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奈良県立橿原考古学研究所附属博物館:分からなさも楽しい、古代の馬具と研究者の熱量


奈良県橿原市の奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に行きました。

今回の奈良行きのきっかけは、「法隆寺みらいプロジェクト」の収蔵庫改修を支援するクラウドファンディングでした。その支援者限定の収蔵庫公開に参加し、法隆寺、斑鳩文化財センター、藤ノ木古墳を見学した後、タクシーで橿原へ移動しました。

この博物館を訪れるのは、今回で二度目です。前回は5月、キトラ古墳を見学した後に立ち寄りました。そのときに見た特別展「葬る―弥生人は墓に何を託したか?」は、説明パネルの文字が多く、強く印象に残っています。最近訪れる博物館では、短く分かりやすい説明を目にすることが多いのですが、ここでは「まだまだ伝えたいことがあります」とでも言うような、少し違う熱量を感じました。

今回の目的は、特別展「ウマと馬具―国宝・藤ノ木古墳出土品修理事業成果展2―」です。修理を終えた藤ノ木古墳出土の馬具のうち、普段は見る機会の少ないB・Cセットを中心に、馬そのものや馬具、保存科学の仕事を紹介する展覧会です。直前まで藤ノ木古墳の現地を歩いていたこともあり、そこで見た古墳と、そこから見つかった品々を結びつけるつもりで訪れました。

馬がいなかった時代から、馬の埴輪へ

展示は、馬に関する基本的な話から始まります。

3世紀の倭の様子を伝える『魏志倭人伝』には、牛や馬がいないという記述があります。これだけで当時の日本列島全体の状況を断定することはできませんが、少なくとも、後世のように馬が人々の暮らしに定着した社会としては描かれていません。

朝鮮半島から伝わった馬の飼育が、日本列島で本格的に広がるのは、古墳時代中期にあたる5世紀ごろです。各地の遺跡から見つかる馬の骨や歯、馬具、馬形埴輪などが、その広がりを知る手がかりになります。「古墳時代には馬がいた」と一括りにするのではなく、長い古墳時代の途中で、馬を飼い、扱う文化が広がっていったと考える必要があるようです。

会場には、大阪府の蔀屋北遺跡から出土した5世紀の馬の歯や、長野県の新井原・高岡古墳群から出土した馬の頭骨が展示されていました。馬具や埴輪だけでなく、実際に生きていた馬の一部を見ると、古代の馬が少し具体的な存在になります。また、馬の絵が線刻された円筒埴輪もあり、立体の埴輪とは違った形でも、馬の姿が残されていました。

馬形埴輪は、これまでも各地の博物館で何度も見ています。しかし、馬が日本に広がった時期と結びつけて見たことは、あまりありませんでした。これからは馬の埴輪を見たときに、まず5~6世紀ごろの馬文化の広がりを思い浮かべ、そのうえで年代や地域を確かめることができそうです。「馬の埴輪がある」と気づくだけだったところに、見るための手がかりが一つ加わりました。

馬だけでなく、馬を扱う人物(馬子)の埴輪も展示されていました。馬を連れてくれば、それだけで乗れるようになるわけではありません。育て、世話をし、道具を整え、扱い方を知る人が必要です。馬の姿の隣に人の姿があることで、動物の伝来だけではない、人と技術の移動にも想像が向かいました。


手書きのカードに残る、保存の仕事

続いて、藤ノ木古墳出土品の修理に関する展示を見ました。

ここで紹介されていたのは、出土品の美しさや歴史的な価値だけではありません。それをどのように調べ、修理し、今後も保存していくのかという仕事です。技術や試作品など、さまざまな展示がありましたが、私が一番惹かれたのは、手書きの保存処理カードでした。

カードには、細かな観察の記録が書き込まれていました。「白サビ?銀サビ?」といった記述もあり、目の前の状態を確かめながら、一つずつ記録を積み重ねている様子が伝わってきます。

それを見て、大学の考古学の授業で行った土器のスケッチを思い出しました。ただ眺めていると見過ごしてしまうことも、描いたり、言葉にしたりしようとすると、改めて確かめる必要が出てきます。もちろん授業の実習と専門的な保存処理は同じではありませんが、「よく見て、記録する」という作業に、少しだけ接点を感じました。

完成した解説パネルでは、調査によって分かったことが整理されて示されます。一方、手書きのカードには、観察の途中にある疑問まで残っています。国宝という大きな言葉の向こう側に、資料と向き合う人の手が見えたようで、しばらく眺めてしまいました。

朝は法隆寺で、火災に遭った壁画などを守る収蔵庫を見学していました。そして午後には、古墳の出土品を守る仕事を見ています。対象も方法も違いますが、この日は文化財そのものだけでなく、それを未来へ残すための仕事にも触れる一日になりました。

木製の馬具と、楽しそうな研究者の声

次の部屋へ進むと、研究員の方が来館者のグループに説明をしていました。

ここまでは、前回ほど文字の多さに圧倒されることもなく、少し余裕を感じながら見ていました。しかし、聞こえてきたのは「Aセットが」「Bセットが」「Cセットが」、そして「新羅的」「新羅的ではない」という言葉です。急に専門的な世界へ入った感じがしました。

それでも、難しいから離れようとは思いませんでした。研究員の方がとても楽しそうに話していたからです。内容をすべて理解できていたわけではありませんが、つい後ろで聞き入ってしまいました。

ほかの博物館にも、展示するものが好きで、深く研究している方々がいるはずです。それでも、この博物館では、その「好き」や「伝えたい」という気持ちが、展示室まであふれ出しているように感じます。前回はパネルの文字量から感じた熱量を、今回は人の声から感じました。それが奈良の地にあるというのも、よいなと思います。


馬具の展示では、木製のものが印象に残りました。斑鳩文化財センターで美しい金銅製馬具を見た直後だったため、木の鞍や鐙に目が向きました。

ただし、金銅の鞍と木の鞍が、まったく別の仕組みというわけではありません。藤ノ木古墳の華麗な鞍金具も、鞍を構成する前輪や後輪に取り付けられていたものです。金具だけを見ていると、鞍全体が金属でできていたかのように受け取ってしまいますが、実際の道具の姿を考えるには、残っていない部分にも目を向ける必要があります。

特に気になったのは、箸墓古墳の周濠から出土した木製の輪鐙です。鐙は、馬に乗るときに足を掛ける部分です。鞍が木製なのは何となく納得できますが、足に力のかかりそうな鐙まで木で作って、十分に使えたのでしょうか。金属製の印象が強かったため、素朴な疑問が浮かびました。

一方、蔀屋北遺跡では、馬形埴輪に表されたものと同じ形の、実際に使われた木製の鞍や輪鐙が見つかっています。木製だから実用品ではない、というわけではありません。出土して現在に残る姿と、当時使われていたときの丈夫さを、そのまま同じに考えてはいけないのでしょう。

BセットとCセットから始まる、もう一段深い世界

藤ノ木古墳は、6世紀後半に築造された古墳です。1985年の石室調査では多くの副葬品が見つかり、とりわけ精巧な装飾を施した金銅製の鞍金具が注目されました。龍や鳳凰、獅子、象などを表した意匠には、中国北方や朝鮮半島とのつながりが考えられています。直前に歩いてきた斑鳩の古墳が、東アジアへとつながっていくところに、出土品を見る面白さがあります。

その藤ノ木古墳の馬具について、今回の展示では「Bセット」「Cセット」という名前で説明が始まります。こちらとしては、まず「Aセットはどこにあるのだろう」というところからです。

図録を読むと、普段展示されているのは主にAセットで、B・Cセットは展示される機会が少ないものだと分かりました。常設展示にある華やかな鞍金具の前輪と後輪が、Aセットにあたるようです。よく知られた名品だけでなく、その陰に隠れがちな別の組み合わせへ目を向けるのが、今回の展示の狙いでもあるのでしょう。

さらに、BセットはAセットの下から出土し、Cセットは出土状況が明確ではないという説明もありました。同じ古墳から出た馬具でも、一まとめに扱うのではなく、組み合わせや見つかった位置を細かく確かめていることが分かります。

解説では、Aセットには新羅的な様相があり、B・Cセットは非新羅的であるとされていました。しかし、ここからが私には難しいところです。鞍を見比べると、BとCが似ているようには見えます。それでも、Aのどこを見れば「新羅的」と分かるのか、すぐには判断できません。

そもそも、比較の基準になる新羅の馬具が、頭に入っていないのです。

言葉の意味が分かることと、実物を見てその特徴を読み取れることは、別なのだと感じました。「朝鮮半島との交流がありました」という大きな説明なら理解できます。しかし、その交流を、金具の形や構造、装飾の違いから確かめようとすると、一気に難しくなります。研究員の方が楽しそうに話していたのは、きっとこの細かな違いの向こうに、さまざまなことが見えているからなのでしょう。

分からないことが残る満足感

続いて、藤ノ木古墳と同時期の馬具が展示されていました。群馬県の綿貫観音山古墳、長野県の飯田古墳群、滋賀県の甲山古墳、福岡県の桂川王塚古墳、奈良県平群町の烏土塚古墳など、各地の出土品が並んでいました。

これだけの資料が集まっているのですから、見比べれば分かることがたくさんあるのだと思います。しかし、正直なところ、私にはまだ、それぞれの特徴の違いを十分には読み取れませんでした。形が違うことには気づいても、その違いが年代や地域、技術のつながりの中で何を意味するのかまでは分かりません。


今回の見学で、馬や馬具については、新しく学べたことがありました。これから馬形埴輪を見るときの手がかりも増えました。その一方で、藤ノ木古墳の馬具をめぐる細かな議論については、入口に立ったところで終わった気がします。

それでも、不思議と満足感がありました。

すべてが分かりやすく整理され、理解できたと思って帰る博物館も楽しいものです。しかし、「ここには、自分がまだ見分けられない違いがある」と感じて帰るのも、悪くありません。いつか知識や経験が増えたとき、今回よく分からなかった展示を思い出すことがあるかもしれません。

手書きの保存処理カードに残る細かな観察も、研究員の方が楽しそうに語っていた馬具の違いも、同じように、一つの資料をよく見ることから始まっているように感じました。私にはまだ似たものに見える馬具の間に、研究者には違う歴史が見えているのかもしれません。

分からなかったことまで含めて、ほかの博物館とは少し違う楽しさのある見学でした。


閉館時刻より少し早めに博物館を出て、次は神武天皇の畝傍山東北陵へ向かいました。

旅程

東京

↓(新幹線 / JR特急はるか / JR大和路線)

法隆寺駅

↓(徒歩)

法隆寺:収蔵庫(旧金堂)

↓(徒歩)

法隆寺:西伽藍

↓(徒歩)

法隆寺:大宝蔵院 / 東院伽藍

↓(徒歩)

斑鳩文化財センター / 藤ノ木古墳

↓(徒歩)

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館

↓(徒歩)

神武天皇 畝傍山東北陵(四条ミサンザイ古墳)

↓(徒歩)

(略)

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