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住吉大社:遣唐使の旅立ちを見守った海の神

大阪府大阪市の住吉大社に行きました。

この日は、中之島美術館で開催されている『フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展』を見るため、朝から大阪市に来ていました。大阪市立科学館、国立国際美術館、中之島美術館、適塾と巡ったあと、まだ時間に余裕があったため、少し足を延ばして住吉大社に向かいました。

住吉大社の近くは、百舌鳥古墳群や大阪府立弥生文化博物館などを訪れた際に何度か通っています。そのたびに一度行ってみたいと思っていたのですが、なかなか機会がありませんでした。今回ようやく初めての参拝となりました。

住吉大社は、全国にある住吉神社の総本社で、古くから海上交通や航海安全の神として信仰されてきた神社です。社伝では神功皇后によって現在の地に住吉大神が祀られたとされ、のちに神功皇后自身も第四本宮の祭神となりました。

鳥居の手前で、まず目に入ったのが「遣唐使進発の地」と刻まれた石碑でした。住吉大社が海上交通と関係の深い神社であることは事前に調べていましたが、遣唐使とのつながりまでは知りませんでした。奈良時代、唐へ向かう遣唐使も出航前に住吉大神へ航海の安全を祈ったとされています。当時の中国への航海は、現在とは比較にならないほど危険なものでした。ここで無事を願ってから海へ向かった人々がいたと考えると、「航海安全の神」という言葉が急に現実味を帯びてきます。

参道を進むと、住吉大社を代表する景観の一つである反橋、いわゆる太鼓橋がありました。遠くから見てもかなり急な弧を描いています。最大傾斜は約48度もあるそうで、実際、多くの参拝者が足元を確認しながら恐る恐る渡っていました。現在の石造りの橋脚は、慶長年間に淀殿が豊臣秀頼の成長を祈願して奉納したものと伝えられています。

橋を渡って四つの本宮へ向かいました。

屋根は一見すると茅葺のようにも見えましたが、実際にはヒノキの樹皮を重ねた檜皮葺です。現在の本殿は文化7年(1810)に造営されたもので、古い神社建築の形式を伝える「住吉造」として四棟すべてが国宝に指定されています。

特に面白かったのが、その配置です。第一本宮、第二本宮、第三本宮が一直線に並び、第四本宮だけが第三本宮の横に並んでいます。公式の解説では、この配置は大海原を進む船団にもたとえられています。また、四本宮はすべて西、つまり大阪湾の方向を向いています。実際に歩いていると単に少し変わった配置だと思いましたが、海の神を祀る神社だと考えると、西に向かって並ぶ社殿にも住吉大社らしさを感じます。

四本宮を参拝したあと、石舞台を見ました。そばには「重要文化財 石舞台」と刻まれた石碑があります。この石舞台は慶長12年(1607)の造営時の遺構で、豊臣秀頼が奉納したものと伝えられています。舞楽を演じるための施設で、厳島神社、四天王寺の舞台とともに「日本三舞台」に数えられています。反橋に続いて、ここでも豊臣家とのつながりが現れました。

続いて五所御前に向かいました。ここには「五」「大」「力」と書かれた三つの小石を拾い、お守りにすると心願成就につながるという信仰があります。五所御前自体も、住吉大神が最初に祀られた場所と伝えられている神聖な場所です。私も探してみましたが、「五」と「大」は見つかったものの、最後の「力」がどうしても見つかりません。しばらく探した末、今回は諦めることにしました。三文字そろえるのは、思っていたより難しいようです。

その後は楠珺社、浅澤社などを参拝し、大歳神社へ向かいました。ここには願いが叶うかどうかを占う「おもかる石」があります。一度石を持ち上げて重さを覚え、願い事をしたあとにもう一度持ち上げます。二度目の方が軽く感じれば願いが叶うとされているのですが、私の場合は二度目の方が重く感じました。どうやら今回の願い事は、そう簡単にはいかないようです。

再び境内を歩いていると、「算額顕彰碑」や「人間国宝 桂米朝記念碑」などもありました。古代から続く神社でありながら、数学や落語といった思いがけない文化とのつながりが現れるのも面白いところです。

最後に参拝したのが船玉神社でした。延喜式にも記載された古社で、もともとは船そのものに宿る神霊である「船玉」を祀り、船の安全を守る神として信仰されてきました。

特に興味深かったのが社殿の中の扉絵です。そこには昔ながらの船だけでなく、上空を飛ぶ飛行機まで描かれていました。航空関係者からも信仰されるようになり、現在では航海だけでなく航空の安全も祈られる神社になっているそうです。古代から続く「安全に遠くへ行き、無事に帰ってくる」という願いが、船から飛行機へと交通手段を変えながら受け継がれていることがよく分かる場所でした。

遣唐使の石碑から始まり、西の海を向く四本宮、そして船と飛行機が描かれた船玉神社まで、実際に境内を歩いてみると、住吉大社がなぜ長い間「海の神」として信仰されてきたのかがよく分かりました。同時に、反橋や石舞台に残る豊臣家との関係、五大力やおもかる石といった庶民の信仰など、長い歴史の中でさまざまな時代の文化が重なっている神社でもありました。

以前から行こうと思いながら後回しになっていた場所でしたが、今回訪れてみると、想像していた以上に見どころの多い神社でした。

参拝を終えると、次は豊臣石垣館へ向かいました。

旅程

東京駅

↓(JR / OsakaMetro)

肥後橋駅

↓(徒歩)

大阪市立科学館

↓(徒歩)

国立国際美術館

↓(徒歩)

大阪中之島美術館

↓(徒歩)

中之島駅

↓(京阪)

なにわ橋駅

↓(徒歩)

適塾

↓(徒歩)

北浜駅

↓(OsakaMetro/南海)

住吉大社駅

↓(徒歩)

住吉大社

↓(徒歩)

住吉大社駅

↓(南海/OsakaMetro)

谷町四丁目駅

↓(徒歩)

豊臣石垣館

↓(徒歩)

谷町四丁目駅

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