発展記念館へ向かいました。雨が降っていたため、みなとみらい周辺から日本大通りへ移動し、駅からほとんど雨に濡れずに入れる施設を選びました。 横浜都市発展記念館は横浜ユーラシア文化館と同じ建物に入っています。今回は特別展のチケットで、横浜都市発展記念館と横浜ユーラシア文化館の常設展も見ることができました。 まず見たのは、横浜都市発展記念館の特別展「絵図で旅する幕末の横浜」です。 現在の横浜といえば、高層ビルが立ち並ぶ大都市であり、日本を代表する港町という印象があります。しかし展示を見て最初に驚いたのは、現在の横浜中心部が、江戸時代にはまったく違った姿をしていたことでした。 17世紀後半の様子を描いた「吉田新田開墾前図」では、現在の市街地にあたる場所の多くが大きな入り江となっており、横浜村はその海に突き出した小さな半島のような場所にありました。 伊能忠敬による「大日本沿海輿地全図」を見ても、「横濱村」という名前は狭い場所に小さく記されているだけです。当時、この地域で重要だったのは東海道の宿場町である神奈川宿であり、横浜村はその周辺にある小さな村の一つにすぎませんでした。 その状況を大きく変えるきっかけとなったのが、幕末の外国船来航です。 ペリーが来航すると、幕府や諸藩は沿岸警備を強化し、そのためにさまざまな絵図が作られました。地図は単に場所を記録するものではなく、どこを守るのか、外国船がどこに停泊しているのかを把握するための重要な情報でもありました。 さらに日米修好通商条約によって神奈川の開港が定められると、実際の開港場は東海道の神奈川宿ではなく、その対岸に近い横浜に設けられました。そして1859年に横浜港が開港すると、それまで小さな村だった横浜は外国との貿易を担う町へと急速に姿を変えていきます。 開港後には外国人居留地が設けられ、国内外から商人をはじめ多くの人々が集まりました。それに伴って、町や周辺地域を記録した地図も増えていきます。 展示されている絵図を見ると、沿岸警備だけでなく、外国人の遊歩区域や狩猟、商業、観光など、さまざまな目的で地図が作られていたことが分かりました。町が複雑になるほど、そこを把握するための地図も必要になっ...

横浜美術館:コレクション展「海をこえてゆく彼女」:日本と西洋が交差する女性画家たちの航路

神奈川県横浜市の横浜美術館に行きました。 この日は「マリー・アントワネット・スタイル」展を見るために朝から横浜美術館を訪れました。企画展を見終えた後は、そのままコレクション展へ向かいました。 今回のコレクション展では、「海をこえてゆく彼女」というテーマで、国境を越えて活動した女性画家や美術家たちが紹介されていました。 最初の「家族とともに」では、明治時代から海外の文化と接した日本の女性画家たちが取り上げられていました。 渡辺幽香は、洋画家の五姓田芳柳を父に、五姓田義松を兄に持つ画家です。明治時代は西洋の技術や文化が急速に日本へ入ってきた時代で、美術の世界でも、それまでの日本画とは異なる西洋の写実表現が学ばれるようになりました。 展示されていた《白衣婦人像(仮題)》も、最初に見たときは普通の西洋画の人物像のように思えました。ドレスを着た女性が細かいところまで写実的に描かれています。 ところが、この作品は油絵ではなく、絹に描かれた作品でした。展示では額に入っていたので気付きませんでしたが、日本画の材料を使いながら西洋風の女性像を描いていることになります。西洋の技法を学び始めた明治時代らしい、日本と西洋の境界にあるような作品なのが面白いところでした。 岡村政子は石版画家として活動した女性で、石版印刷会社の信陽堂を開業しています。《おかる》など、和服姿の女性を描いた作品が展示されていました。 現在では画家が自分で作品を制作することは当たり前に思えますが、明治時代の女性が職業として美術に関わること自体、現在とはかなり状況が違っていたはずです。さらに印刷会社まで経営していたという経歴を見ると、単に「女性画家」というだけでは収まらない人物だったことが分かります。 吉田ふじをは海外にも渡り、《パリ シャンゼリゼ》などの作品を残しています。 現在なら海外旅行で観光地を訪れ、気に入った風景を描くことも珍しくありませんが、明治時代に日本からヨーロッパへ渡ることは、今とは比較にならないほど大きな出来事だったはずです。描かれているパリの風景そのものだけではなく、日本人女性が海を越えてその場所に立っていたということまで考えると、今回の「海をこえてゆく彼女」というテーマがよく分かりました。 続く「交差するまなざし」では、今度は反対に、海外から日本やアジアへやって来た女性画家たちが紹介されていまし...