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名古屋市美術館:「ゴッホの跳ね橋と印象派の画家たち ヴァルラフ=リヒャルツ美術館所蔵」:ゴッホ目当てが、いつの間にか美術史の旅に

愛知県名古屋市の名古屋市美術館に行きました。

この日は、名古屋市博物館の特別展「リトアニア ―バルトの森に響く歌―」を目的に、朝から名古屋に来ていました。杉原千畝広場センポ・スギハラ・メモリアルを訪ね、名古屋市博物館で展示を見た後、白川公園にある名古屋市美術館へ移動しました。

お目当ては、「ゴッホの跳ね橋と印象派の画家たち ヴァルラフ=リヒャルツ美術館所蔵」展です。ドイツのケルンにある美術館のコレクションから、印象派とその前後に活躍した42名の画家による70点が紹介されています。

もともとは東山荘なども訪ねるつもりでしたが、名古屋に行く数日前、Xでこの展覧会の情報が流れてきました。「また、いつもの一瞬しか見られないやつかな」と思いつつ、やはりゴッホの名前には釣られます。予定を組み替えて、見に行くことにしました。

美術館の前に着くと、そこには一時間待ちの長い列が……ありませんでした。

人が少ないわけではありませんが、ロッカーも使えますし、一つひとつの作品を正面や少し横から、落ち着いて見ることができます。名古屋だからなのか、ほかの会場を巡回した後だからなのか、理由は分かりません。ただ、この日はとても快適に鑑賞できました。

今後、各地を巡回する展覧会は、東京以外の会場で見ることも積極的に考えようと思います。その土地の博物館や美術館、史跡を訪ねるきっかけにもなりますし、今回のように作品の前でゆっくり考えられるなら、旅と組み合わせる楽しみが増えます。

ほとんどの作品が撮影可能だったことも、ありがたい点でした。写真を残せるだけでなく、iPhoneのカメラをズームして、細かな筆づかいや描き込まれたものを確かめられます。全体を見て、細部を見て、もう一度全体に戻る。その行き来を楽しめる会場でした。

展示は、印象派以前からバルビゾン派、印象派、ポスト印象派、点描派、そして20世紀の色彩画家へと続きます。有名な画家の作品を一枚ずつ見る楽しみに加えて、美術史の流れをたどれる構成は、今の僕にとても合っていました。

「印象派以前」から、早くも分からなくなります

最初の章は「印象派以前」です。

僕の印象派に対する理解は、かなり大ざっぱなものでした。全体を見ると何が描かれているか分かるのに、拡大すると輪郭がぼんやりしている。まずは、そんな印象を持っていました。

会場では、刻々と変わる光景をその場でとらえ、油彩の風景画を戸外で完成させることが、印象派の革新として説明されていました。その前段階として、戸外で描かれた油彩の習作などが紹介されています。

19世紀のフランスでは、歴史画を重んじる伝統の中から、身近な生活や自然に目を向ける画家たちが現れました。鉄道網の発達やチューブ入り絵具の登場も、画家が戸外へ出て制作することを後押ししました。新しい絵画の誕生には、画家の感性とともに、移動や道具の変化も関わっていたのです。

ところが、ウジェーヌ・ブーダンの《トゥルーヴィル、浜辺》(1881年)を見ると、拡大しなくても人物がぼんやり描かれています。「これが印象派以前なの?」と、さっそく分からなくなりました。

ブーダンは、若いモネに戸外で描くことを教え、1874年の第1回印象派展にも参加した画家だったそうです。印象派へつながる重要な存在であり、両者の間に明確な境界線が引けるわけではありません。「印象派以前」という章も、作品の制作年を一律に区切るものではなく、新しい表現へつながる画家たちを紹介するものとして見ると、理解しやすく感じます。

先日、泉屋博古館東京で見たモネの《サン=シメオン農場の道》と《モンソー公園》は、描き方の違いが分かりやすい作品でした。それで少し分かったつもりになっていましたが、画家が変わり、作品が変わると、そう簡単にはいきません。

戸外制作についても、印象派を考える大切な手がかりではありますが、それだけですべての作品を分類できるわけではないようです。モネにも、戸外で描き始め、アトリエで手を加えて仕上げたと考えられる作品があります。どこで描いたかに加えて、光や色、筆の跡をどのように画面へ残そうとしたのかを見る必要があるのでしょう。

同じ章には、マネの《アスパラガスの束》(1880年)もありました。「戸外で描く」という説明が頭に残っていたため、静物画があることにも少し戸惑います。しかし、この章では戸外制作の歴史とともに、印象派へ影響を与えた画家たちの仕事も紹介されています。風景画だけを見ていれば分かるというものでもないのだと思いました。

この作品には、少し愉快な逸話があります。購入者のシャルル・エフリュッシが、800フランの代金に対して1000フランを支払うと、マネはアスパラガス一本を描いた小さな絵を追加で送りました。「束に一本足りませんでした」という趣旨の言葉を添えたそうです。代金を多く払った相手に、一本のアスパラガスで応える。そのやり取りを知ると、目の前の静物画にも人の気配が感じられます。

図録によると、この作品は後に、ドイツで印象派の受容を進めた画商パウル・カッシラーの手にも渡ったそうです。フランスで描かれた絵がドイツの美術館に収まり、今は名古屋に来ています。描かれたものだけでなく、絵そのものがたどった道にも歴史があります。

バルビゾン派で、以前の鑑賞とつながりました

第2章は「バルビゾン派」です。

この名前は、《サン=シメオン農場の道》の図録で目にしていました。「バルビゾン派の影響が見られる」と書かれていたものの、よく分からないまま読み進めていた言葉です。それが今回、まとまった展示として目の前に現れました。

1830年代から40年代にかけて、パリ近郊のフォンテーヌブローの森に近いバルビゾン村には、自然や農村に目を向ける画家たちが集まるようになります。身近な森や田園を絵の主題として描いた彼らは、後の印象派につながる存在でした。ただし、全員が同じ描き方を共有する、厳密な意味での一つの「学校」ではなかったそうです。

コローの《アル=パリュエル付近の古い煉瓦橋》(1871年)では、中央の橋がはっきりと描かれている一方、周囲の木や草は柔らかく、ぼんやりとしています。橋の存在感と、その周りを包む自然とで、描き方が違って見えました。

最初の章で考えていた「ぼんやりしているから印象派」という理解では、ここでも説明がつきません。一枚の絵の中でも、くっきり描くところと、柔らかく描くところがあるのです。

木々や草のある風景が続く中で、ミレーの《横たわる裸婦》(1846~47年)は、人物を中心にした作品でした。森へ集まった画家たちの章に裸婦が出てくることが、少し意外です。

図録では、ミレーは風景よりも人間に関心を向けていたと説明されていました。同じ土地や画家たちのつながりの中にいても、何を描きたいかはそれぞれ違います。「バルビゾン派」という名前が分かったことで、全員の絵まで一括りに分かった気になってはいけないのだと思いました。

モネの冷たい海と、ルノワールの柔らかな布

第3章で、いよいよ「印象派」に入ります。

1874年、モネやルノワールらは、官営の展覧会であるサロンとは別に、自分たちの作品を発表する場を設けました。しかし、その自由な筆づかいは、未完成であるかのように厳しく批判されました。「印象派」という呼び名にも、当初は揶揄する意味が込められていたそうです。今では美術館に多くの人を集める画家たちも、初めから広く受け入れられていたわけではありません。

モネの《エトルタの浜辺の漁船》(1883~84年)は、最初に見たとき、白い波がふと北斎を思わせました。

左側には切り立った断崖があります。それに比べると、波そのものが大きくそびえているわけではありません。それでも、白い波頭と、ところどころに置かれた濃い青色を見ていると、海から吹く風の冷たさが感じられるようでした。

細部の形を一つひとつ読み取るより先に、寒そうな海だと感じます。僕がこれまで「ぼんやりしている」と考えていた描き方は、こうした感覚を伝える力とも関わっているのかもしれません。

一方、ルノワールの作品では、柔らかさが印象に残りました。《リュエイユのセーヌ河岸》(1879年)では、草や木がふんわりとして見えます。そして、そのタッチが人物画になると、髪や服、布の質感にとてもよく合います。

《縫物をするジャン・ルノワール》(1898年)は、そのことを特に感じた作品でした。長い髪や服装から女の子のようにも見えますが、描かれているのはルノワールの幼い息子です。会場の解説では、4歳の次男ジャンと紹介されていました。

当時は幼い男の子の髪を長く伸ばす習慣があり、父親のルノワールも、息子の豊かな赤みのある金髪を描くことを好んだそうです。一方、ジャン自身には、その長髪を近所の子どもにからかわれたという回想も残っています。見る側には愛らしい姿ですが、モデルになる本人には、本人なりの事情もあったようです。

それでも、この絵の髪、服、手元の布には、ルノワールの柔らかな描き方がぴったりだと感じました。モネの海からは冷たい風を感じ、ルノワールの人物からは布や髪の柔らかさを感じます。同じ印象派の章に並んでいても、作品から受け取る感覚はずいぶん違いました。

セザンヌの梨と、ゴッホの跳ね橋

第4章は「ポスト印象派」です。

これは、印象派の次に一つの統一された描き方が登場した、という意味ではありません。印象派からさまざまな方向へ展開した動きをまとめた呼び名で、セザンヌ、ゴーガン、ゴッホらの表現が紹介されていました。

セザンヌの《梨のある静物》(1885年頃)は、背景が砂浜のように見えました。しかし、図録には壁と書かれていたので、室内の絵のようです。

梨にはしっかりとした輪郭がある一方、テーブルや壁は単純な形の組み合わせのように見えます。図録を読んで、「これは壁なのか」と確認することになりました。

僕はここで、印象派の「近づくとぼんやりして見える」描き方から、「しっかり描くものと、単純に描くものを分ける」方向へ変わったのだろうか、と考えました。ただ、セザンヌは、色を組み合わせて物の量感や画面の構造をつくることを探究した画家でもあります。そう考えると、梨だけでなく、周囲の色や形との関係にも目を向ける必要がありそうです。

そして、この章に、展覧会の名前にもなっているゴッホの《跳ね橋》(1888年)がありました。

1888年、ゴッホはパリから南フランスのアルルへ移りました。そこで見つけた運河の跳ね橋は、故郷オランダを思わせるものでもあったそうです。南フランスの光の中に、故郷につながる形を見つけたと思うと、この風景の見え方も少し変わります。

実際に見ると、橋の木組みやロープの構造が細かく描かれていることが気になりました。その一方で、木や草は太い線で描かれ、黄色や緑色が目立っています。空や水面、橋の淡い色と、周囲の植物の強い色との組み合わせが印象的でした。

日傘を差した女性は、影のような姿でも輪郭から分かります。しかし、同じように暗い色で描かれた左側のものは、最初は何なのかよく分かりませんでした。馬車だと知って見直すと、馬の姿も見えてきます。明るい空や雲に溶け込んでいるようで、分かってから見ると確かにそこにいるのが面白いところです。

ゴッホは、この橋を描く際、構図や遠近関係を確かめるための枠を使っていたことが、弟テオへの手紙から分かるそうです。鮮やかな色や勢いのある筆づかいに目を引かれますが、画面を組み立てるための慎重な準備もありました。細かく描かれた橋の構造を見ていると、そのことにも納得できます。

名前に釣られて見に来た一枚でしたが、近くで細部を見たり、少し離れて色の組み合わせを見たりする時間が取れたことで、印象に残るところが増えました。

ドット絵のようで、タイルのようでもある点描

第5章は「点描派」です。

美術史のテキストで初めて点描の絵を見たときは、「30年前のドット絵かな」と思いました。それくらい、描き方そのものに特徴があります。

シニャックの《カポ・ディ・ノリ》(1898年)は、その特徴が分かりやすい作品でした。遠くから見ると、美しい色のグラデーションが広がっています。ところが近づくと、それが細かな点や短い線の集まりになっています。

シニャックらは、印象派の筆づかいをさらに理論的に追究し、光や色の見え方に関する研究を取り入れました。《カポ・ディ・ノリ》も、線と色の関係をアトリエで慎重に組み立てた作品だそうです。目の前の風景から受けた感覚を、画面の上でどのような色の配置にすれば表せるのか。その工夫が、小さな筆の跡に詰まっているように感じました。

アシール・ロージェの《河辺の散歩道》(1888年)は、僕にはドット絵というより、銭湯のタイルのように見えました。小さな四角い色が並んでいる感じです。

実際、美術館の技法研究でも、この作品は四角い色の筆跡をモザイクのように並べて描かれたと説明されています。「点描」と聞くと丸い点を想像しますが、点や線の形、大きさ、並べ方にも違いがあるのです。

近くで見ると、周囲とは違う色がところどころに入っています。それなのに、離れると全体が滑らかな色の変化として見えます。一つひとつの色を確かめているときと、一枚の風景として見ているときとで、同じ絵なのに見ているものが変わるようでした。

撮影できることや、作品の前に立ち止まれる余裕があることのありがたさを、この章では特に感じました。

色が前に出てくる、20世紀への入り口

最後の第6章は「20世紀の色彩画家」です。

最初は、印象派のずっと後の時代へ進むような気がしました。しかし、よく考えると、第1回印象派展が1874年です。20世紀の始まりは、それほど遠い先ではありません。その短い間にも、画家たちはさまざまな方向へ進んでいたのです。

ここでは、フォーヴィスムやナビ派が紹介されていました。

マティスは、フォーヴィスムを代表する画家です。1905年の展覧会で、彼らの大胆な色彩や筆づかいが「野獣」と評されたことから、この呼び名が生まれました。自然の見た目を再現することに縛られず、色そのものの働きを探った画家たちです。

展示されていた《コルシカ、古い製粉所》(1898年)は、その呼び名が生まれる前の作品でした。

石造りと思われる建物や塀が描かれていますが、画面の左側を中心に、黄色が強く目に入ります。壁の一部にも黄色があるので、日が当たった明るさを、濃い黄色で表しているように僕には見えました。

これが、色彩そのものを前面に出すということなのでしょうか。1898年のこの作品を、後のフォーヴィスムとそのまま同じものとして見ることはできませんが、黄色の強さに注目すると、マティスがその先へ進んでいく手がかりがあるようにも感じます。

モーリス・ドニの《ピンク色の教会、ティヨロワ》(1921年)は、絵本やイラストの一場面のように見えました。ここまで見てきた印象派の絵と、どのようにつながるのか、最初はよく分かりませんでした。

ドニらナビ派は、ゴーガンの影響を受け、19世紀末に集まった画家たちです。奥行きのある世界を再現することに加えて、平面の上に色や形をどう配置するかを重視しました。ドニは、絵画を、一定の秩序で色を置いた平面として捉える考え方を示しています。

そう考えると、僕が絵本のようだと感じたことも、この作品を見る一つの手がかりになるのかもしれません。教会がどれくらい本物らしく描かれているかだけでなく、ピンク色が周囲の色とどう組み合わされ、画面全体がどんな雰囲気になっているかを見る。そこに目を向けると、前の章から続いてきた色への関心が、少しつながるように思いました。

分かったことと、分からなくなったこと

見終えてみると、印象派の前後で、画家たちが何に関心を向け、何を強調しようとしたのかを考えやすい展覧会でした。

身近な自然や人の暮らしを描くこと、変化する光をとらえること、物の形や画面の構造を考えること、色の並べ方を追究すること。展示室を進むにつれて、同じ風景や人物を描くにも、さまざまな見方があることが伝わってきます。

もちろん、年代は前後し、画家たちの活動も重なっています。ある流派が終わってから次の流派が始まったという、きれいな一本道ではありません。それでも、章ごとの違いを見ながら歩くことで、美術史のテキストに出てきた名前が、目の前の作品と少しずつ結び付いていきました。

「印象派は、拡大するとぼんやりしている絵」という最初の理解は、会場を歩くうちに何度も引っかかりました。分かったつもりだったところが分からなくなり、解説や図録を読んで、また少し見えてきます。その繰り返しも、今回の鑑賞の楽しさでした。

そして、そのための時間を持てたことが、とても大きかったと思います。気になった絵の前で立ち止まり、細部を確かめ、自分の感じたことと解説を照らし合わせられる。混み過ぎていない会場のおかげで、ゴッホの一枚を見に来た時間が、印象派の前後をゆっくりたどる時間になりました。


美術館を出た後は、同じ白川公園内にあるFUJIなごや科学館へ向かいました。

旅程

東京

↓(新幹線 / 名古屋市営桜通線)

瑞穂区役所駅

↓(徒歩)

杉原千畝広場センポ・スギハラ・メモリアル

↓(徒歩)

名古屋市博物館:特別展「名古屋には秀吉がおるでよ! ―秀吉と尾張の歴史―」

↓(徒歩)

名古屋市博物館:特別展「リトアニア ―バルトの森に響く歌―」

↓(徒歩)

桜山駅

↓(名古屋市営桜通線)

久屋大通駅

↓(徒歩)

名古屋市美術館

↓(徒歩)

FUJIなごや科学館

↓(徒歩)

名古屋駅

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