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熊野本宮大社:熊野の森と巨大な鳥居、二つの聖地を巡る

和歌山県田辺市にある熊野本宮大社を訪れました。

和歌山観光の2日目です。前日は高野山の金剛峯寺周辺を観光し、この日は朝から現地のバスツアーに参加して熊野地方を巡りました。最初の目的地が、熊野三山の一つである熊野本宮大社です。

熊野本宮大社は、熊野速玉大社、熊野那智大社とともに熊野三山を構成する神社です。平安時代には上皇や貴族による熊野詣が盛んになり、宇多法皇以降、歴代の上皇や法皇らが繰り返し熊野を訪れました。やがて熊野信仰は武士や庶民にも広がり、多くの人々が列をなして熊野へ向かう様子は「蟻の熊野詣」と表現されるほどだったそうです。現在は熊野古道などとともに、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成する文化遺産となっています。

境内入口の鳥居まで来ると、その前には八咫烏と波を思わせる模様が描かれた旗が並んでいました。八咫烏は熊野を象徴する存在で、日本神話では神武天皇を導いた鳥として知られています。熊野本宮大社でも「導き」の象徴としてさまざまな場所に姿を見ることができます。

鳥居をくぐると、目の前には長い石段が続いていました。これを上っていくと、古い神社らしい落ち着いた雰囲気の神門が現れます。屋根は一見すると茅葺のようにも見えましたが、熊野本宮大社の社殿は檜の樹皮を重ねた檜皮葺です。白木を基調とした建物と檜皮葺の屋根が、熊野の深い山々によく似合っています。

神門を抜けた先には、証誠殿、中御前、西御前、東御前と社殿が並んでいました。派手な朱色を前面に出した神社とは異なり、木そのものの色を生かした社殿が並んでいるため、全体に静かで古式ゆかしい印象を受けます。

参拝順は証誠殿、中御前、西御前、東御前の順とされており、それぞれ家津美御子大神、速玉大神、夫須美大神、天照大神が祀られています。熊野では古くから神道と仏教が結びつき、熊野の神々を仏の化身と考える熊野権現信仰が発達しました。証誠殿の家津美御子大神は阿弥陀如来、中御前の速玉大神は薬師如来、西御前の夫須美大神は千手観音と対応するとされており、熊野が神社でありながら日本の仏教史とも深く結びついていることが分かります。

一通り参拝したあと、黎明殿にも立ち寄り、長い石段を下ってバスのところへ戻りました。

ツアーでは、この石段の上り下りに時間がかかる人もいることを考慮してか、熊野本宮大社での滞在時間が比較的長く取られていました。ところが私は思ったより早く戻ることができ、かなり時間が余っています。

そこで、少し足を延ばして「大斎原(おおゆのはら)」まで歩いてみることにしました。

現在の熊野本宮大社から大斎原までは徒歩10分ほどです。歩いていくと、田んぼの向こうに突然、巨大な鳥居が姿を現しました。周囲には高い建物がほとんどないため、その大きさがいっそう強調されます。

この大鳥居の先にある大斎原こそ、もともと熊野本宮大社が鎮座していた場所です。

かつての熊野本宮大社は、熊野川などの川が合流する中州にありました。しかし1889年(明治22年)の大水害によって社殿の多くが流失しました。その後、被害を免れた上四社が現在の高台へ移され、中四社と下四社の神々は旧社地である大斎原の石祠に祀られることになりました。つまり現在の熊野本宮大社と大斎原は別々の場所に見えますが、もともとは一つの聖地だったことになります。

大鳥居をくぐって進むと、「世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道 熊野本宮大社 旧社地大斎原」と刻まれた石碑がありました。その先は木々に囲まれた静かな空間になっています。

広場には「熊野坐神社 旧社(大斎原)水害前の絵図」と書かれたパネルもありました。現在は広々とした静かな場所ですが、かつてはここに大規模な社殿群が並んでいたことが分かります。1889年の洪水を知らなければ、現在の熊野本宮大社だけを見て参拝を終えてしまいそうですが、大斎原まで来ることで、現在の姿に至った歴史がようやくつながったように感じました。

奥には小さな石造りの祠がありました。現在地へ移されなかった中四社、下四社の神々は、この旧社地に建てられた石祠に祀られています。

同じ広場には、一遍上人神勅名号碑もありました。

一遍は鎌倉時代の僧で、後に時宗の開祖となった人物です。一遍は熊野本宮に参籠した際、熊野権現から神勅を受けたと伝えられています。この体験は一遍の思想形成に大きな意味を持つものとされ、現在でも熊野本宮大社では毎月23日に大斎原の一遍上人碑の前で月例祭が行われています。神社の旧社地に仏教の僧侶を記念する碑があることも、神と仏が長く共存してきた熊野という土地らしい光景です。

思った以上に大斎原の奥まで歩いてしまったため、そろそろバスの集合時間が気になってきました。巨大な鳥居を再びくぐり、少し急ぎ気味に熊野本宮大社の方向へ戻ります。

ところがバスまで戻ってみると、それでもまだ時間が余っていました。

そこで最後に、近くの和歌山県世界遺産センター南館も見学しました。もともとは石段の上り下りを考えて長めに設定されていた見学時間でしたが、そのおかげで熊野本宮大社だけでなく、旧社地の大斎原まで見ることができました。

熊野本宮大社を訪れるだけでも熊野信仰の長い歴史を感じられますが、大斎原まで歩くと、この場所が明治時代の水害によって大きく姿を変えたことまで実感できます。特に、田んぼの中に巨大な大鳥居が立ち、その先にかつての聖地が静かに残されている光景は印象的でした。

参拝を終えるとバスに戻り、今度は熊野川に沿って下流へ向かいます。

次の目的地は、熊野三山の二つ目となる熊野速玉大社です。

旅程

ホテル

↓(徒歩)

紀伊勝浦駅

↓(バス)

熊野本宮大社

↓(バス)

瀞峡めぐりの里熊野川(志古)

↓(バス)

熊野速玉大社

↓(バス)

熊野古道 大門坂

↓(バス)

那智の滝

↓(バス)

熊野那智大社/那智山

↓(徒歩)

青岸渡寺

↓(バス)

紀伊勝浦駅

地域の名物

  • 那智の黒飴
  • まぐろ
  • 串本節
  • めはり寿司

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