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子規庵:「ごてごて」と草花茂る小庭へ

東京都台東区の子規庵に行きました。

この日は、東京藝術大学大学美術館で開催されている「藝大式 美術の“ミカタ”―この夏、藝大生になる―」を見るために台東区に来ていました。しかし、台風の影響で雨が降っていたため、その前に屋内を中心に見学できそうな場所として子規庵に立ち寄ることにしました。

正直なところ、ここに正岡子規に関係する史跡があること自体、すっかり忘れていました。Google Mapを見ると「行きたい」マークがついていたため、以前どこかで調べたことがあったようです。

正岡子規といえば、やはり故郷の愛媛県松山市を思い浮かべます。私も松山では子規記念博物館や子規堂を訪れているため、その後に子規の史跡を追加で調べることはなかったように思います。

過去のChatGPTの履歴を調べてみると、どうやら永井荷風に関係する史跡を調べたときに子規庵が出てきたようです。さらに正直に言えば、今度は永井荷風についてなぜ調べたのかが思い出せません。

AIを使うようになってから、以前とは比べものにならないほど広い範囲のことを気軽に調べられるようになりました。当然、そのすべてを人間の頭で記憶しておくことはできません。しかし、忘れていた情報が数年後に思わぬところで再び現れ、それをきっかけに実際の場所を訪れるというのも面白いものです。


この日、雨が降っていても子規庵へ行こうと思ったのには、もう一つ理由がありました。訪問前に少し調べたところ、9月19日は正岡子規の命日だと分かったからです。

正岡子規は1867年に伊予国、現在の愛媛県松山市に生まれました。俳句や短歌の革新を進め、明治時代の日本文学に大きな足跡を残しましたが、若くして結核を患います。1894年から東京・根岸のこの場所で母の八重、妹の律とともに暮らし、病状が悪化してからも句や短歌、随筆を書き続け、1902年9月19日に34歳で亡くなりました。

運命のようなものを強く感じるタイプではありませんが、せっかく訪れるのであれば、こうした関連のある日に訪れた方が記憶にも残りそうです。そう考えて、雨の中を子規庵へ向かいました。


中に入って最初に感じたのは、家の小ささでした。

歴史上の人物の旧宅というと、大きな屋敷と庭を想像してしまいます。そのため、子規庵は余計に小さく感じます。子規が病室兼書斎として過ごした六畳の日本間も、展示資料が置かれていることもあって、かなりコンパクトな空間に見えました。

しかし、ここが晩年の子規にとって文学の大きな舞台となりました。病床にありながら、子規のもとには俳句や短歌を学ぶ人々や友人たちが集まりました。小さな家でありながら、近代俳句や短歌の発展につながる交流が行われていた場所でもあります。

座机の先にあるガラス窓から庭を見ると、糸瓜棚が見えました。

子規の命日である9月19日は「糸瓜忌」と呼ばれています。その名前だけを知るのと、実際に子規が暮らした六畳間から糸瓜のある庭を見るのとでは、かなり印象が違います。


雨の日でしたが、庭にも出てみました。

そこには、

「ごてごてと 草花植ゑし 小庭かな」

という『小園の記』の句が紹介されていました。

ここまで子規庵について「小さい、小さい」と書いてきたので少し気になっていましたが、本人も「小庭」と言っているので、許してもらえるでしょう。

しかも、この日の庭はまさに「ごてごて」という言葉が似合う状態でした。傘を差して歩いていても、植物の葉についた雨水が服にしみ込んでくるほど草木が茂っています。整然と造られた大名庭園などとはまったく違いますが、だからこそ生活の中の庭という感じがしました。

子規にとって、この小さな庭は病床から眺める世界でもありました。自由に外出することが難しくなっていく中で、庭に咲く草花や鳥、虫などを観察して作品にしていきます。子規がこの庭を「小園は余が宇宙」と表現したという話を知ると、狭い庭の見え方も変わってきます。

庭の先には、子規の門弟で、のちに子規庵の保存にも力を尽くした寒川鼠骨の句碑がありました。

「三段に雲 南北す 今朝の秋」

この日は台風が近づいていたため、空には三段どころではない雲が広がっていました。しかし、台風がやって来るのもまた秋です。句が詠まれた時代とはまったく違う空を見ながら、それでも同じ季節を感じられるのが俳句の面白いところかもしれません。


さらに進むと、子規の絶筆三句を刻んだ石碑がありました。文字はかなり薄くなっていて、その場ではよく読めませんでしたが、いただいた資料に三句が掲載されていたので、帰ってから改めて読むことができました。

「をとゝひの へちまの水も 取らざりき」

「糸瓜咲て 痰のつまりし 佛かな」

「痰一斗 糸瓜の水も 間にあはず」

子規は亡くなる直前まで激しい苦痛に苦しんでいました。三句を読むと、その最後の状況がかなり直接的に伝わってきます。

歴史上の偉人というと、死を前にして悟りを開いたような言葉を残す人物像を無意識に想像してしまいます。しかし、子規の絶筆から感じられるのは、もっと生々しい身体の苦しさです。

これほど文学史に名を残した人物でも、最後まで病気の苦痛を抱えた一人の人間だったのだと思うと、教科書などで知る「正岡子規」とは少し違った姿が見えてきました。


この日は、普段とは違って蔵も公開されていました。

中には眼鏡をはじめ、子規にゆかりのある品々が展示されていました。外から見るとそれなりの大きさがあるように見えた蔵も、中に入ってみると非常に小さなものでした。これまで豪商の屋敷などで大きな蔵を見る機会が多かったため、余計に小さく感じたのかもしれません。

子規庵の建物そのものは、1945年の空襲で一度焼失しています。その後、子規の門弟であった寒川鼠骨らの尽力によって1950年にほぼ元の姿で再建されました。一方、子規の死後に造られた蔵は空襲を免れたため、中に収められていた遺品も守られました。

そのため、現在の子規庵は単純に「正岡子規が住んでいた建物がそのまま残っている場所」ではありません。それでも、かつての間取りを再現した小さな家、六畳の病室、そこから見える糸瓜棚と庭、そして守られてきた遺品を一緒に見ることで、子規が晩年をどのように暮らしたのかを想像できます。

私は正岡子規について特別詳しいわけではありません。しかし、この場所を歩いていて強く印象に残ったのは、その質素さと小ささでした。

小さな家、小さな六畳間、小さな庭、小さな蔵。

しかし、その小さな空間で、近代日本の俳句や短歌に大きな影響を与える仕事が続けられました。そして、病床から見える小さな庭さえ、子規にとっては一つの宇宙になりました。

たまたまAIで調べたことがGoogle Mapの「行きたい」マークとして残り、それを忘れた頃に再発見し、偶然にも子規の命日に訪れることになりました。

雨の中の糸瓜棚や、草木の茂った「小庭」を見た光景は、確かに普通の日に訪れるよりも記憶に残りそうです。


子規庵を出たあとは、すぐ隣にある書道博物館へ向かいました。

旅程

東京

↓(JR)

鶯谷駅

↓(徒歩)

東京藝術大学大学美術館

↓(徒歩)

子規庵

↓(徒歩)

書道博物館

↓(徒歩)

鶯谷駅

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