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斑鳩文化財センター / 藤ノ木古墳:一つの石棺、二人の眠り、いくつもの謎

奈良県生駒郡斑鳩町の斑鳩文化財センターに行きました。

この日は、「法隆寺みらいプロジェクト」の収蔵庫改修を支援するクラウドファンディングに参加したことから、支援者限定の収蔵庫公開のために法隆寺を訪れていました。収蔵庫や境内を見学したあと、近くにある藤ノ木古墳について学ぼうと、斑鳩文化財センターへ向かいました。

藤ノ木古墳を今回の訪問先に加えたのは、法隆寺周辺の見どころをAIに調べてもらったことがきっかけです。そのときは、初めて知った古墳のつもりでした。ところが、このあと訪れた橿原考古学研究所附属博物館で、実は5月にも藤ノ木古墳の出土品の修復に関する特別展示を見ていたことに気がつきました。

博物館を巡っていると、さまざまな古墳の出土品に出会います。鏡や刀剣、土器など、同じ種類のものも多いため、見た記憶はあっても、それがどの古墳から出土したのかまでは、なかなか結びつきません。今回は、展示室で見ていた品々と、実際にそれらが眠っていた場所とが、ようやくつながる訪問になりました。

一つの石棺に眠っていた二人

藤ノ木古墳は、6世紀後半に築かれた、直径約50メートル、高さ約9メートルの円墳です。法隆寺の西側に位置し、1985年に始まった発掘調査によって、その内部の様子が明らかになっていきました。

大きな特徴は、盗掘を受けていない状態で、多くの副葬品が残されていたことです。さらに、1988年の調査では、石棺の中に二人の被葬者が確認されました。石室に二つの棺が置かれていたのではなく、一つの石棺に二人が葬られていたという点が印象に残りました。

これほど豪華な品々とともに葬られた二人は、どのような人物だったのでしょうか。被葬者については皇族や有力豪族と結びつけるさまざまな説がありますが、誰であるかは確定していません。副葬品から大きな力を持っていた人物の姿は想像できても、その名前までは簡単にたどり着けないところに、古墳を学ぶ難しさがあります。

レプリカで見る、馬具の豪華さ

斑鳩文化財センターの常設展は、藤ノ木古墳から出土した主要な品々約60点の精巧なレプリカを中心に構成されています。実物の一部は橿原考古学研究所附属博物館で展示されており、こちらでは複製品と映像を通して、古墳や出土品について学べるようになっています。

展示で目を引いたのは、馬具の豊富さです。馬具全体についての説明があり、鞍などの部品が並んでいました。部品だけを見ていると、馬のどこに取り付けるのか分かりにくいものもありますが、全体の中での位置や役割を知ると、少しずつ形に意味が見えてきます。

なかでも、藤ノ木古墳の鞍金具には、象や龍、鳳凰などを表した透かし彫りが施されています。橿原考古学研究所附属博物館の解説でも、その技巧と装飾は、当時の東アジアにおいても際立ったものとして紹介されています。

鞍と聞くと、まずは馬に乗るための道具を思い浮かべます。しかし、これほど装飾に手間をかけたものを見ると、単に乗れればよいという道具ではなかったことが伝わってきます。これらを取り付けた馬と、その馬に乗る人物は、周囲からどのように見えていたのでしょうか。展示ケースの中の部品から、少しだけ当時の姿を想像したくなりました。

馬具のほかにも、鏡や土器、刀剣などが数多く展示されていました。他の博物館でも見慣れた種類の品々ですが、一つの古墳から出土したものとしてまとまっていると、その量や組み合わせに目が向きます。

形を見ても使い方が浮かばない「筒形品」

映像の中で特に取り上げられていたのが、金銅製筒形品です。

見た目は、中央がくびれた棒のような形で、表面には小さな飾りがたくさん付いていました。このように、動きに合わせて揺れる飾りを「歩揺」と呼びます。藤ノ木古墳では、筒形品だけでなく、冠や履にも歩揺が用いられています。

ただ、珍しいものだと説明されても、最初は何に使うものなのか、形からはなかなか想像できませんでした。鞍や剣なら、現代の生活で使うことがなくても用途は思い浮かびます。ところが、この筒形品は、どちらを上にして、どこに取り付けるのかさえ、見ただけでは分かりません。

この品は、石棺内の南側に葬られた人物の頭頂部付近から出土しています。頭飾りだったのではないかという見方もあるそうですが、実際に身につけた姿を想像するには、もう少し説明が欲しくなります。

きらびやかであることは分かっても、その使い方まではすぐに理解できないというのが、正直な感想です。一方で、何だかよく分からなかったからこそ、他の見慣れた出土品とは違って、記憶に残るものになりました。

東京で見た履から、百済と新羅への疑問が生まれる

金銅製履を見たときには、逆に、はっきりと思い出したものがありました。東京国立博物館の平成館で見た、熊本県和水町の江田船山古墳から出土した金銅製沓です。私には、両者の姿がとてもよく似て見えました。

帰宅後に調べると、東京国立博物館では、江田船山古墳の金銅製沓を、朝鮮半島の百済で作られたものと説明しています。また、日常的に履いて歩く靴ではなく、死者のための沓であることも紹介されていました。

<<金銅製沓>> 熊本県和水町・江田船山古墳
古墳時代・5~6世紀・金銅製
(東京国立博物館・平成館・2026/9/26 筆者撮影)

それなら、藤ノ木古墳の履も百済と関係するものなのでしょうか。そう考えたのですが、このあと訪れた橿原考古学研究所附属博物館では、馬具について「新羅的なもの」と「新羅的でないもの」を比較するような説明がありました。今度は、百済ではなく新羅との関係を考えた方がよいのだろうかと、少し混乱しました。

ただ、ここでは二つのことを分けて考える必要がありそうです。江田船山古墳の沓が百済製であることは、似ている藤ノ木古墳の履も同じ場所で作られた証拠にはなりません。また、馬具に新羅的な特徴があるという説明も、そのまま履の製作地を示すものではありません。

つい、「この古墳の出土品は、どこの国と関係するのか」と一つにまとめて理解したくなります。しかし、履と馬具では、比べるべき特徴も違うのでしょう。見た目が似ていること、文様や技法が似ていること、同じ地域で作られたことは、必ずしも同じではありません。

斑鳩文化財センターの図録でも、金銅製履について百済や新羅との関係が明記されているわけではありませんでした。今回は製作地についての答えにはたどり着きませんでしたが、以前見た品物との共通点に気づき、そこから疑問が生まれたこと自体は、見学の収穫だったと思います。

展示品を見てから、その眠っていた場所へ

センターの見学を終えたあと、藤ノ木古墳へ向かいました。

この日は石室の中に入ることはできませんでしたが、内部には明かりがついており、外から中をのぞくことができました。先ほどまで展示室で見ていた馬具や履、鏡や刀剣が、この場所に納められていたのだと思うと、古墳を見る感覚も少し変わります。

古墳だけを訪れていたら、外観を眺め、中をのぞいて、それで終わっていたかもしれません。先に出土品や埋葬の様子を知ったことで、目の前にはない品々まで含めて、石室の奥を想像することができました。

センターにあったパンフレットには、ふるさと納税の返礼品として、指定日に石室へ入れる特別見学も紹介されていました。これとは別に、一般向けの石室特別公開も行われています。普段は外から見る場所に、機会を改めて入ることができると知ると、また訪れる理由が一つ増えます。


藤ノ木古墳を見学したあとは、法隆寺駅へ戻り、そこからタクシーで橿原考古学研究所附属博物館に向かいました。

5月に見た展示、東京で見た金銅製沓、今回のセンターのレプリカ、そして実際の古墳。別々の場所で見ていたものが、少しずつ一つの話としてつながってきました。

古墳の名前と出土品を一度で覚えるのは、まだ難しいと感じます。それでも、これから藤ノ木古墳の名を見かけたときには、「法隆寺のあとに歩いて訪ね、石室の中をのぞいた、あの古墳」として思い出せそうです。展示室で得た知識に、現地を訪れた記憶が加わることの大切さを感じた見学でした。

旅程

東京

↓(新幹線 / JR特急はるか / JR大和路線)

法隆寺駅

↓(徒歩)

法隆寺:収蔵庫(旧金堂)

↓(徒歩)

法隆寺:西伽藍

↓(徒歩)

法隆寺:大宝蔵院 / 東院伽藍

↓(徒歩)

斑鳩文化財センター / 藤ノ木古墳

↓(徒歩)

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館

↓(徒歩)

(略)

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