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子規の庭:正岡子規が奈良で過ごした最後の旅をたどる

奈良国立博物館の特別展「南都仏画」を見るため、奈良県奈良市を訪れました。奈良国立博物館はこの日遅くまで開館していたため、先に周辺を巡ることにし、元興寺、春日大社、依水園・寧楽美術館と歩いたあと、少し時間が余りました。

そこでGoogle Mapを開き、周辺に付けている「行ったことない」マークを探してみると、正倉院が目に入りました。その近くを見ているうちに見つけたのが「子規の庭」です。

子規の庭には、以前にも来たことがあります。コロナ禍の時期にタクシーを貸し切って奈良を観光した際、運転手さんに案内してもらったのですが、そのときは扉が閉まっていて、中へ入ることができませんでした。今回は予定していたわけではありませんでしたが、ちょうど近くにいたこともあり、改めて訪ねてみることにしました。

子規の庭は、日本料理店「天平倶楽部」の敷地内にあります。飲食店の敷地ということで少し入りにくそうにも見えますが、庭は見学できます。入口から石造りの階段を上っていくと、周囲より少し高くなった場所に庭が広がっていました。

この場所は、明治時代には「對山樓(たいざんろう)」という旅館があったところです。對山樓は江戸時代末期に創業したとされ、明治時代には奈良を代表する旅館の一つでした。伊藤博文や山県有朋、岡倉天心、フェノロサなども訪れたと伝えられています。現在の子規の庭は、この對山樓の跡地に整備されたもので、2006年に開園しました。

そして、この旅館に宿泊した人物の一人が、俳人の正岡子規です。

正岡子規は1867年、現在の愛媛県松山市に生まれ、明治時代の俳句や短歌の革新に大きな影響を与えました。1895年、日清戦争の従軍記者として中国へ渡った子規は、帰国途中に病状を悪化させ、神戸で療養します。その後、故郷の松山などを経て東京へ戻る途中、10月末に奈良へ立ち寄りました。病を抱えながらの旅であり、これが子規にとって最後の旅行となりました。奈良では数日間滞在し、對山樓を宿としました。

庭には小さな池があり、その周囲を歩いていくと、奥に句碑がありました。

「秋暮るる 奈良の旅籠や 柿の味」

奈良、旅籠、柿という、子規がこの場所で経験したものがそのまま一句の中に収まっています。現在の庭も、当時から残っていると考えられている柿の古木を中心に、子規が好んで詠んだ草花などを植えて整備されています。

柿といえば、子規の句として圧倒的に有名なのが、

「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」

です。

以前ここを案内してくれたタクシーの運転手さんからは、「この場所で法隆寺の句を詠んだ」というような説明を聞いた記憶があります。しかし、今回庭にあった説明を読むと、話はもう少し複雑なようです。

子規自身が後に書いた随筆『くだもの』には、奈良で柿を食べたときのことがかなり詳しく書かれています。對山樓で夕食を終えたあと、子規は宿の女性に御所柿を頼みました。柿をむいてもらいながら食べていると、「ボーン」と鐘の音が聞こえます。子規がどこの鐘なのか尋ねると、それはすぐ近くにある東大寺の鐘だと教えられたそうです。

つまり、この宿で実際に子規が経験したのは、「柿を食べていると東大寺の鐘が聞こえてきた」という場面でした。

一方、有名な句では鐘を鳴らす寺は法隆寺になっています。「柿くへば」の句そのものが、この庭で目の前の出来事をそのまま詠んだものだと考えるのは少し単純すぎるようです。子規は奈良滞在中に柿のある風景に強く心を引かれ、宿では柿を食べながら東大寺の鐘を聞き、さらに奈良の寺々を巡っています。そうした奈良での複数の体験が重なり、やがて「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」という一句につながっていった、と考えた方が自然なのでしょう。実際、この句の成立過程については複数の解釈があります。

こうして見ると、「柿くへば」という有名な一句だけを知っているのと、子規が実際に泊まった場所を歩くのとでは、ずいぶん印象が変わります。柿を食べている静かな夜に、近くの東大寺から鐘の音が響いてくる。その経験を知ったうえで句を読むと、子規にとって「奈良」と「柿」と「鐘」が強く結びついていたことがよく分かります。

庭自体はそれほど大きくありません。石段を上った小高い場所に池や木々が配置され、その奥に句碑がある、静かな庭です。しかし、ここが明治時代には奈良を代表する旅館の一つであり、病を抱えた子規が最後の旅の途中で滞在していた場所だと知ると、見えてくる景色も少し変わります。

前回来たときは入口が閉まっており、運転手さんの説明を聞くだけで終わりました。今回は偶然時間が余ったことで中まで歩くことができ、そのとき聞いた話についても改めて確認できました。予定外に立ち寄った場所でしたが、有名な俳句が生まれる背景にあった「奈良で柿を食べ、鐘を聞いた子規」という具体的な姿を知ることができたのが面白かったです。

庭を一通り歩いたあとは、さらに北へ進み、次の目的地である正倉院へ向かいました。

旅程

東京

↓(新幹線 / 近鉄)

近鉄奈良

↓(徒歩)

元興寺

↓(徒歩)

春日大社

↓(徒歩)

依水園寧楽美術館

↓(徒歩)

子規の庭

↓(徒歩)

転害門 / 正倉院正倉

↓(徒歩)

奈良国立博物館

↓(徒歩)

近鉄奈良

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