スキップしてメイン コンテンツに移動

アギオスエレフテリオス教会:アテネの街角に残る小さなビザンティン教会

ギリシャ・アテネを歩いている途中、アギオス・エレフテリオス教会に立ち寄りました。

アテネというと、パルテノン神殿をはじめとする古代ギリシャの遺跡が真っ先に思い浮かびます。しかし街を歩いてみると、古代だけでなく、ビザンティン時代やオスマン帝国時代、近代ギリシャに至るまで、さまざまな時代の建物が混在しています。アギオス・エレフテリオス教会も、そんなアテネの長い歴史を感じさせる建物の一つでした。

教会は驚くほど小さく、白っぽい石を積み上げた外観からも、かなり古い建物であることが伝わってきました。中央には茶色い瓦で覆われた小さなドームがあり、全体としては非常に簡素です。巨大な神殿や華やかな大聖堂とは違い、長い年月を街の片隅で静かに過ごしてきたような印象を受けました。

この教会は「パナギア・ゴルゴエピコオス」とも呼ばれ、さらに「ミクリ・ミトロポリ」、つまり「小さな大聖堂」という名前でも知られています。現在一般的には12世紀末ごろの建築と考えられていますが、創建を直接示す史料が乏しいため、年代については研究者の間でも議論があります。12世紀後半のアテネ大主教で、古典文化にも造詣の深かったミカエル・コニアテスと関係して建てられたという説もあります。

外から眺めただけでも印象的だったのが、壁を構成する石材です。単に中世に切り出された石を積んだ教会ではなく、古代ギリシャ・ローマ時代から初期キリスト教、ビザンティン時代に至る古い建築物の石材や彫刻が大量に再利用されています。このように古い建築物の部材を新しい建物に転用することは「スポリア」と呼ばれます。

教会の上部には約90点もの浮彫が組み込まれているとされ、古代に由来する図像も残っています。一部には後から十字架が刻まれ、異教的な図像をキリスト教の建物の中に取り込もうとした形跡も見られます。

そう考えると、私が「非常に古そうだ」と感じた白い石壁は、教会そのものが古いだけではありませんでした。壁を構成する石の中には、この教会よりさらに何百年、場合によっては千年以上も古いものが含まれていることになります。古代の都市の建材が、中世のキリスト教会の一部となり、それがさらに現代のアテネに残っているというわけです。

建物は典型的なビザンティン建築の一種で、中央部分の上にドームを載せた形式になっています。私が見た茶色い屋根のドームは煉瓦を用いて造られており、それ以外の部分に大量の古い大理石が使われていることも、この教会の特徴です。

「パナギア・ゴルゴエピコオス」という名前のパナギアは聖母マリアを意味し、ゴルゴエピコオスには「すぐに願いを聞き届ける者」といった意味があります。一方、現在よく使われるアギオス・エレフテリオスは聖エレフテリオスに由来します。この場所には古代、出産を守護する女神エイレイテュイアの神殿が存在したという伝承があり、キリスト教でも聖エレフテリオスが妊婦や出産と結びつけられていることから、古代からキリスト教時代への信仰の連続性を感じさせる場所でもあります。

この日は教会の中には入らず、外から眺めただけでした。それでも、小さな建物の壁に古代から中世までの石材が組み込まれ、そのすぐ隣には近代ギリシャを代表する大聖堂が建っているという風景は、アテネらしいものでした。

古代遺跡ばかりに目を向けていると見落としてしまいそうな小さな教会ですが、むしろこうした建物を見ることで、アテネが「古代ギリシャの都市」で終わったのではなく、その後もビザンティン時代、オスマン帝国時代、近代と連続して人々が暮らしてきた都市であることを実感できます。

しばらく白い石造りの小さな教会を眺めたあと、ここを離れ、次は聖カタリナ聖堂へ向かいました。アテネ旧市街には、このような小さなビザンティン教会が今も点在しています。巨大な古代遺跡とはまた違った、街の中に積み重なった歴史を探しながら歩いていきます。

旅程

ホテル

↓(徒歩)

パンタナサ聖堂

↓(徒歩)

Panagía Kapnikaréa Church

↓(徒歩)

ミトロポレオス大聖堂

↓(徒歩)

アギオスエレフテリオス教会

↓(徒歩)

Holy Church of the Holy Trinity(Soteira Lykodemos)

↓(徒歩)

聖カタリナ聖堂

↓(徒歩)

Roman Stoa

↓(徒歩)

リシクラテス記念碑

↓(徒歩)

ハドリアヌスの凱旋門

↓(徒歩)

ゼウス神殿

↓(徒歩)

ザッペイオン/アテネ国立庭園

↓(徒歩)

ギリシャ議会議事堂

↓(徒歩)

パナシナイコスタジアム

↓(徒歩)

プニュクス

↓(徒歩)

アテネ国立天文台

↓(徒歩)

アテナイのアゴラ

↓(徒歩)

リカヴィトスの丘

↓(徒歩/ケーブルカー)

ホテル

地域の名物

  • ムサカ
  • スブラキ
  • ウゾ(ウーゾ)

コメント

このブログの人気の投稿

斎宮歴史博物館:柵列の間をくぐり抜け、古代国家の祈りに触れる、祈りの都が農村へ変わるまで

斎宮跡を歩いたあと、その流れのまま斎宮歴史博物館へ向かいました。駅前から感じていた木造風の意匠や、整えられた景観の延長線上に、この博物館の落ち着いた佇まいがあり、ここでようやく「斎宮」という言葉が指す世界の輪郭を、資料と展示で掴めそうだと思いました。斎宮は史跡としては広々としていて、当時の建物がそのまま立ち上がっているわけではありません。その分、見学者の頭の中で想像を補う余地が大きいのですが、博物館はその空白を、根拠と手触りのある情報で丁寧に埋めてくれる場所でした。 ちょうど特別展「天地(あめつち)の神を祈りて-伊勢神宮、そして斎宮-」が開催されており、展示室に入ると、ここが古代から信仰の重要な舞台だったことを、古墳時代の出土品などの実物資料を通して実感できました。伊勢神宮が成立していく過程、そこに斎宮・斎王という制度が結びついていく必然性が、単なる言葉の説明ではなく「この土地から出てきたもの」と一緒に語られるので、歴史がふわっとした神話のように遠ざからず、現実の地層の上に積み上がった出来事として迫ってきます。斎宮跡を先に見ていたからこそ、「あの広い区画が、ただの空き地ではなく、国家的な祈りを担う装置だったのだ」という感覚が、じわじわと身体に染みてきました。 特別展のあとに常設展を見ていくと、展示室が二つに分かれている構成が分かりやすく、斎宮という存在を別々の角度から立体的に捉えられるようになっていました。展示室1のテーマは「文字からわかる斎宮」です。延喜式のレプリカが示す制度としての斎宮、そして源氏物語、栄華物語、大和物語といった文学作品の中に現れる斎宮や斎王の姿が並ぶと、斎王がただの宗教的存在ではなく、宮廷文化の文脈の中でも強く意識された存在だったことが見えてきます。文学の中の斎王は、歴史の事実だけでは捉えきれない感情や視線をまとっていて、制度の説明とは違う温度で当時の人々の心情を想像させます。 さらに、文字が書かれた土器や印といった資料も展示されていて、「斎宮は祈りの場」という一言では片づかない、運用のための事務や情報のやりとりが確かにあったことが伝わってきました。展示の中には、武官や男女の子どもの等身大人形と当時の衣装があり、そこに復元された葱華輦(そうかれん)や斎王の居室の再現も続きます。文字資料を中心とする展示室1なのに、こうした視覚的・空間的な復元がし...

新島旧邸:京都の町なかで思いがけず出会った特別公開

京都文化博物館に行くために京都市に来たこの日、私は開館までの時間を使って京都御苑を歩いていました。ところが、京都御苑は思っていた以上に見どころが多く、閑院宮邸跡や京都御所、桂宮邸跡などを見て回っているうちに、気づけばかなりの時間が過ぎていました。少し急ぎ足で京都文化博物館へ向かっていた途中、ふと目に入ったのが「新島旧邸 特別公開中」という文字でした。その瞬間、「あの新島だろうか」と思って案内を見ると、やはり同志社の創立者として知られる新島襄の旧邸でした。まったく予定していなかった立ち寄りでしたが、こうした思いがけない出会いも旅の大きな魅力です。入り口のスタッフの方に尋ねると、毎週土曜日は特別公開の日で、建物の内部も見学できるとのことでした。ここまで予定以上に時間を使ってしまっていましたが、せっかくの機会なので見学することにしました。 新島襄は、明治時代の日本において近代的な教育の実現を目指した人物として知られています。海外で学び、キリスト教や欧米の教育思想に触れた新島襄は、帰国後に京都で同志社英学校を創立し、日本の新しい教育のあり方を切り開こうとしました。その新島襄が暮らした旧邸が、京都の町なかに今も残されていること自体、とても貴重なことだと思います。しかも、この建物は単なる住まいではなく、新しい時代の思想や暮らし方を映し出す場でもあったのでしょう。明治という、和と洋、伝統と近代が激しく交差した時代の空気を、建物そのものから感じ取ることができるように思えました。 最初に見た日本風の附属屋は、落ち着いた雰囲気の建物でした。展示品もありましたが、同志社社史資料センター所蔵資料のレプリカが中心だったようで、いつか訪れてみたいと思っていた資料センターの予習のような時間にもなりました。この附属屋は新島襄の両親のために建てられたものだそうで、そのことを知ると建物の見え方も変わってきます。新しい時代の教育を志し、西洋の知識を積極的に取り入れた新島襄ですが、その一方で家族を大切にし、日本的な暮らしの空間もきちんと用意していたことが伝わってきます。近代化というと、何かを一方的に捨てて新しいものに入れ替えるような印象を持ちがちですが、実際にはこうして古いものと新しいものを併せ持ちながら進んでいったのだろうと感じました。 続いて見学した母屋は洋風の造りで、附属屋とはまた違った魅力がありま...

寺田倉庫G1ビル:NAKED meets ガウディ展:“作品鑑賞”ではなく“思考体験”としてのガウディ

東京都品川区の寺田倉庫G1ビルで開催された「NAKED meets ガウディ展」に行きました。2月11日の午後に一度訪れたときは、想像以上の人気で入場が3時間待ちになってしまい、その日は予定を変更して引き返しました。せっかくなので仕切り直し、別の日の朝10時少し前に再訪すると、この時間でもすでに人が多く、入口を抜けた先のエレベーター前でしばらく待つことになりました。展覧会が始まる前から熱量が伝わってきて、「ガウディは“作品”というより“体験”として見られているのかもしれない」と思いながら列に並びました。 会場に入ると、まずガウディの生涯が簡潔に紹介されます。19世紀後半から20世紀初頭のバルセロナは、産業の発展とともに都市が急速に膨張し、同時にカタルーニャ独自の文化が芸術へと結晶していった時代でした。いわゆるモデルニスモ(カタルーニャ・モダニズム)の潮流の中で、ガウディは歴史主義や装飾の流行に回収されない、自然の秩序そのものを建築へ翻訳するような道を選びます。その入口として、この展覧会は「自然から得た造形美」を前面に出していました。 印象的だったのは、自然物と建築部位を並べて見せる導入です。「小麦」とサグラダ・ファミリア上部の塔、「にんにく」とカサ・バトリョの換気塔、「糸杉の円錐」とベリュスグアルドの塔、「キノコ」とグエル公園の煙突、「樹の柱」とサグラダ・ファミリア内部の柱、「ハチの巣」とカサ・カルベットの覗き穴といった対応関係が、説明とレプリカ展示で示されていました。ここで面白いのは、自然を“模倣”するというより、自然の形が生まれる理屈や強度のあり方を“借りている”ように感じられる点です。曲線は気まぐれな装飾ではなく、重さを受け流し、光を導き、空間を育てるための構造そのものなのだと、最初のコーナーだけでも伝わってきました。 次のコーナーでは、バルセロナ来訪後のガウディの作品が、少し変わった見せ方で並びます。壁面にエル・カプリチョ、カサ・ビセンス、グエル邸、アストルガ司教館、カサ・ボティネスなどのファサードが立体的に配置され、そこにプロジェクションマッピングのような映像が流れていました。建物を単体で鑑賞するというより、街の中で呼吸し、時間とともに表情を変える“都市の一部”として体感させる構成で、バルセロナの通りを歩きながら次々に建築に出会う感覚がうまく再現されている...