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法隆寺:大宝蔵院 / 東院伽藍:見えたもの、見えなかったもの、また見たいもの

奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺で、大宝蔵院と東院伽藍を見学しました。

今回、法隆寺を訪れた目的は、「法隆寺みらいプロジェクト」の収蔵庫改修を支援するクラウドファンディングの、支援者限定公開に参加することでした。収蔵庫の見学に加えて法隆寺の拝観券もいただいたので、西院伽藍を巡った後、大宝蔵院、東院伽藍へと足を延ばしました。

日本美術史を学び始めてから、仏像や絵画を見るときに、以前より気にすることが増えまた。ただ、知識があればすべてが分かるわけではありません。今回も、テキストで覚えた特徴と自分の印象が違ったり、本物を見れば分かると思っていたものが、思ったほど見えなかったりしました。そうした食い違いも含めて、興味深い見学になりました。

法隆寺にも、宝物をじっくり見られる場所がありました

大宝蔵院は、ほかのお寺でいう宝物館にあたる施設です。百済観音堂を中心に東西の宝蔵があり、法隆寺に伝わる数々の宝物が安置されています。

ただし、「法隆寺宝物館」という名前の建物は、奈良ではなく、東京国立博物館にあります。先週、その法隆寺宝物館を見学したときには、「法隆寺の宝物を見る場所が、東京にあるのは少し離れすぎているのでは」と感じていました。

東博に収められているのは、明治11年、1878年に法隆寺から皇室へ献納され、戦後に国へ移管された法隆寺献納宝物です。法隆寺の宝物すべてが東京へ移されたというわけではなく、寺に伝わる宝物とは、保管されてきた経緯が異なります。

実際に大宝蔵院へ入ってみると、法隆寺の境内にも、宝物をまとまった形で見る場所がしっかりあることが分かりました。東京で見たものを思い出しながら、今度は、それらが伝えられてきた法隆寺の境内で別の宝物を見ることになります。離れていることへの引っかかりは残りますが、両方を続けて訪ねたことで、自分の中ではつながりを感じられました。

「かわいらしい」よりも「モデルのような」六観音

最初に目に入ったのは、「伝六観音」と呼ばれる六体の菩薩像でした。7世紀の木造の像で、観音・勢至、文殊・普賢、日光・月光の名で伝わっています。

並んだ姿は非常に細く、すらっとしていました。白鳳の仏像といえば、かわいらしい顔つきだったはずだと思い出しながら見ていたのですが、私がまず感じたのは、かわいらしさよりも、モデルのようなスタイルのよさでした。

ところが、購入した図録を読むと、「童顔」という言葉が使われていました。自分が受け取った印象とは、少し違います。

もっとも、私は全身の細さや立ち姿に目を向け、図録の説明は顔つきに注目しているのかもしれません。童顔であることと、すらっとした姿であることは、必ずしも矛盾しないはずです。

それでも、「白鳳はかわいらしい」と言葉で覚えているだけでは、目の前の像のどこにその特徴が表れているのか、すぐには結びつきません。顔の輪郭なのか、目や口の形なのか、全体の雰囲気なのか。もう少し具体的に見られるようになると、時代ごとの特徴も、自分の感覚とつながってくるのだろうと思います。

お寺が違っても、見覚えのある聖徳太子

聖徳太子の、さまざまな年齢の姿を表した像も展示されていました。

それらを見て思い出したのが、先日訪れた元興寺です。細部まで覚えているわけではありませんが、二歳なら二歳、七歳なら七歳で、見覚えのある姿をしていました。別のお寺で見た像なのに、「あのとき見た太子も、こういう雰囲気だった」と感じられるのが面白いところです。

聖徳太子については、「実在しなかった」という話も耳にしていました。ただ、これは、そのまま歴史上の人物がいなかったという意味で受け取るべきではないようです。歴史上の厩戸王という人物と、後世の伝説や信仰の中で形づくられてきた聖徳太子のイメージは、分けて考える必要があります。太子の事績を伝える史料にも、歴史と信仰が入り混じっています。

例えば、二歳の太子が合掌する「南無仏太子像」は、二歳の春に東を向いて手を合わせ、「南無仏」と唱えたという説話を表しています。単に幼いころの容姿を想像したものではなく、特定の物語を形にした像なのです。

そう考えると、お寺が違っても似た姿になることには納得できます。同じ人物の顔を再現しているというより、共有された物語の中の、同じ場面を表しているのでしょう。

像の向こうに見えてくるのは、聖徳太子という人物だけではありません。太子をどのような存在として慕い、その姿を残そうとしてきたのかという、後世の人々の思いでもあるように感じました。

面の立体感と、思いがけず鮮やかな色

面の展示も印象に残りました。法隆寺には、舞楽に用いられた面も数多く伝わっています。

展示された面を見て、まず思い出したのは、先週、東博の法隆寺宝物館で見た伎楽面でした。今回の面にも立体感があり、私が普段思い浮かべる、比較的薄い能面のイメージとは少し違っていました。面と一口にいっても、その形や使われ方について、まだ知らないことが多そうです。

特に目を引いたのは、緑色や赤色が、思った以上にきれいに残っているものがあったことです。古い面を見るというより、鮮やかな顔がこちらを向いているような印象でした。

東博のデジタル法隆寺宝物館で見た、彩色を復元した伎楽面も思い出しました。古い文化財というと、どうしても色が落ち着いた姿を想像してしまいますが、目の前の色彩は、その先入観を少し崩してくれました。

本物の玉虫厨子は、写真より見やすいとは限りません

大宝蔵院で最も楽しみにしていたのは、玉虫厨子でした。

玉虫厨子は飛鳥時代の作品で、上部には仏殿の形をした小さな建物が載っています。透かし彫りの金具の下に玉虫の翅が使われていることが、その名前の由来です。仏像を納める厨子であるとともに、古い建築様式や仏教絵画を伝える作品でもあります。

テキストで特に気になっていたのは、台座に描かれた絵でした。その一つが、釈迦の前世の物語を表した「捨身飼虎図」です。飢えた虎の親子を救うために王子が自らの身を捧げる説話で、一つの画面の中に、物語の異なる場面が描かれています。

ただ、テキストの写真では、どこに何が描かれているのか、なかなか読み取れませんでした。本物を見れば、もう少し分かるのではないか。そんな期待を持って、厨子の前に立ちました。

ところが、実際の絵は、テキスト以上に見分けるのが難しいものでした。描かれている内容を知っていても、その場で一つ一つを確認するのは簡単ではありません。絵の構成を理解するという点では、事前にAIに用意してもらった、コントラストを調整した画像が、結局いちばん分かりやすかったように思います。

本物を見れば、写真で分からなかったことがすべて分かるわけではありませんでした。しかし、それは、本物を見る意味がなかったということでもありません。画像では絵の内容を理解し、現地では厨子全体の形や、絵が描かれている場所を確かめる。それぞれに違った役割があるのだと思います。

南倉では、「平成の玉虫厨子」も見ました。その鮮やかな姿を手がかりにすると、古い玉虫厨子にも、造られたばかりのころには、もっと豊かな色と輝きがあったのだろうと想像できます。

現在の姿を見ながら、かつての姿を思い浮かべる。その行き来ができたことも、今回の見学の収穫でした。

東院伽藍で、太子を慕った人々の時間に触れる

大宝蔵院の見学を終えた後は、東院伽藍へ向かいました。

東院は、聖徳太子が暮らした斑鳩宮の跡に、太子を追慕して営まれた場所です。その中心に立つ八角形の夢殿は、天平11年、739年に創建されたと伝わっています。東院の創立に尽力したのが、僧の行信です。

聖徳太子の像や行信の像などを拝観しましたが、堂内を見るための窓が小さく、西院の金堂よりも、さらに見づらく感じました。像があることは分かっても、顔つきや細かな造りまで確かめるのは難しく、もう少し近くで見たいという気持ちが残ります。

それでも、太子を祀る場所に、そこを整えた行信の像もあるということには、意味を感じます。太子の時代だけで完結するのではなく、太子を慕い、その記憶を受け継ごうとした人々の時代も、同じ場所に重なっているのです。

この日は、本尊の救世観音を拝観することはできず、舎利殿の内部も公開されていませんでした。次は、それぞれの公開時期を確かめて、改めて訪れたいと思います。


今回の大宝蔵院と東院伽藍では、学んできたことを確認できただけでなく、自分がまだうまく見られない部分にも気づきました。図録の説明と自分の印象が違うことも、本物の絵が思ったほど見えないことも、次に調べたり、見直したりするきっかけになります。

ひと通り見たから終わりというより、次に来るときには、どこを見たいかが少し増えた法隆寺でした。


この後は、斑鳩文化財センターと藤ノ木古墳へ向かいました。

旅程

東京

↓(新幹線 / JR特急はるか / JR大和路線)

法隆寺駅

↓(徒歩)

法隆寺:収蔵庫(旧金堂)

↓(徒歩)

法隆寺:西伽藍

↓(徒歩)

法隆寺:大宝蔵院 / 東院伽藍

↓(徒歩)

斑鳩文化財センター / 藤ノ木古墳

↓(徒歩)

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館

↓(徒歩)

(略)

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