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ニュースパーク:企画展「1945新聞裏面史」:新聞の裏面から見えた、戦争と人々の暮らし

神奈川県横浜市にあるニュースパーク(日本新聞博物館)に行きました。

この日は朝から横浜美術館を訪れ、「マリー・アントワネット・スタイル」展とコレクション展を見ていました。その後も横浜市内を歩く予定でしたが、かなり強い雨が降っていたため、駅から直接行くことのできる横浜都市発展記念館へ向かいました。いくつかの博物館を見学したあと、同じ日本大通り周辺にあるニュースパークにも立ち寄りました。

ニュースパークは、日本新聞協会が運営する新聞と情報の博物館です。日刊新聞発祥の地である横浜に2000年に開館し、日本の新聞の歴史だけでなく、現代の情報社会やジャーナリズムについても学べる施設となっています。

この日は、企画展「1945 新聞裏面史」が開催されていたため、まず企画展示室から見ていきました。

この展覧会で取り上げられているのは、終戦の年である1945年の新聞です。当時は新聞用紙の供給事情が悪化し、新聞は表裏2ページ程度にまで縮小していました。1面には戦況や政治などの大きなニュースが掲載される一方、2面には食料、医療、郵便、教育など、人々の日常生活に直接関係する記事が掲載されていました。企画展では、その「裏面」に注目することで、戦争という大きな歴史の陰にあった人々の暮らしを見ていきます。


第1章は「戦時の裏面① 衣食住/交通・旅客」です。

食料の配給が続くなか、少しでも食料を確保するため、玉蜀黍(トウモロコシ)や甘藷(サツマイモ)、大豆、野草などを利用する方法が新聞で紹介されていました。

特に印象に残ったのが、トウモロコシを紹介する記事です。現在では普通に食べている食材ですが、記事が「食べにくいもの……」というような書き出しになっていました。現在とは品種や調理法も違ったでしょうし、そもそも食糧難のなかで主食を補うために食べるトウモロコシと、現在の甘いトウモロコシでは、かなり印象も違ったのだと思います。同じ食材でも、時代や社会状況によって見え方が変わることを感じました。

さらに「食べられる虫」を紹介する記事もあり、「滋養の王」という強い言葉とともに、カミキリムシやカブトムシなどの絵が掲載されていました。昆虫食そのものは日本各地に昔から存在しましたが、それが新聞で食糧難への対応策として紹介されているところに、戦時下の厳しい食料事情が表れていました。


第2章は「戦時の裏面② 教育・医療/備える/女性」です。

「歯科医を医師に」という見出しの記事がありました。戦争が長期化するなかで、医療従事者を確保する必要に迫られていたことが分かります。

一方、「学術探究魂焼けず」という記事では、大学の再建について取り上げられていました。戦時中というと、社会のすべてが戦争だけに向かっていたような印象を持ちがちですが、教育や研究を維持しようとする動きも当然存在していました。新聞の裏面を見ていくと、教科書で見る戦争の歴史とは少し違う、社会の日常的な部分が見えてきます。

その一方で、「来るべき日に備へよう」という記事では、手りゅう弾の投げ方まで説明されていました。「投げ方が早いと危険」といった具体的な注意も記されています。一般市民の日常生活と戦闘との境界が、次第になくなっていった時代だったことを実感させられる記事でした。


第3章は「戦時の裏面③ 情報・通信とメディア/言論統制と始末書」です。

「郵便は何故遅れるか」という記事には、「量は増える一方 捌き切れぬ手不足」といった内容が書かれていました。現在であればインターネットや携帯電話がありますが、当時、離れた人同士が日常的に連絡を取るうえで郵便は非常に重要な通信手段でした。その郵便が人手不足によって滞り、勤務時間を延長して対応していたことからも、戦争が社会の基盤にまで影響を及ぼしていたことが分かります。

さらに「気象状況など書けぬ」という記事もありました。手紙に天候などを書くことで軍事情報が漏れる可能性があるとして、取り締まりの対象になっていたそうです。何気ない日常会話のような内容まで軍事機密と結びつけられてしまうところに、戦時下の情報統制の厳しさを感じました。

興味深かったのが、「ドイツの敗戦に学ぶ」という記事です。

そこには「見事な統制力」などと評価する記述がある一方、「敗因は戦力過信」といった分析も書かれていました。同盟国ドイツがすでに降伏した状況で、その敗北を冷静に分析しようとする記事が存在していたことが印象に残りました。戦時中の新聞というと精神論一辺倒のような印象を持ちますが、実際の紙面を読んでみると、必ずしもそれだけではありません。


もちろん、当時の新聞が戦争遂行に協力し、戦意高揚の一端を担ったという大きな問題があります。ニュースパーク自身も、戦時下の新聞は真実を伝える使命を果たすことができなかったと位置づけています。

それと同時に、展示されていた大量の「始末書」も印象に残りました。

特に河北新報社に残されていた始末書が多数展示されていました。軍部や警察の検閲に触れた記事について、新聞社が宮城県知事や内務大臣に提出したもので、企画展では14点が紹介されています。

これほど多くの始末書が残っているのを見ると、当時の記者たちが単純に統制に従っていただけではなく、その制約の境界ぎりぎりで何を伝えられるのかを探っていた場面もあったのではないかと想像しました。


第4章は「終戦直後の裏面 爪痕/一転/明らかになる/占領と横浜」です。

ここまで見てきた記事の雰囲気が、終戦を境に急激に変わっていくのが非常に興味深いところでした。

9月3日の紙面には「詔書」が掲載されていました。

「捕虜は犯罪人ではない」という記事では、「迎へよう温い心で」と呼びかけられていました。復員省の見解として掲載されており、それまで敵として教えられてきた人々に対する考え方を変えるよう、政府側からも働きかける必要があったことが分かります。

戦争が終わったからといって、人々の価値観までその日から突然変わるわけではありません。数年間かけて社会全体に浸透してきた考え方を、今度は逆方向へ変えていかなければならない。その難しさが、一つの記事から伝わってきました。

「第二放送も復活」という記事には、戦時中に制限されていたラジオ放送が復活するとともに、「米英物もどしどし採用」と書かれていました。

つい少し前まで敵国だったアメリカやイギリスの文化や娯楽が、再び日本社会へ入ってきます。新聞の裏面を時系列で見ていくだけでも、1945年という一年の間に、日本社会の価値観が大きく転換していく様子がよく分かりました。


この企画展を見て、戦時中の新聞について少し見方が変わりました。

新聞が戦争を支える役割を果たしたことは間違いありません。食料を確保する方法も、医療体制の維持も、防空の方法も、見方を変えればすべて戦争を継続するための情報だったと言えます。

しかし、それだけでは説明できない部分もあります。

食べ物が足りない人に何を食べればよいのかを伝え、郵便がなぜ届かないのかを説明し、教育や医療について知らせる。新聞は厳しい統制下に置かれながらも、人々の日常生活に必要な情報を伝える媒体でもあり続けました。

そして数多く残された始末書を見ていると、制約された環境のなかでも、記者たちは読者の役に立つ情報や、少しでも社会を明るくする情報を伝えようとしていたのではないかと思いました。


企画展を見終えたあと、常設展示へ向かいました。

こちらでは、明治時代以降の日本の新聞の歴史をたどることができます。ペリー来航を伝えたかわら版、大正デモクラシー期の内閣批判、戦時中の言論統制、戦後のスポーツ新聞など、新聞と日本社会との関係が幅広く紹介されていました。新聞の製作に使われたカメラや印刷機などの実物資料も展示されています。常設展では、所蔵する約20万点の資料から新聞の創刊号や新聞製作機材など約200点が紹介されています。


そのなかでも現代に直接つながっていると感じたのが、「情報社会と新聞」の展示でした。

インターネットやSNSによって、私たちが接する情報量は以前とは比較にならないほど増えています。しかし、情報量が増えたからといって、私たちが正しい判断をできるようになったとは限りません。むしろ、大量の情報の中から、誰が発信したのか、根拠は何なのか、事実と意見はどこで分かれているのかを判断する力が、以前よりも必要になっています。

こうした情報リテラシーは子どもへの教育として語られることが多いですが、むしろインターネット以前に学校教育を受け、体系的な情報教育をほとんど受けていない大人こそ、改めて学ぶ必要があるのではないかと思いました。


戦時中の新聞における言論統制を見た直後に、現代の情報社会について考える展示を見るという順番も面白いものでした。

1945年には「情報が自由に出せない」ことが問題でした。それに対して現代では、誰もが情報を発信できる一方で、「情報が多すぎて何を信じればよいのか分からない」という別の問題が生まれています。

時代によって問題の形は正反対に見えますが、結局のところ、情報を誰がどのように伝え、それを受け取る側がどう判断するのかという問題は変わっていないのかもしれません。


一通り見学を終えて帰ろうとすると、幅の広い古い階段が目に入りました。

ニュースパークの入る横浜情報文化センターはすべてが新しい建物というわけではありません。ここには1929年に建設された旧横浜商工奨励館が保存され、2000年に増築された新館と一体化しています。旧横浜商工奨励館は関東大震災後の復興事業の一環として建てられた建物で、正面玄関から中央階段にかけては当時の意匠が残されています。横浜市の認定歴史的建造物にもなっています。

何となく「近代の建物らしい階段だ」と感じたのは、実際に昭和初期の建物の一部だったようです。

外から建物も見てみたかったのですが、この日はかなり強い雨が降っていたため諦めました。日本大通り周辺には歴史的建築や博物館が数多く残っているので、次に来たときには建物そのものもゆっくり見て歩きたいと思います。


朝からフランス宮廷文化を扱った美術展を見て、横浜の歴史やユーラシアの考古資料に触れ、最後には新聞を通して戦争と情報社会について考えることになりました。

分野はまったく異なりますが、それぞれの展示から少しずつ異なる時代や社会の姿を見ることができました。雨の一日ではありましたが、結果的には非常に幅広い内容に触れた充実した一日となりました。

ニュースパークを後にし、東京へ戻りました。

旅程

東京

↓(東京メトロ副都心線/みなとみらい線)

みなとみらい駅

↓(徒歩)

横浜美術館(「マリー・アントワネット・スタイル」展 / コレクション展

↓(徒歩)

みなとみらい駅

↓(みなとみらい線)

日本大通り駅

↓(徒歩)

横浜都市発展記念館

↓(徒歩)

横浜ユーラシア文化館

↓(徒歩)

ニュースパーク

↓(徒歩)

日本大通り駅

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