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神武天皇 畝傍山東北陵(四条ミサンザイ古墳):鳥居の向こうに、日本の始まりを思う

奈良県橿原市の、神武天皇 畝傍山東北陵に行きました。陵名は「うねびやまのうしとらのすみのみささぎ」と読み、宮内庁が初代の神武天皇の陵として管理している場所です。 今回奈良を訪れたのは、「法隆寺みらいプロジェクト」の収蔵庫改修を支援するクラウドファンディングに参加し、支援者限定の収蔵庫公開を見学するためです。法隆寺、斑鳩文化財センター、藤ノ木古墳を巡ったあと、タクシーで橿原考古学研究所附属博物館へ移動しました。神武天皇陵には、その博物館を見終えてから立ち寄りました。 前回この博物館を訪れたときにも、近くに神武天皇陵があることには気づいていました。ただ、そのときは展示の内容が難しく、見終わったころには頭がいっぱいになってしまい、さらに歩く気力が残っていませんでした。今回はそこまでの疲労感はなかったので、前回見送った場所まで足を延ばすことにしました。 天皇陵といえば、僕がこれまで訪れたところは、外から見るとたいてい森のような姿でした。名前のよく知られた天皇の陵でも、目の前の木々を眺めているだけでは、その違いを実感するのはなかなか難しいものです。神武天皇陵も、やはり森でした。 ただ、正面に二つの鳥居が見え、その姿が、これまで見たほかの陵よりも少し豪華に感じられました。もっとも、「初代天皇の陵」ということで、僕の方が勝手に特別なものとして受け止めていたのかもしれません。同じように森を眺めていても、誰の陵とされているかによって、印象は変わるものです。 神武天皇は、『古事記』や『日本書紀』で初代天皇とされる人物です。日向から東へ向かい、大和に入って橿原で即位したという物語が伝えられています。『日本書紀』の紀年に従えば、その即位は紀元前660年になります。ただし、こうした年代や事績には神話・伝承の要素が強く、神武天皇の実在が歴史学的に確認されているわけではありません。 陵墓そのものの歴史を調べてみると、現在の場所が神武天皇陵と定められたのは、江戸時代末の文久3年(1863年)でした。陵墓の場所を定めることを「治定」といいますが、このときの治定に伴って整備が行われ、明治以降も手が加えられてきました。初代天皇の陵と聞くと、ひたすら遠い昔を想像しますが、現在の景観には、もっと新しい時代の歴史も重なっています。 また、「四条ミサンザイ古墳」という呼び名もありますが、奈良県の案内では、古墳で...

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館:分からなさも楽しい、古代の馬具と研究者の熱量

奈良県橿原市の奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に行きました。 今回の奈良行きのきっかけは、「法隆寺みらいプロジェクト」の収蔵庫改修を支援するクラウドファンディングでした。その支援者限定の収蔵庫公開に参加し、法隆寺、斑鳩文化財センター、藤ノ木古墳を見学した後、タクシーで橿原へ移動しました。 この博物館を訪れるのは、今回で二度目です。前回は5月、キトラ古墳を見学した後に立ち寄りました。そのときに見た特別展「葬る―弥生人は墓に何を託したか?」は、説明パネルの文字が多く、強く印象に残っています。最近訪れる博物館では、短く分かりやすい説明を目にすることが多いのですが、ここでは「まだまだ伝えたいことがあります」とでも言うような、少し違う熱量を感じました。 今回の目的は、特別展「ウマと馬具―国宝・藤ノ木古墳出土品修理事業成果展2―」です。修理を終えた藤ノ木古墳出土の馬具のうち、普段は見る機会の少ないB・Cセットを中心に、馬そのものや馬具、保存科学の仕事を紹介する展覧会です。直前まで藤ノ木古墳の現地を歩いていたこともあり、そこで見た古墳と、そこから見つかった品々を結びつけるつもりで訪れました。 馬がいなかった時代から、馬の埴輪へ 展示は、馬に関する基本的な話から始まります。 3世紀の倭の様子を伝える『魏志倭人伝』には、牛や馬がいないという記述があります。これだけで当時の日本列島全体の状況を断定することはできませんが、少なくとも、後世のように馬が人々の暮らしに定着した社会としては描かれていません。 朝鮮半島から伝わった馬の飼育が、日本列島で本格的に広がるのは、古墳時代中期にあたる5世紀ごろです。各地の遺跡から見つかる馬の骨や歯、馬具、馬形埴輪などが、その広がりを知る手がかりになります。「古墳時代には馬がいた」と一括りにするのではなく、長い古墳時代の途中で、馬を飼い、扱う文化が広がっていったと考える必要があるようです。 会場には、大阪府の蔀屋北遺跡から出土した5世紀の馬の歯や、長野県の新井原・高岡古墳群から出土した馬の頭骨が展示されていました。馬具や埴輪だけでなく、実際に生きていた馬の一部を見ると、古代の馬が少し具体的な存在になります。また、馬の絵が線刻された円筒埴輪もあり、立体の埴輪とは違った形でも、馬の姿が残されていました。 馬形埴輪は、これまでも各地の博物館で何度も見ています。...

斑鳩文化財センター / 藤ノ木古墳:一つの石棺、二人の眠り、いくつもの謎

奈良県生駒郡斑鳩町の斑鳩文化財センターに行きました。 この日は、「法隆寺みらいプロジェクト」の収蔵庫改修を支援するクラウドファンディングに参加したことから、支援者限定の収蔵庫公開のために法隆寺を訪れていました。収蔵庫や境内を見学したあと、近くにある藤ノ木古墳について学ぼうと、斑鳩文化財センターへ向かいました。 藤ノ木古墳を今回の訪問先に加えたのは、法隆寺周辺の見どころをAIに調べてもらったことがきっかけです。そのときは、初めて知った古墳のつもりでした。ところが、このあと訪れた橿原考古学研究所附属博物館で、実は5月にも藤ノ木古墳の出土品の修復に関する特別展示を見ていたことに気がつきました。 博物館を巡っていると、さまざまな古墳の出土品に出会います。鏡や刀剣、土器など、同じ種類のものも多いため、見た記憶はあっても、それがどの古墳から出土したのかまでは、なかなか結びつきません。今回は、展示室で見ていた品々と、実際にそれらが眠っていた場所とが、ようやくつながる訪問になりました。 一つの石棺に眠っていた二人 藤ノ木古墳は、6世紀後半に築かれた、直径約50メートル、高さ約9メートルの円墳です。法隆寺の西側に位置し、1985年に始まった発掘調査によって、その内部の様子が明らかになっていきました。 大きな特徴は、盗掘を受けていない状態で、多くの副葬品が残されていたことです。さらに、1988年の調査では、石棺の中に二人の被葬者が確認されました。石室に二つの棺が置かれていたのではなく、一つの石棺に二人が葬られていたという点が印象に残りました。 これほど豪華な品々とともに葬られた二人は、どのような人物だったのでしょうか。被葬者については皇族や有力豪族と結びつけるさまざまな説がありますが、誰であるかは確定していません。副葬品から大きな力を持っていた人物の姿は想像できても、その名前までは簡単にたどり着けないところに、古墳を学ぶ難しさがあります。 レプリカで見る、馬具の豪華さ 斑鳩文化財センターの常設展は、藤ノ木古墳から出土した主要な品々約60点の精巧なレプリカを中心に構成されています。実物の一部は橿原考古学研究所附属博物館で展示されており、こちらでは複製品と映像を通して、古墳や出土品について学べるようになっています。 展示で目を引いたのは、馬具の豊富さです。馬具全体についての説明があり、鞍な...

法隆寺:大宝蔵院 / 東院伽藍:見えたもの、見えなかったもの、また見たいもの

奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺で、大宝蔵院と東院伽藍を見学しました。 今回、法隆寺を訪れた目的は、「法隆寺みらいプロジェクト」の収蔵庫改修を支援するクラウドファンディングの、支援者限定公開に参加することでした。収蔵庫の見学に加えて法隆寺の拝観券もいただいたので、西院伽藍を巡った後、大宝蔵院、東院伽藍へと足を延ばしました。 日本美術史を学び始めてから、仏像や絵画を見るときに、以前より気にすることが増えまた。ただ、知識があればすべてが分かるわけではありません。今回も、テキストで覚えた特徴と自分の印象が違ったり、本物を見れば分かると思っていたものが、思ったほど見えなかったりしました。そうした食い違いも含めて、興味深い見学になりました。 法隆寺にも、宝物をじっくり見られる場所がありました 大宝蔵院は、ほかのお寺でいう宝物館にあたる施設です。百済観音堂を中心に東西の宝蔵があり、法隆寺に伝わる数々の宝物が安置されています。 ただし、「法隆寺宝物館」という名前の建物は、奈良ではなく、東京国立博物館にあります。先週、その法隆寺宝物館を見学したときには、「法隆寺の宝物を見る場所が、東京にあるのは少し離れすぎているのでは」と感じていました。 東博に収められているのは、明治11年、1878年に法隆寺から皇室へ献納され、戦後に国へ移管された法隆寺献納宝物です。法隆寺の宝物すべてが東京へ移されたというわけではなく、寺に伝わる宝物とは、保管されてきた経緯が異なります。 実際に大宝蔵院へ入ってみると、法隆寺の境内にも、宝物をまとまった形で見る場所がしっかりあることが分かりました。東京で見たものを思い出しながら、今度は、それらが伝えられてきた法隆寺の境内で別の宝物を見ることになります。離れていることへの引っかかりは残りますが、両方を続けて訪ねたことで、自分の中ではつながりを感じられました。 「かわいらしい」よりも「モデルのような」六観音 最初に目に入ったのは、「伝六観音」と呼ばれる六体の菩薩像でした。7世紀の木造の像で、観音・勢至、文殊・普賢、日光・月光の名で伝わっています。 並んだ姿は非常に細く、すらっとしていました。白鳳の仏像といえば、かわいらしい顔つきだったはずだと思い出しながら見ていたのですが、私がまず感じたのは、かわいらしさよりも、モデルのようなスタイルのよさでした。 ところが、購入した図録...

法隆寺:西院伽藍:土の表情、壁の記憶、人の祈り

奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺で、西院伽藍を拝観しました。 今回、法隆寺を訪れた目的は、「法隆寺みらいプロジェクト」の収蔵庫改修を支援するクラウドファンディングの返礼として行われた、支援者限定の収蔵庫公開です。収蔵庫の見学に加えて法隆寺の拝観券もいただいたので、焼損した金堂壁画を見たあと、その壁画がもともとあった金堂へと向かいました。 金堂、五重塔、大講堂といえば、法隆寺を代表する建物です。僕もこれまで何度か訪れています。友人の会社の社員旅行に参加してバスガイドさんの説明を聞いたこともあれば、タクシーを貸し切り、運転手さんに案内してもらったこともあります。ただ、そのころは歴史や美術への関心が今ほど強くなく、説明をなんとなく聞き、建物や仏像を眺めて、それで終わっていました。 法隆寺は、推古天皇と聖徳太子によって607年に創建されたと伝えられます。一方、『日本書紀』には670年の火災の記事があり、現在の金堂や五重塔を中心とする西院伽藍は、その後に再建されたものと考えられています。聖徳太子ゆかりの寺というだけでなく、その後の人々が再建し、守り続けてきた寺でもあるのです。 今回は、日本美術史を学び、金堂の釈迦三尊像や壁画についても、テキストで繰り返し見てきました。しかも、つい先ほど収蔵庫で実物の壁画を見たばかりです。見慣れた場所でありながら、以前とは違う気持ちで金堂に向かいました。 金堂の暗がりで、以前の自分を思い出す 金堂の中は、思っていたよりも暗く感じました。 そこには、テキストで何度も見た釈迦三尊像がありました。ただ、写真のように細かいところまで見えるわけではありません。内陣に入れるわけでもなく、限られた位置から、暗がりの中の像を見つめることになります。勉強してから来れば、実物を前にいろいろなことを確かめられるだろうと思っていましたが、知識とは別に、「実際に見えるか」という問題もあるのだと感じました。 金堂の釈迦三尊像は、止利仏師の作として知られる飛鳥時代の金銅仏です。光背の銘文によれば、聖徳太子の病気平癒を願って造り始められましたが、完成前に太子が亡くなったため、その冥福を祈る像となり、623年に完成したとされています。美術史の代表作であると同時に、身近な人を失った人々の願いが込められた仏像でもあります。 壁画も、拝観できる位置からは角度がつき、なんとか見えるという印象...

法隆寺:収蔵庫:「収蔵庫」の中にあった、もう一つの金堂

奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺に行きました。 今回の目的は、通常の法隆寺拝観ではありません。「法隆寺みらいプロジェクト」として行われている、金堂壁画収蔵庫の改修と将来の一般公開を目指したクラウドファンディングに支援し、その支援者限定公開に参加するためです。 支援額は12,000円で、収蔵庫の見学に加えて法隆寺の伽藍拝観券も付いています。通常の拝観料と比べれば高く感じるかもしれませんが、文化財保存への寄付を兼ね、普段は見ることのできない場所に入れることを考えると、個人的には十分に価値のある内容でした。 もっとも、参加するまで私は「収蔵庫」というものを少し勘違いしていました。 以前、キトラ古墳の壁画公開に行った際、非常にもろい壁画が厳重に管理されたケースの中に保存され、それをガラス越しに見学しました。そのため今回も、倉庫のような建物の中に金堂壁画が一枚ずつ特殊なケースに収められ、それを見るようなものを想像していました。 ところが、実際の収蔵庫はまったく違いました。 法隆寺金堂では、昭和24年(1949年)1月26日、解体修理中に火災が発生しました。金堂そのものが失われたわけではありませんが、初重内部が焼け、壁画も甚大な被害を受けました。焼損した壁画と木部はその後取り外され、収蔵庫の中で、もとの金堂内部の位置関係が分かるような形で保存されています。 つまり収蔵庫に入るということは、単に「焼けた壁画を見る」というより、1949年の火災を受けた金堂内部そのものに近い空間へ入っていく体験でした。 収蔵庫は通常の博物館や資料館とも違います。手荷物を預け、靴にもカバーをかけてから中に入ります。そして法隆寺の僧侶の方の案内で、約30分かけて見学しました。 案内をしてくださった方は、壁画だけでなく保存技術や調査についての質問にもかなり専門的に答えていました。僧侶でもありながら、研究者や学芸員もされている方かもしれません。 最初に説明されたのが、法隆寺金堂壁画を記録してきた歴史です。 火災が起きる14年前の昭和10年(1935年)、京都の便利堂によって金堂壁画の大規模な写真撮影が行われています。このとき撮影されたガラス原板が残っていたことが、のちに極めて大きな意味を持つことになりました。 現在では、この写真資料を高精細にデジタル化するだけでなく、富士フイルムの技術によって、当時記録された色情...

東京国立博物館:平成館:教科書で覚え、博物館で迷う古代史

東京都台東区の東京国立博物館・平成館に行きました。 この日は、国立科学博物館の特別展「いきもの超ワールド展」を見た後、東京国立博物館へ向かいました。来週、奈良の法隆寺に行く予定があるため、まず法隆寺宝物館を見学し、その後、本館、東洋館と回り、最後に平成館の考古展示室へ行きました。 平成館の考古展示室には以前にも一度来ていますが、今回は大学で学んだ考古学の復習と、来週訪れる予定の藤ノ木古墳の予習も兼ねています。 展示は旧石器時代から始まり、縄文、弥生、古墳時代へと、日本列島の歴史を順番に追えるようになっています。 縄文土器は、早期、前期、中期、後期、晩期と時期ごとに並べられていました。 大学の考古学では、縄文時代早期の土器には底が尖ったものがあると習いました。それ以前、人々が動物の胃袋や皮など袋状の容器を利用していたため、その形状が初期の土器にも影響したという説明です。 実際に展示を見ると、底が尖っていたり、細くなっていたりして、そのまま平らな場所に置くには不安定そうな土器が並んでいました。その後、時代が進むにつれて平底のものが増え、縁の形や文様も複雑になっていきます。 ところが、晩期の展示を見ても、底の尖ったような土器が残っていました。 ここで改めて感じたのは、「ある時代の特徴」と「その時代に実際に存在したもの」は同じではないということです。仏像を勉強していても、飛鳥時代、白鳳時代、天平時代など、それぞれに代表的な様式があります。しかし実際には、ある時期になったから一斉に新しい様式へ切り替わるわけではありません。 縄文土器も同じで、時代ごとの大きな傾向はありながら、その中には多くの地域差や用途の違い、古い形式の継続があったのでしょう。教科書では整理された歴史を学びますが、博物館に並ぶ実物を見ると、その整理からはみ出すものがたくさんあることが分かります。 日本美術史のテキストでは、縄文時代晩期になると、器面いっぱいに文様を施すのではなく、無文の部分、つまり空白を生かすような構成も紹介されていました。その点も実物で確認したかったのですが、欠損部分が補修されている土器も多く、今回ははっきり確認できませんでした。 図録を帰宅後に見ていると、日本美術史の本に出てきた巻貝形土製品も掲載されていました。しかし写真を撮った記録もなく、実物を見た記憶もありません。すでに法隆寺宝物館、...