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長崎原爆資料館:残されたものが語る1945年8月9日

日帰りで長崎を訪れました。午前中は出島、大浦天主堂、グラバー園などを巡り、午後からは市内北部の平和公園周辺へ移動しました。最初に向かったのが長崎原爆資料館です。

午前中に歩いた長崎では、江戸時代の海外交流や幕末から明治にかけての西洋文化との関わりを感じる場所を多く見てきました。しかし午後になると、同じ長崎という都市の、まったく異なる歴史と向き合うことになります。

1945年8月9日午前11時2分、アメリカ軍のB29爆撃機から投下された原子爆弾が長崎市松山町上空約500メートルで炸裂しました。広島への原爆投下から、わずか3日後のことです。爆心地周辺は爆風、熱線、火災、放射線によって壊滅的な被害を受け、多くの人々が亡くなりました。

長崎原爆資料館の展示室へ入って印象に残るものの一つが、11時2分を指して止まった柱時計です。この時計は爆心地から南東約800メートルにあったもので、現在の展示では「永遠の11時2分」を象徴する資料となっています。

館内には、それ以外にも被爆によって姿を変えたさまざまな物が展示されていました。ゆがんだ貯水槽や、熱によって溶けてしまったビール瓶など、もともとはごく普通の日常生活の中にあった物です。

こうした展示を見ていると、原爆の被害を「都市が破壊された」という大きな数字や写真だけでなく、そこに暮らしていた一人ひとりの生活が突然断ち切られた出来事として感じます。時計も瓶も、本来は戦争とは何の関係もない生活用品です。それが今では被爆の実相を伝える資料になっています。

大きな展示として特に目を引いたのが、被爆した浦上天主堂の側壁を再現した実物大の造型です。浦上天主堂は爆心地から約500メートルという至近距離にあり、原爆によってほとんどが倒壊・焼失しました。資料館では、その南側側壁の一部を再現し、被爆直後の長崎を視覚的に伝えています。

長崎とキリスト教の歴史を考えると、この展示には別の重さも感じます。午前中に見た大浦天主堂は、長崎におけるキリスト教の長い歴史を伝える場所でした。一方、午後に見る浦上天主堂の被爆した姿は、その歴史の延長上に暮らしていた人々もまた、原爆によって大きな被害を受けたことを示しています。同じ一日の中でこの二つを見ることになったため、特に印象に残りました。

原爆そのものについての展示もあります。長崎に投下された原子爆弾は、その形状から「ファットマン」と呼ばれたプルトニウム型原子爆弾でした。資料館には長さ3.25メートル、直径1.52メートルという実物大模型があり、内部では通常爆薬によってプルトニウムを中心方向へ圧縮して核分裂反応を起こす「インプロージョン方式」が使われていたことも説明されています。

被爆した生活用品を見たあとにファットマンの構造を見ると、少し違った意味で恐ろしさを感じます。一方には人間が高度な科学技術によって作り上げた兵器があり、もう一方には、その結果として溶けたり、曲がったり、止まったりした日用品があります。兵器の「仕組み」と、その兵器が人間の生活にもたらした「結果」が同じ空間に並んでいること自体が、この資料館の重要な部分なのだと思います。

現在の長崎原爆資料館は1996年に開館しました。しかし、長崎における被爆資料の展示はそれ以前から続いています。1955年には長崎国際文化会館が建設され、そこですでに被爆資料の展示が行われていました。その施設を被爆50周年記念事業の一つとして建て替え、1996年4月に現在の長崎原爆資料館が開館しました。

原爆に関する写真や映像は、これまでにもテレビや広島平和記念資料館、ほかの博物館などで何度も見ています。そのため、展示されている出来事そのものについて「初めて知った」というものばかりではありませんでした。

しかし、不思議なことに、歳を重ねるほど、こうした資料を見ると以前より痛みを感じるようになった気がします。

若いころは「1945年に起きた歴史上の大事件」として見ていた部分が大きかったのかもしれません。それが歳を重ね、自分自身にも長い生活の積み重ねができてくると、時計や瓶の向こう側にあった普通の暮らしを以前より想像するようになります。そこに家族がいて、仕事があり、その日の予定があり、翌日も同じように生活が続くはずだった。その時間が1945年8月9日午前11時2分を境に突然失われたのだと考えると、同じ展示を何度見ても慣れるということはありません。

むしろ、何度も見てきたからこそ、その意味が少しずつ変わってくるのかもしれません。

資料館を出た後は、近くの原子爆弾落下中心地へ向かいました。現在は黒御影石の標柱が立っていますが、1945年8月9日には、その上空約500メートルで原爆が炸裂しました。周囲には被爆当時の地層も保存され、瓦やレンガ、熱で溶けたガラスなどが残されています。

資料館で見た11時2分の時計や、ゆがんだ物、溶けた瓶。それらが生まれる原因となった地点に実際に立つと、展示室で見たものと現在の長崎の街がつながります。

午前中に見た出島、大浦天主堂、グラバー園では、海外との交流によって発展した長崎の歴史を見ました。そして午後には、20世紀の戦争によって大きな傷を負った長崎を見ました。

長崎には、さまざまな時代の歴史が非常に近い距離に重なっています。

原子爆弾落下中心地碑を見たあと、隣の平和公園へ向かいました。午前中とはまったく違う長崎の歴史を歩く、午後の時間が続きます。

旅程

羽田空港

↓(飛行機)

長崎空港

↓(バス)

中央橋バス停

↓(徒歩)

眼鏡橋

↓(徒歩)

出島

↓(徒歩)

旧長崎英国領事館

↓(徒歩)

大浦天主堂

↓(徒歩)

グラバー園

↓(徒歩)

(略)

↓(徒歩)

オランダ坂

↓(徒歩)

長崎駅

↓(バス)

長崎原爆資料館

↓(徒歩)

平和公園

↓(徒歩)

浦上天主堂

↓(徒歩)

平和公園バス停

↓(バス)

長崎空港

地域の名物

  • 卓袱料理(しっぽくりょうり)

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